【58】「今の俺は金なんかじゃ動かねぇぜ」
【神骸迷宮】で「大発生」が起こってから二月ほどが経過した、ある日のことである。
俺はエヴァ嬢によってキルケーの屋敷に呼び出され、豪奢な調度品の並ぶ応接室にて対面していた。
「大発生」に関連する騒動は多岐に渡り、【封神四家】としてはそれらと無関係ではいられない。商業、政治、統治、外交――様々な分野で調整しなければならないことは山積みだろう。部外者である俺から見ても、きっと忙しいだろうことは想像に難くなかった。
何日かぶりに会ったエヴァ嬢は、目の下に浮き上がったクマを、何とか化粧で誤魔化そうとする涙ぐましい努力をしていた。
それでも疲労など伺わせない真面目な顔をこちらに向けている。
「アーロンさん、一つ、伺いたいことがあるんですの」
「……急に改まって、どうした?」
やけに真剣な眼差しをして口を開いたエヴァ嬢に戸惑いつつ、俺は問い返した。
こんなに真剣な表情になるとは……もしや、何か大事でも起きたのかと警戒してしまう。忙しさのピークは過ぎたとはいえ、特異個体の発生は未だに続いているからな。この上、他の面倒事も出てきたとなると体が幾つあっても足りないくらいだ。
しかし、エヴァ嬢が口にしたのは俺の予想とは異なる言葉だった。
彼女は急に恥じらいを見せながら、視線を逸らして口を開く。
「風の噂で小耳に挟んだのですけれど……その、フィオナと、同棲していらっしゃるとか?」
「同棲? いや、してないが?」
いきなり何の話だ。
「しかし、フィオナが頻繁にアーロンさんの家に泊まっているようだと、噂が」
「まあ、確かに泊まっていくことはあるな」
フィオナにウチのアトリエを使わせているのは知っての通りだが、作業が夜遅くまで続くこともある。そんな時にいちいち帰らせるのも面倒だと、自宅の一室を好きに使って良いとフィオナに与えた。小さい家とはいえ、一人暮らしだ。部屋は余ってたしな。
だからフィオナが泊まることは頻繁とは言わないまでも、何度かある。
「っていうか、そんな噂が広まってるのか……?」
それが噂になって広まっているとしたら、少し気をつける必要がある。フィオナは未婚の女性だし、妙な噂が立つのはまずいだろう。いや、既婚者なら大丈夫というわけでもないが。
「これからはもう少し、早めに帰らせた方が良いか……」
そう結論した俺に、エヴァ嬢は「いえ、もう手遅れだと思いますけれど」と言った。
「フィオナの知名度は元々高かったですけれど、今はアーロンさんの知名度も高いですから、街を歩いているだけでもお二人の動向は注目を集めていますわよ?」
「俺の知名度か……」
ここで言う知名度が、木剣職人としての知名度でないことくらいは、流石に分かる。
木剣業界では元々有名だったが、今はそれに加えて探索者としても有名になりつつある。そして悔しいが、木剣業界と探索者業界では、今はまだ一般の知名度に大きな格差があるのが正直なところだ。
迷宮都市であるネクロニアにおいて、時に高位の探索者はアイドル的な人気を博すことがある。何しろ死亡率の恐ろしく高い無頼な職業とはいえ、この都市では花形職だ。高位探索者の華やかな側面に憧れを抱いている者は、決して少なくない。
そしてフィオナは女性でソロで固有ジョブに覚醒した才能溢れる探索者で、おまけに人の目を惹きやすい優れた容姿をしている。注目される要素がこれでもかというくらい満載だ。
本人からすれば不本意だろうが、探索者としての実力以上に『剣舞姫』が注目されるのは、そういったアイドル的人気も大きい。
一方、俺の知名度が最近上がっているのは、≪迷宮踏破隊≫に所属していることや、特異個体討伐のあれこれで他の探索者たちの目に触れる機会が多かったからだろう。
「それから、これはお二人の関係に口を挟むわけではないのですが……」
と、エヴァ嬢はなぜか赤面しながら視線を逸らした。
「今は色々と忙しい時期です。天からの授かりもので、おめでたいことだとは承知していますが、フィオナが探索者として働けなくなるようなことはないように、気をつけていただきたいですわ……その、できるだけ時期を見計らってする、とか……」
「はあ?」
要領を得ないエヴァ嬢の言い回しに、一瞬、頭を悩ませた。
だが、すぐに思い至った。
「……ああ! そういうことか!」
「え、ええ、そういうことですわ」
天からの授かりもの――つまりは、木剣のことだ、と。
確かに木剣を作っている時、たまに本当に自分が作ったのかと思えるほど、出来の良い代物を作れることがある。そういう時は天から超常的な存在が、自分の体を通して生み出したのではないか……そんなふうに思えることもあるのだ。
そしてそういう、やけに調子の良い時には、寝食を忘れて作業に没頭してしまうことが多い。
エヴァ嬢はたぶん、フィオナがそんな状態になって疲労で倒れたり、体調を崩してしまうことを心配しているのだろう。
ずいぶんと職人のことに詳しい上に、妙な言い回しでそれを伝えてくるのは奇妙だったが、おそらくは師弟関係……しかも修行の進捗に関わる部分に口を出すことに、気後れしているのだろう。
どこか気まずそうに頷くエヴァ嬢に、俺は「分かってる」と頷き返した。
「フィオナに無茶をさせるつもりはないから、安心してくれ」
「お、お願いしますわね……」
エヴァ嬢はほっとしたような、それでいて恥ずかしそうな顔で頷き、「そういえば」と空気を変えるように言った。
「いらぬ心配かと思いますが、アーロンさんは夜道にご注意くださいな」
「……何で?」
夜道に注意って……他人から恨みを買ったことがないとは言わないが……。
「どうも一部の方々の間で、アーロンさんは「弟子に手を出した外道」としてヘイトを買っているようですわよ? フィオナも見た目は良いですから、過激なファンの方たちがいるようですし……」
「……え、何その話」
そんな話、聞きたくなかった……。
噂って恐い……。
「まあ、この話はどうでも良いのです」
「いや、どうでも良くはない」
「それで、本題なのですが」
どうでも良さそうに話を流された!
「……本題ねぇ。まさか、フィオナと同棲してる云々の真偽を確かめるために呼んだ、ってわけじゃないよな?」
俺もそんな暇じゃないんだが。
「いえ、それは個人的に気になったので、世間話の一つとして」
「……」
「それで、本題というのはですね、アーロンさんに折り入ってお願いがあるのですわ」
エヴァ嬢は姿勢を正して向き直った。
「アーロンさん、最近、あなたが≪極剣≫なのではないかという噂が流れているのは、ご存知かしら?」
「……いや、初耳だな」
そんな噂が流れているのか。何でだ?
いやまあ、根も葉もない噂とは言えないところがアレだが。
「フィオナのお師匠さまであること、見たこともないスキルを使っていること、戦闘能力の高さ、正体不明のジョブであること、なぜか最近まで名が売れていなかったこと……そういった事実を並べて考えた時に、実は≪極剣≫の一人なのではないかという噂が立ったようですわね」
「…………」
エヴァ嬢の説明に、俺はちらりと自らの左手を見下ろした。
そこには隠すこともなく、『初級限界印』が浮かんでいる。今まで一度も隠したことはないのに、誰一人俺が『初級剣士』だと素直に考える者がいない。噂している者たちも同様なのだろう。
「ふむ……それで?」
いったいこの話はどこに向かうのだろうか。
先を促すと、エヴァ嬢は言った。
「アーロンさんに≪極剣≫を名乗っていただきたいのですわ」
「えぇ……何でだよ?」
それはつまり、実は本物の≪極剣≫であった俺に、≪極剣≫の名を騙れ――ということだ。俺が本人であるとエヴァ嬢は知らないが、何だかややこしい。
「嫌そうに顔をしかめないでいただきたいのですが」
「嫌だからな」
偽らざる本心を告げる俺に、エヴァ嬢は続ける。
「そろそろ「大発生」も終息するでしょう? そうなると、やはり問題となるのは≪迷宮踏破隊≫の戦力不足ですわ」
「まだ気が早いとは思うが……」
とは言いつつ、エヴァ嬢の言葉には同意する。まだ本体は見つかっていないとはいえ、遅くとも、後何ヵ月もしない内に「大発生」は終息するだろう。
逆に言えば、数ヵ月以内に終息できなければ、それはそれで問題がある、ということでもある。
「だから今の内にクランの戦力を増強するため、やはり≪極剣≫を仲間に引き込みたいのです」
「まだ諦めてなかったのか」
迷宮深層を探索できる実力者の数は、ネクロニアといえど限られている。≪迷宮踏破隊≫を発足した時点で、それが可能な人員はほぼ集めきったというのが実状だ。ゆえに新しい人員を確保するために正体不明の≪極剣≫という集団に期待を寄せてしまうのは理解できるが……そんな集団など存在しないと、俺だけが知っている。
「アーロンさんが≪極剣≫と噂されている現状、アーロンさんがそう名乗れば、大衆は信憑性は高いと判断するでしょう。そしてそれを、本物の≪極剣≫が知ればどうするか……」
「ど、どうなるんだ……?」
意味ありげな視線を寄越すエヴァ嬢に、どうなってしまうのかと、ゴクリと喉を鳴らしながら問う。
「希望的観測ですが……彼らが少しでも名声に固執するのなら、アーロンさんに何らかの接触をしてくるのではないかと」
「いや、そもそも名声に固執する奴らなら、最初から名乗り出てるんじゃないか?」
「いえ、そうとも限りませんわ」
俺の至極当然な考えを、しかしエヴァ嬢は迷う様子もなく否定した。
「名声、と表現すると語弊があるかもしれませんわね。彼らは人前に出れない理由があるのかもしれない。しかし、自分たちの成した偉業に誇りを持っているとしたら、アーロンさんの存在は見過ごせないはずですわ。誰もが嘘だと分かるような偽物ならば放っておくでしょうが、アーロンさんの場合はそうではない。探索者たちの間で、≪極剣≫かもしれないと思わせるほどの実力がある。このままでは自分たちが命をかけて成したことが、全く関係のない人物の手柄になってしまうとしたら……? 彼らの中に、そのことを面白く思わない者が出てきてもおかしくはない……そう思いませんこと?」
「なるほどな……確かに、その可能性はあるな……」
いやないけど。
ないと知っているけど、俺は神妙な調子で頷いた。
「だが、エヴァ嬢。名乗り出て来るのが本物だけとは限らないんじゃないか?」
しかし、俺はもう一つの可能性を告げる。
「≪極剣≫の名声に魅力を感じる奴らが、自分たちこそが≪極剣≫だと名乗り出てくるかもしれない」
世間話ついでにフィオナから聞いた話だが、実際、自分こそが≪極剣≫だと名乗る奴は結構いるらしい。
もはや懐かしいジューダス君とかも名乗っていたが。
「もちろん、その可能性は考慮しています。ですから、アーロンさんには名乗り出てきた者たちと戦ってほしいのです。加えて、キルケー家としてアーロンさんに勝利した者を≪極剣≫と認めると、声明を出しますわ」
「えー、やだー」
メンドイー。どうして俺がそんなコトヲー。
「そしてアーロンさんに勝てないまでも、強者がいればクランに迎えたいと考えていますの。戦力の補充もできるかもしれないですし、本物の≪極剣≫が名乗り出てくるかもしれない。正に一石二鳥の策ですわ」
「えー、エヴァ嬢頭大丈夫かー?」
もしかしたら、疲労と寝不足でおかしくなっているのかもしれない。
……何か本当にそんな気がしてきた。
「クランのために、やってくれますわね?」
「えー、マジウケるんですけどー。サイアクー」
「もちろん、タダとは言いませんわ。十分な報酬は用意してあります」
「ふぅ……やれやれ、話にならねぇな」
俺はそれまでのふざけた態度を一変させ、深くため息を吐き、頭を振った。
そんな面倒なこと、俺がやるわけがない。いったい俺に何のメリットがあるって言うんだ? 報酬?
「言っておくがエヴァ嬢、今さら金なんかで俺が言うことを聞くとでも? 俺がいったい幾ら稼いでいるのか、知りたいか?」
「……受けるつもりはない、と?」
「確かにエヴァ嬢なら、俺の目玉が飛び出るような金額を用意できるんだろうがな、俺のような小市民にとって、金はあればあるだけ良いってもんじゃねぇ。今でも十分贅沢できるくらいの稼ぎはある。それ以上の金なんか貰っても、使い道に困るだけだ」
個人にとって大金は、ある一定のラインを超えると金額に大した違いなどなくなるものだ。
「残念だったな、エヴァ嬢。今の俺は金なんかじゃ動かねぇぜ」
これで話は終わりだ。
俺は言外にそう告げるように、席を立った。
そうして部屋を出ていくために歩き出し――――た、ところで。
ゴトンっ、という音がした。
いったい何の音だ、と振り返り。
エヴァ嬢がストレージ・リングの中から取り出したのだろうか、何か大きな物がローテーブルの上に鎮座しているのを見た。
それは半透明で薄墨色をした何かで、見たこともない代物だったが、一瞬で俺の目を惹きつけた。
「アーロンさん、【封神四家】の財力を、舐めてもらっては困りますわ。お金だけが財力だと思っている内は、まだ本当の財力というものを知らない……ということですのよ?」
エヴァ嬢は静かに、だが、こちらを気圧するような声音で言う。
ゆっくりとこちらを向いた顔には、絶対なる勝利への確信が宿っていた。
「ま、まさか……ッ!?」
ゴクリと生唾を飲み込んで、目を見開き、戦慄する。
全身から冷や汗が吹き出す。指先が、足が、肩が震える。
俺は……強くなったと思っていた。大金を稼ぎ出し、木剣職人としての成功を手にし、もはや如何なる財力にも屈することはないと、そう、思っていた……。
だが、それは俺の思い上がりでしかなかったのか。所詮、俺などは井の中の蛙でしかなかったのか。真の財力というものの恐ろしさを、俺は理解していなかったのだ。
この世には、幾ら金を積んでも買えないものがある。
そしてそういったものを手にすることができるのが、真の財力ということか。
エヴァ嬢はチェックメイトと告げるように、静かに言った。
「――『重晶大樹の芯木』ですわ」
彼女は続ける。
その言葉は俺にとって、改めて説明されるまでもない情報だったが、耳を閉ざすことはできなかった。それだけの魔性の力が秘められていた。
「これは今から500年ほど前、【神骸迷宮】45層の守護者から獲られた素材ですの。アーロンさんならご存知の通り、≪重晶大樹≫は地上では遥か昔に絶滅した存在ですから、その素材を手に入れるにはもはや迷宮でしか可能性はない……。しかし、現在では47層以降の未踏領域に出現していなければ、この素材は手に入らない、ということになりますわね。そして【神骸迷宮】の≪変遷期≫は、まだまだ先な上、アーロンさんが生きている間に≪変遷≫が起こったとしても、運良く≪重晶大樹≫が現れるかは分からない……」
「ふぅ……ッ、ふぅ……ッ」
エヴァ嬢が発する「圧」に、呼吸が苦しくなり、膝から力が抜けそうになる。
しかし、彼女は言葉を止めない。
「これは我が家にたまたま売却することなく残っていた素材ですが……当時、≪重晶大樹≫を討伐できた探索者はほとんどいなかったそうですわ。なので、そもそも市場に出回った数自体が少ないようです。これ以外に素材が残っている可能性は、限りなく低いと言っておきましょう」
「ぐぅうう……ッ」
がくり、と膝をついた俺に向かって、エヴァ嬢はこちらを見下ろすように視線を向ける。
その瞳は無機質な、まるで天から愚者を見下ろす超越者のような冷然とした光を宿していた。
そして彼女は、こう言ったのだ。
「アーロンさん、あなたがどうしてもと望むなら、協力させてあげても、よろしくてよ?」
これが……っ!
これが、キルケー家次期当主候補筆頭、エヴァ・キルケーの「力」……!!
「…………ッ」
俺は。
ただ、その圧倒的な力の前に、屈することしかできなかった……。




