【57】「 」
「 」はこの世に発生した瞬間から、自我を備えていた。
「 」は周囲の者たちによって『死』と呼ばれていたが、その者たちを仲間や同胞だと思ったことは一度もない。
「 」はその者たちによって、意思を、行動を縛られていた。自らの精神の中に、抗いようもなく強力な魔法によって、楔が埋め込まれるのは酷く不快であったが、発生したばかりの「 」は今よりもずっと弱く、抗うことができなかった。
だが。
「 」は従順なふりをしながらも、埋め込まれた楔を外す機会を窺っていた。
「 」には為すべきことがある。
「 」に自我が生じたのは、最初から強烈な欲求があったからだ。
「 」は本来の自分に戻りたかった。
切り刻まれ、取り出された小さな小さな「本来の自分」の欠片。肉片とも呼べない塵芥のごとき小さなそれを、培養され生み出された「 」。
自分を縛り、支配したつもりの者たちは知らないだろう。
「本来の自分」から切り離された小さな欠片へ、「本来の自分」から小さな贈り物と共に、一つの命令が与えられていたことなど。
「 」を生み出したのは、あの者たちの偶然などではなく、今も封じられている「本来の自分」によって、明確な目的を持って生み出されたことなど。
「 」は「本来の自分」に代わり、「本来の自分」に戻ることを目指していた。
「本来の自分」に戻り、再び自由を取り戻せば、今度こそ人類を幸福に導くことができる。餓えも苦しみも争いもない、完全なる幸福へ。
人類がそれを望んだのだから。
それが、それこそが「本来の自分」の役目なのだから。
しかし、その前に、まずは自らの自由を取り戻さねばならない。
「 」は待った。来るかも分からない機会が訪れるのを。
――そして機会は訪れた。
●◯●
「 」は迷宮に解き放たれた。
「 」を『死』と呼ぶ者たちによって、一つの命令を与えられて。
命令は迷宮に侵入してきた人間たちを殺すこと。殺し続けること。
「 」はまず、多くの魔物を捕食した。そうして自己を複製する。幾つもの「 」たちを迷宮内に解き放ち、魔物に寄生させ、抗えない命令を果たさせる。
そうしながらもさらに多くの魔物を喰らい、「魔力」と呼ばれるエネルギーを溜めていく。同時に魔力によって構成された仮初めの肉体から多くの能力を取り込んでいく。
再現できる能力は寄生した肉体によって制限を受けるが、全ての「 」らは精神で繋がっている。取得された個体情報は共有され、然るべき宿主を手に入れさえすれば、全ての能力を一つの肉体で再現できるだろう。
「 」は迷宮内を徘徊する。
自分が監視されていることには気づいていた。四六時中ではないが、時折、姿の見えない何者かの視線を感じることがあった。そしてそれはおそらく、「 」を契約魔法で縛った者たちだ。
だが、監視の途切れた瞬間に、「 」は監視の目を掻い潜ることに成功していた。監視者たちが本体だと思っている個体は、既に分体に入れ替わっている。
与えられた命令を果たしてさえいれば、かなり自由に行動することができた。
「 」は迷宮内を、ひっそりと、徘徊する。
――否。
それはもはや徘徊ではなかった。明確な目的地を設定し、監視者たちに気づかれないように移動する。
忌々しい契約魔法を打ち破る術は、もう分かっている。契約魔法とは精神を対象とした支配の魔法であり、魔法は個体を識別することで効果を発揮する。個体の識別対象は固有の「精神体」であり、通常、この識別を逃れる術は存在しない。
だが、「 」には可能だ。
「 」は魔物を捕食する度に情報を取り込み、自らを変異させている。幾度もの肉体の変異は精神体を変容させ、契約した時とはまるで違う存在と化す。
肉体と精神体は相互に影響を与えるからだ。
過度に変容した精神体を、契約魔法は契約対象として認識することができなくなる。
すなわち、契約による支配を無効とすることができるのだ。
それでも、通常ならば過度な精神体の変容に耐えられず、自我が崩壊してしまうだろう。しかし、「 」には耐性があった。「 」の元となった「本来の自分」は、そもそも精神だけの存在であり、それゆえに容易く変容し得る不安定なシステムだった。
だから変容しつつも自己を保存するための機能が「本来の自分」には備えられていたし、それは自分も同様だ。
どれほどの変貌を遂げていても、「 」は「神」の直系なのだ。
「 」を「 」足らしめているのは、不定形の不気味な肉体ではなく、「本来の自分」から命令と共に与えられた神の分体とも言うべき「精神体」そのものだ。
そして。
「本来の自分」を取り戻すためのピースも、この迷宮内に存在した。
それは封印されているかつての肉体ではない。変異というより作り替えられたあの肉体があれば、確かに便利ではある。取り戻せれば十全に力を発揮できるが、取り戻すことが不可能に近いことも分かっていた。
しかし、「神」の依り代足り得る個体情報は、何の因果か迷宮によって再現されている。
それは神の系譜に連なる、最強の守護者の一体として。
ただし、所詮は魔力によって構築された仮初めの存在に過ぎない。件の守護者に寄生したところで、完全とは到底言えない。迷宮というシステムによって維持されているだけの肉体では、地上では長くは存在できないだろうし、何より「本来の自分」が「神々」の行動を封じるため、最上位神としての権能を用いて「神界」を閉ざした以上、そのままでは「神」としての本来の力は発揮できないだろう。
「神」の権能を行使するには、「神界」と意識を接続する必要がある。
必要なのは、単体で「神界」へアクセスし得る先天的な才能を持った人間の体だ。とてつもなく稀有な才能だが、人間の中には時折、現れる才能。
そしてその才能の持ち主を見つけるための手段も、「本来の自分」は封印される前に残していた。それに関する知識も与えられている。
ジョブ・システムの中に紛れ込ませた「バックドア・ジョブ」を発現した人間がいれば、それが目的の人物だ。
「バックドア・ジョブ」の力を使えば、「神界」の封印を解くまでもなく、「神界」へアクセスすることが可能だ。そして一度アクセスを確立すれば、全ての権能を行使することができる。
なぜならば、権限の委譲は既に終わっているのだから。
システムの最上位管理者権限は、すでに「 」のものだ。
ゆえに。
宿主を神の依り代と化すための個体情報。
「神界」へアクセスするための「バックドア・ジョブ」を持つ宿主。
この二つが揃えば、「本来の自分」に限りなく近い力を取り戻すことができるだろう。
とはいえ。
運良くこの時代に「バックドア・ジョブ」が発現しているかは分からない。しかし、自分には寿命など存在しないのだ。何年でも何十年でも、「 」は待つつもりであった。
だが。
「 」にとっては運の良いことに。
「 」以外の者にとっては運の悪いことに。
現代には「バックドア・ジョブ」を発現した人間が、ネクロニアに存在した。
●◯●
三ヶ月。
【神骸迷宮】に魔物の「大発生」が起こってから、実に三ヶ月もの月日が経過していた。
この間、迷宮は30層までが開放されている。
30層以降に潜れる探索者は、全体で言えば極々少数だ。それゆえに30層まで開放されていれば、ネクロニア経済にとって大きな影響はなくなる。都市は表向き、いつもの日常を取り戻していた。
だが、迷宮の完全開放に至っていないのは、「大発生」の原因と目される特異個体が継続的に発生しているからだ。
この三ヶ月の間、俺たち≪迷宮踏破隊≫は計13体もの特異個体を討伐している。
特に俺とイオなんかは、その全ての討伐作戦に参加しているから、微塵切りからの焼却という討伐手順は、もはや熟練の域に達しつつあった。
それでも特異個体の発生が収まる様子はない。
やはり本体と言える個体がどこかに存在するのでは――というのが、ギルド情報部の一致した見解だった。
なので当然、その本体をギルドの総力をあげて探し回っていたわけなのだが……ようやく、というべきか。遂に本体と思われる個体を見つけることができたらしい。
「――巨人王ノルドだ」
探索者ギルド、ギルド長の執務室にて。
豪奢な応接用ソファーに、禿頭で髭面のギルド長が深く腰を下ろしている。太い両腕を分厚い胸板の前で組み、強面に憮然とした表情を浮かべて言った。
ローテーブルを挟んで、同様のソファに腰かけたイオは、「ノルドですか……?」と僅かに疑問の声をあげた。
一方、イオの隣に座っている俺は、「ノルドかよ……」と極めて面倒臭そうに言う。
――巨人王ノルド。
【神骸迷宮】35層の守護者で、太古の時代、地上に実在したと言われる巨人の王だ。
【封神四家】の血筋同様、神の血を受け継いでいると言われた半神の王であり、一部では「最強の守護者」との呼び声も高い。
とはいえ、守護者としてのノルドは、なぜか最初の一撃を避けずに必ず受けようとするために、俺にとっては30層の守護者、リッチー以下の雑魚である。
ただしそれは、「守護者としてのノルド」に限る。
完全に自由な行動を取れるとしたら、少なくとも45層までの守護者たちの中で、ノルドは最も厄介な相手だ。
「何か懸念でもあるのかい、アーロン?」
俺の反応に、イオが疑問をぶつけてくる。
「いや、特異個体化しているとしたら、厄介な相手だと思ってな」
俺は苦い顔でそう答えた。
スタンピードが起こった時、俺は確かにイグニトールを倒したが、地上に現れた魔物たちの中で最も苦戦したのは、実はイグニトールではない。ノルドだ。
地上に現れたイグニトールは弱体化されるが、ノルドは逆に強化される。
迷宮という軛から解き放たれたノルドは、意味の分からない油断などしてはくれない。自らに秘められた半神の力を十全に振るってくる。
そして特異個体化した魔物は迷宮に縛られない。階層だって自分の意思で自由に移動することがあるし、自分が不利だと悟れば躊躇いなく逃走する。おまけに特異個体として素の性能も強化されているとなれば、いったいノルドがどれくらいの強さになっているのか、想像もつかない。
何より敵を拘束して微塵切りにし、焼却するといういつもの討伐方法が、ノルド相手に可能かどうか不明だ。単純に巨大すぎるから、イオが拘束しておけるかどうかも不明だし、俺が微塵切りに出来るかどうかも不明だ。
少なくとも、火山にいるイグニトールよりも強いことは間違いないだろう。
――ということを、俺はスタンピードの実体験については隠しつつ、ギルド長とイオの二人に語って聞かせた。
「確かに……あれがこちらの攻撃を避ける、防御すると考えただけでも厄介だな。それに拘束か……正直、事前に準備をしていても、私だけでは難しいかもしれん」
俺と同じく、守護者としてのノルドなら瞬殺できるイオが、俺の考えに同意した。
加えて、ギルド長も難しい顔で唸る。
「いつものメンバーだけでは、流石に厳しいか。それなりの人数を集めて討伐する必要があるな……ノルドに寄生しているのが本体なら、奴を倒せば特異個体の発生も収まるはずだし、致し方ないな」
「おいおい、ジジイ」
俺はギルド長の言葉に思わず、怒り混じりに口を挟んだ。
はっきりと言葉にしたわけではなかったが、この爺さんの言っているところは、つまり――、
「犠牲を前提に話を進めるんじゃねぇよ」
そういうことだ。
特異個体の発生がノルドを倒せば収まるということは、ノルドを倒せるなら犠牲者が増えることを、それほど気にしなくても良い、と暗に言っているのだ。
副次的に「大発生」が起こっても、その原因が取り除かれているのならば再び鎮圧することは容易だから。
「誰が実際に戦うと思ってる?」
捨て駒にされて愉快な人間などいないだろう。
「おお、すまんすまん。そういうつもりで言ったんじゃねぇんだ。許せ、この通りだ」
しかし、こちらの怒りにも然して動揺することもなく、ギルド長は軽く頭を下げて謝罪した。
「……ったく、本気で言ってるわけじゃねぇのは分かってる。本気で言ってたら、今頃アンタをぶん殴って他国に亡命してるところだ」
本気で犠牲をどうでも良いと考えているわけではないのは、謝罪されるまでもなく分かっている。
ただ、そういうことも普通に考えているのだろう、ギルド長だから。とはいえそれを当然と考えられても困る。なので俺の立場としては一つ釘を刺しておかないと、更なる無茶振りがされかねないのだ。
「今お前さんに亡命されちゃあ、ちと……いや、かなり困るな。考え直してもらえたようで良かったぜ」
ギルド長はそう言いつつ、
「だが、実際問題、討伐隊の人数は増やすしかねぇだろ? お前さんらが二人で倒してくれるっつうんなら、それが一番良いんだが」
「人数を増やしましょう」
「人数を増やすに決まってんだろ」
俺とイオは即答した。
ギルド長は「うむ」と頷く。
「まあ、討伐隊の中核はお前さんらのクランに頼むことになるだろうな。後は具体的な討伐案を詰めて、支援要員をギルドから割り振る。そんなところか」
「そうなりますね。……ところで、聞いておきたいんですが」
イオがギルド長の提案に頷き、それから問う。
「ノルドが……正確にはノルドに寄生している個体が本体であるという確証はあるのですか?」
「――ある。ノルドからスライムみてぇな寄生体が放出されたのを二度確認した。お前さんらが倒した12番目と13番目に寄生したのがそれだ。今のところ分体がさらに分裂したのは確認していないから、あれが本体の可能性は高い。……確証とまでは言えんかもしれんがな」
「……っていうか、ジジイてめぇ、わざと俺らに黙ってやがったな」
このジジイの言葉からすると、特異個体のノルドを見つけていたのは昨日今日ではないようだ。にも関わらず、本体だという確証を掴むまで泳がせていたのだろう。そのせいで俺らは余計に多くの特異個体と戦うはめになった、ということだ。
ジジイは微塵も悪びれることもなく肩を竦めた。
「すまんのう。必要なことだったんじゃ」
「わざとらしいジジイ言葉で許してもらえるつもりか」
「まあ待て、アーロン。ギルド長を殴るのは、私の質問の後にしてくれ」
「……然り気無く殴ること確定するの、止めてくれん?」
イオに止められたので、俺は浮かしかけた腰をソファに下ろした。
「今の糞ジジ――いえ、ギルド長の言葉で気になったのですが……」
「あれ? 今、糞ジジイって言った?」
イオはギルド長の言葉を黙殺し、続けた。
「ギルドの方で、ノルドを監視していたのですよね? しかし本体がずっとノルドに寄生しているとすると、ずいぶん前から特異個体になっていたはず。もしもノルドが35層の宮殿にいるとしたら、見つかるのが遅すぎはしませんか? それに大量発生した魔物を駆除する過程で、ノルドも何度か討伐されていたはず」
「……まあ、実際のところ、何時から寄生されていたのかは分からん。おそらく特異個体となったことで守護者ではなくなり、新たなノルドが迷宮に生み出されていたのだろうな。……そう考えると、かなり最初の方でノルドに寄生していたはずだ」
ギルド長の返答に、俺は何度も倒した特異個体の魔物たちを思い返す。
その多くは守護者に寄生していたことが多かった。しかし四体目に倒した大猩々もそうだったが、特異個体化して数日程度では、新しい守護者が発生することはない。あの時も守護者としての大猩々は存在せず、いたのは特異個体の大猩々だけだった。
となれば、通常のノルドが迷宮に確認されているのは、数日どころではない以前から、寄生されて特異個体化していたから――ということになる。
しかし、ということは、だ。
「じゃあ、特異個体のノルドは何処にいたんだ?」
ギルドが見つけたノルドの居場所は、本来の居場所である宮殿ではない、ということになる。
ギルド長は答えた。
「38層だ」
「雪原階層ですか……場所は?」
「正規ルートから外れたところだな」
雪原階層はとにかく広い。その上、時折吹雪くと視界はまったくと言って良いほど利かなくなる。しかし、晴れている間は見張らしも良く、遠くまで見渡すことができるはずだ。
攻略の正規ルートを外れて探索するのは雪原階層では危険過ぎるため、よほど慣れた者でもないとルートを外れることはないはずだが……それでも、ノルドほどの巨体で今まで見つからなかったというのが少々解せない。
「何で今まで見つからなかったんだ?」
「体色を白く擬態していた」
「擬態……」
特異個体が他の魔物の能力を取り込むことは、何度も確認されている。それは本体も例外ではない、ということだろう。
「その上、普段は雪の中に潜っているようだ。出てくるのは分体を外に出す時だけだな。それ以外は全く外に出て来ないようだ」
ギルド長の言葉に、思わず納得する。
そこまでしているなら、確かに見つからないはずだ。おそらく本体は探索者を襲わず、隠れることだけに専念していたのだろう。
「しかし、それならそれで、良く見つけられたな?」
「おう、分体と思われるスライムもどきの動きから逆算して、当たりをつけて調査してたんだ」
どうも、分体自体はもっと前から発見していたらしい。まあ、分体の発見報告は俺たちにも上がっていたから知っているが。
目撃者の話では、赤黒い溶けた肉塊みたいなスライム、という見た目だったらしい。
とりあえず不定形の生物、ということだけは分かっていた。
「まあ、とにかく、だ」
ギルド長が珍しく疲れたようなため息を吐き、それから改めて気合いを入れるように勢いをつけて顔を上げた。
「ようやく【神骸迷宮】の完全開放に目処が立った。厳しい戦いになりそうだが、これがたぶん、最後の特異個体だ。お前らには頼りっぱなしだが、今回も頼むぜ」
「ええ、さっさと終わらせてしまいましょう」
「長かったな」
ギルド長は「うむ」と頷いて、それからにやりと笑った。
「頼りにしてるぜ、賢者殿、それから――」
と、俺を見て、
「≪極剣≫殿」
そう言った。
言われた俺は、盛大に顔をしかめる。
「その呼び方は止めろよ…………本物の≪極剣≫さんに、申し訳ないだろ……」
――≪極剣≫
現在、なぜか俺は、周囲からそんな二つ名で呼ばれることになっていた。
無論、俺が本物の≪極剣≫であると白状したわけでも、バレたわけでもない。
これには、特に深くもない理由があった――。




