【49】「フィオナ・アッカーマン」
父、クリフが死んだ後、ウォルロック家では領主の座を巡って争いが起こった。
と言ってもウォルロック本家で起こったわけではない。兄、ラウルも死んでしまったため、ウォルロック本家には領主の座を継ぐことができる者が居なくなってしまったからだ。
アーバルハイト王国では女であっても家督を継承することが認められている。実際に女伯爵などの地位に就いた者が一定数いたのも事実だ。
しかしながら、それは他に継ぐべき者がいない場合に限られる。ウォルロック家の場合は、領地の2村それぞれに分家があった。
次の当主は、そのどちらかの家から選ばれることになるだろう。
ウォルロック家の正統な血を継ぐ、幼い娘。
先例に倣えば分家から後継者を選出することになるとはいえ、分家の者たちにとってその存在は厄介だっただろう。万が一ということもあるし、何より、幼い娘と政略結婚することで、他家がウォルロック家を乗っ取ってしまうことを何より恐れた。
木っ端貴族とはいえ、貴族と平民では立場は全く異なる。権力という魔物に魅了された分家の大人たちが、幼い娘に対して何をするかは分からなかった。
――危険。
そう考えた彼女の母、アリサは娘の継承権を放棄させ、自らの実家に戻ることを決意した。
彼女たちとウォルロック家との繋がりは、これで絶たれることになる。だが、それでも後悔はしなかった。最愛の夫と息子を一度に喪った彼女は、思い出の残るこの地に留まりたくはなかったし、この上、娘も喪う可能性など考えたくもなかった。
二人はウォルロック領を離れ、アリサの故郷である【神骸都市ネクロニア】へと移り住むことになる。
アリサの実家はネクロニアでそこそこの商家を営んでおり、嫁ぎ先であったウォルロック家よりも経済的には裕福だ。事情も事情であるし、出戻ってきた娘と孫娘を邪険に扱うことはないだろう。
そうして。
幼い彼女――フィオナ・ウォルロックは、ネクロニアにある商家の一つ、アッカーマン家の一員となり、以後、名をフィオナ・アッカーマンと改めることになった。
●◯●
フィオナは商家の娘としてそれなりの教育を受けて育ったが、その心には決して癒えることのない傷が刻まれていた。
父と兄の死が、それだ。
7歳という幼い頃の記憶である。年月が経つにつれて、二人の顔すらはっきりとは思い出せなくなっていく。それでも、あの時の強い喪失感だけは、彼女の心に刻み込まれていた。
親しい誰かの死。
もう二度と経験したくはない。
だが、それが不可能であることは彼女とて分かっていた。人間は死ぬ生き物だ。離別の時は、いつか必ず訪れる。
ならばせめて、あの時のような理不尽な死が訪れることだけでも、防ぐことはできないか?
父は貴族で、領主だった。だが、その立場と権力が命を救ってくれることはなかった。ならば何があったら、あの時の父と兄は救われたのか?
――力だ。
権力でも財力でもない純粋な力。戦うための、誰かを守るための力。
冷静に考えてみれば、それはあまりにも幼稚な結論だと嗤われるだろう。世の中には暴力だけで解決しないことなど幾らでもある。どのような立場の人間であっても、どのような種類の力を持っていても、理不尽を経験することはあるだろう。この世は不公平で理不尽に満ち溢れている。それら全てを解決してくれる絶対の力など、ありはしないのだ。
そんなことは分かっている。
それでもなお、彼女は力を求める選択をした。
もしも、あの時と同じようなことが起きた時、今度こそ大切な人を助けることができるようにと。
そしてそれ以上に、精神に刻まれたトラウマを克服するため、彼女は強くなりたかった。心に刻まれた恐怖を払拭するため、必死に足掻こうとした。これが正解なのかは分からない。正解などないのかもしれない。それでも恐怖を克服するためには何かをしなければならないと思った。だから単純に力を求めた。
あの時の父と兄を助けられるくらいの力を手にした時、この恐怖は消えるだろうと思い込んだ。
フィオナが15歳になった時、教会で与えられる一般ジョブ、生産ジョブ、戦闘ジョブの中から、彼女は戦闘ジョブを選んだ。
もちろん、母たちには内緒で、独断でだ。
探索者になると告げた時、母たちは大反対した。大喧嘩になったし、探索者になったとしたら援助もしないと言われた。家も出ていけ、と。
そう言えばフィオナが諦めると思っていたのだろう。
深窓の令嬢とまでは言わないが、裕福な家庭環境で大切に育てられた娘だ。探索者という過酷な環境で、援助もなく、一人で生きていくことなどできないだろうと。また、その覚悟もないだろうと思われた。
実際、過去の一件がなければ、そのような、普通の、良いところのお嬢さんとして育っていたかもしれない。
だが、フィオナに刻まれたトラウマは、周囲が思うよりずっと大きなものだった。
父と兄が盗賊団の討伐に出発する時、行けば必ず死ぬと、幼いフィオナには分かっていたのだ。
それは予感などというあやふやなものではなく、強烈な確信だった。だが、幼いフィオナにこの違いを自覚することはできなかったし、自覚して説明したとしても、周囲が信じてくれることはなかっただろう。どちらにしても結果は変わらなかった。
だが、死ぬと分かっていた父と兄を、みすみす死なせてしまった。見殺しにしてしまったのだと考えた時、心の傷はより大きく深いものとなった。そのことが幼いフィオナに強烈なトラウマとなって刻み込まれ、無茶な将来設計を押し通すほどの決意を与えてしまったのだ。
母たちの反対を押し切り、フィオナは家を出て探索者となった。
誰もが予想外だったのは、フィオナに才能があったことだろう。
それは固有ジョブ『剣舞姫』のこと――ではない。
下級ジョブを得た時から、あるいはそれ以前から、フィオナには特別な才があった。
言葉にするなら、それは「予感」や「直観」とでも呼ぶべきものだろう。だが実際にはそれらよりも、もう少しはっきりとした感覚だ。
危険な場所、嫌な予感、そういったものを常人よりも強く感じとる能力。
この些細な能力はフィオナに、他人よりも少しだけ上手く戦う力を与えてくれた。例えば魔物に囲まれた時、より危険な場所や、他よりも安全な場所が分かる。攻撃の厚い場所、攻撃の薄い場所が分かる。魔物が自分に敵意を向けた瞬間、危機感が体を走り抜けて教えてくれる。あるいは迷宮の中で罠がある場所や、魔物が潜んでいる場所すら教えてくれた。
探索者となってから自身の異能に確信を抱いたフィオナは、この能力を使って次々と階層を下っていった。
強くなる。誰にも負けないくらいに。誰をも守れるくらいに。最強と呼ばれるくらいに。
その強い決意によってどんどんと先へ進むフィオナに、パーティーを組んだ者たちは誰一人としてついて行くことはできなかった。フィオナはソロとなり、またパーティーを組み、そしてまたソロとなった。
何度か同じことを繰り返した末に、彼女はパーティーを組むことを諦めて、ソロで活動し続ける道を選んだ。
本来なら探索者一人で迷宮へ潜るなど、単なる自殺行為だ。しかし幸か不幸か、フィオナにはそれでもやっていけるほどの才能があった。
才能があり、容貌に優れ、一人で活動している女探索者。
善意悪意を問わず、周囲から絡まれる理由には事欠かない。そして当然ながら、絡んで来るのは悪意や下心に満ちた連中が大多数だった。
そういった輩を退け、寄せ付けないために、フィオナは自然と攻撃的な態度と口調を身につけていく。
自己防衛の一種とはいえ、キツイ性格が馴染んでくるに従って、人付き合いも苦手になっていった。
だが、構わない。
フィオナは自らのトラウマを払拭するため、強くなることだけに専念した。
そして『上級剣士』となってそれなりの時間が経ち、ソロの女探索者、それも実力者としてそこそこ有名になった頃、【神骸迷宮】27層で、一人の男と出会う。
●◯●
27層へ降りてから――いや、正確に言えば26層へ降りてから、フィオナは苦戦していた。
巨大な地下神殿のような「冥府階層」では、広大な回廊とも広間とも思える空間に、俗にモンスターハウスと呼ばれるトラップが存在していることがある。
侵入者を感知すると一気に大量の魔物が生成される、巨大迷宮固有のトラップだ。
27層のモンスターハウスでは複数の上位種を含むスケルトンが生成される。この集団をフィオナは単独で撃破することができないでいた。
危険を承知で何度か挑んでみたが、命辛々逃げ出すのがやっとの有り様だ。
フィオナにとってはモンスターハウスを避けることなど造作もないが、話に聞く30層の守護者、リッチーとの戦いを考えれば、モンスターハウス程度、真正面から突破できないことには話にならない。
ゆえに、挑んでいた。そして何度も敗走していたのだ。
だが、その日、なぜかモンスターハウスを前にしても危険を感じなかった。
自分が持つ異能とも言うべき力――【予見】と名付けたそれは、肌が粟立つような危険も、纏わりつくような死の予感も訴えて来ない。
それは危険がないということではない。危険は感じている。しかし、その度合いがいつもに比べて遥かに小さいのだ。ましてや死の予感などは欠片も感じることはなかった。
「……どういうこと?」
急な変化に訝しみつつも、フィオナは【予見】の感覚に従って広間へ足を踏み入れた。
途端、虚空から現れるように生成されるスケルトンの軍勢。
戦いが始まる。
一人対圧倒的多数の戦闘だ。幾ら一体一体のスケルトンが取るに足らぬ強さといえども、抗し切れないほどの圧力。【予見】の感覚とは違い、すぐにいつものように劣勢に追い込まれた。
「…………ッ!?」
このまま戦闘を続ければ敗北し、死ぬ可能性が高いことは探索者として活動してきた経験から確信できていた。それでもなお、【予見】は致命的な危機を訴えて来ない。
これまで頼りにしてきた能力への、絶対的な信頼が揺らぐ。フィオナの動揺は大きかった。背筋に冷たいものが走り抜けるような感覚。足元が崩れ落ちるような衝撃。
動きが鈍る。
全身に細かな傷を負い、さらに逃げ場を封じられてしまった。【予見】に従って攻撃を回避することで致命的な傷こそ負うことはなかったが、戦闘は長引き、遂には魔力が枯渇してしまう。
だが、この期に及んでも【予見】は死の気配を訴えては来ない。
(どうしてよッ!?)
最も頼りにしていたものに裏切られたような衝撃と心細さ。
自分はここで死ぬのかもしれないという恐怖。
必死に剣を振るいながらも、腰から力が抜けていくような無力感に苛まれた時――、
「――――は?」
フィオナを囲んでいたスケルトンの軍勢が、一斉に爆発し、木っ端微塵に砕け散ったのだ。
その寸前、オーラと思われる何かがスケルトンたちに向かって降り注いだのを知覚していた。息を乱しながらも、フィオナはオーラが飛んできた方向――広間の入り口の方へと振り返る。
そこには自分よりも、幾らか年上の男がいた。
剣士だ。剣を振り切った姿勢から残心を解き、自然な動作で剣を鞘に納める。
あの男が何らかのスキルを放ち、スケルトンの軍勢を一気に殲滅したことはすぐに分かった。
最初は自分を助けてくれたのだろうか、と思いながら男に近づいた。最近ではキツイ口調や態度が癖になってしまっているが、それでも命の恩人に礼を言うくらいの分別はある。ましてや、相手は明らかに自分より格上の探索者だ。
フィオナは素直に「ありがとうございます」と口を開こうとして。
「あ……」
その直前に、気づいた。
この男、いつからここにいたのだろう? いつから自分を見ていたのだろう?
もしもフィオナが戦い始めるよりも前に近くにいたとしたら、【予見】が正常に働かなかったのも当然だ。いや、正常には働いていたのだろう。すなわち自分が危機に陥っても、男がスケルトンどもを倒すから命の危険はなかったということ。
「ぁあ、あ……」
【予見】がいつもと違った反応を示した原因は、この男だ。
そう理解したら、一気に怒りが湧き起こってきた。それは【予見】の力に疑いを抱いてしまったがゆえの恐怖、その裏返しであり、恐怖が大きかった反動として怒りの感情もまた大きくなった。
「アンタ、何勝手なことしてくれてんのよ!」
思わず責めてしまった。
内心ではすぐに後悔していたが、一度口に出した言葉は戻らない。
男は戸惑ったような表情を浮かべて、弁明した。
「おいおい、落ち着けよ。もしかして俺が横殴りしたと勘違いしてるとか? いや、そうじゃなくて、俺はアンタが危ないと思ったから助けてやっただけでだな……」
カチンとした。
冷静な時であれば純粋に心配からの言葉だと分かったはずだが、この時は冷静ではなかったのだ。男の言葉はフィオナが弱いと詰っているようにしか聞こえなかった。
それはフィオナにとって、許しがたい言葉だ。認めがたい指摘だ。
「あのね、私は自分で望んであいつらと戦ってたのよ! それに私が負けるかどうかなんて分からないじゃない!」
噛みつくように言う。
男はフィオナの全身をジロジロと舐め回すように見つめて、
「いや、どう見ても勝てそうになかったんだが」
と言った。
腰の辺り以外に下心のある視線は感じなかったので、たぶん、全身に負った細かな傷を見ていたのだろう。
客観的に見れば男の言葉は全くもって正しいが、激昂している女性に正論を述べるなど火に油を注ぐ行為でしかない。おまけに胸の辺りを視線が経由した時の哀れそうな表情……。フィオナは激怒した。どうにか感情を抑え込んで謝罪と感謝を伝えようとしていたが、そんな気は那由多の彼方へ消し飛んでしまった。
「あれは自分を追い込んでいただけよ! 死線を乗り越えた先にこそ、最強への道は開かれるのよ!」
「…………」
もはや自分でも何を言っているかは分からなかったが、とにかく、弱いと思われることだけは我慢がならない。これまでの自分の努力、苦労、そういったものを全否定された気分になるからだ。
フィオナはこの男の認識を改めねば気が済まなかった。
どうすれば良いか?
簡単だ。勝負して分からせれば良い。
フィオナは感情のままに、いざ決闘を申し込もうとして、
「…………」
その寸前、男はくるーりと身を翻すと、脱兎のごとく走り出してしまった。
「あっ! ま、待ちなさいよッ! ちょっとっ、ねぇ! 待ってってば!!」
男は止まらない。
当然、フィオナは追おうとしたが、男の逃げ足は素晴らしく速く、魔力の尽きたフィオナでは追いつくことができなかった。
しかし、男は知らない。
フィオナ・アッカーマンに秘められた追跡者としての、並外れた才能を……。




