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平日の夜10時。
流行らないジャズバーとしては、まずまずの入りだ。
席は6割くらい埋まっている。酔っ払った男が大声で何か言って、女の大笑いが続く。狭い店内を、さざ波のような会話が満たし、時折り大波が打ち寄せてその他の音をかき消す。
マスターはカウンターの向こうで忙しそうにカクテルやつまみを作っている。アルバイトの女の子が客席に運ぶと酔っ払いが機嫌良さそうに声をかける。女の子は笑顔で応えて、空いたグラスや皿を回収する。
”My One and Only Love"を弾き終えた僕は、さりげなく客席を見回してビールを一口啜る。アルコールで出来上がった客から僕の存在は忘れ去られている。
さて、と息を吐いて、カバンからタブレットを取り出し、バッハの平均律第1巻のアイコンをタップする。スクロールしてプレリュード5番のDメジャーで止める。指が覚えている曲だから、楽譜を追う必要はない。
ゆっくりと音を確かめるように弾く。左のベースライン、右のメロディ、いずれも構造は単純だ。それでも難しい曲である。薬指と小指が絡むとテンポ、音価、大きさがブレる。グレン・グールドは親の仇でも取るかのように高速で演奏していた。天才の考えることはよく分からない。昔の映画にも出てきたな。確か太ったドイツ人女性が主役で、弾いてたのは・・・誰だっけ?思い出せない。
次に練習中のフーガ12番を弾く。僕の腕前では速度を落として弾くだけで精一杯だ。ミスタッチしたところにチェックを入れる。他にもプレリュードとフーガをいくつか弾き終わってまたビールを一口。酔っ払いたちは誰もバッハを気にしていない。
次はアドリブだ。左手でコードやベースラインを刻みながら、アドリブフレーズを練習する。Cm7、F7、Bb^7、Eb^7。ストックフレーズをアレンジしながら繰り返す。リズムキープだけで大変だ。やはり誰も僕の演奏を気にしていない。
11時前になったのを見て、演奏をやめた。クロスで鍵盤を拭いて、ピアノを閉じる。それからピアノの表面をざっと拭く。カウンターの後ろに立ち、腕まくりをして溜まった皿を洗う。食洗機などという文明の利器はこの小さな古いバーにはない。
「あざまーす」
とバイトの女の子が笑顔で僕に声をかける。
「指、怪我しないようにしてくださいね」
「いや、プロじゃないっすから」
シンクがあらかた片付いてから手を拭き、バッグを肩にかけ、マスターに「お先です」と声をかけた。
「今日もありがとね」
とレジから3,000円渡される。
「すみません。ピアノ練習させていただいてるのに」
「ちゃんと売上に貢献してもらってるからね。払えない日もあるからさ」
「ありがとうございます」
これもいつものやり取り。
「じゃ、また」
「はい。また来ます」
帰ろうとする僕に、何人かのお客さんが小さな拍手をしてくれていた。微笑んで会釈し、重い扉を押した。昼の間にアスファルトで熱せられた生ぬるい空気の中、階段を降りた。