ボラード
「――――ッ!」
声にならない叫びを上げ、ローレルが駆けた。何のひねりもなく、脚に残った力を爆発させて突進してくる。
「なんだとっ!?」
ハーメルンにとって、それは予想外の出来事だった。
完璧に、打ち倒したつもりになっていた。強烈な拳の応酬の後、確かにハーメルンはトドメの一撃をローレルに浴びせたのだ。だというのに、ローレルは力を振り絞ってこちらへ向かってきていた。
額から血を流して体を汚しても、体力が底を尽きても、ローレルは構わずこちらに来ている。それだけの覚悟と意思が威圧感となってハーメルンを襲う。女相手に、これほど魂が打ち震えるのを感じてしまうのは初めてだった。
ローレルが身にまとうウェイブの色が、いつの間にか変わっている。黄金のような黄色から、輝く夕焼けのようなオレンジ色に。
心の力はウェイブの力。ローレルの強い想いが、強い願いが、限界をむかえた体に力を注いでいる。ウェイブの力で体力が回復したわけではない、ローレルの体はもうボロボロだ。
しかし、閃光は走ってくる。
正直、ハーメルン自身にも余裕はない。ゆえに、この衝突で確実に仕留める必要があった。
口の端が、吊りあがる。
この緊張感、この高揚感、何年ぶりに味わうのだろうか。
胸が躍る。自分が負けるか負けないかの境目であるというのに言いようのない興奮が湧き上がってきてどうしようもない。コンマ一秒先でさえ楽しみで仕方が無くなってくる。
勝負は一瞬のうちだ。数瞬の、刹那の油断さえ敗北の原因となる。
ハーメルンは全身に力を入れて奮い立たせた。正確に、鋭く、一撃を当てる瞬間を見極めて放つ。そのために構えは万全でなければならない。
胸の前に両腕を立てて、両足を広げて姿勢を落として構える。
ローレルはハーメルンとの間合いを詰めてきた。姿勢を異常に低くし、屈み込んだ。その体勢は、先程ローレルが放った強烈なアッパーの構えだった。そして恐らくこのアッパーの後に、更に強烈な殴打が来るのであろう。
――まだだ。まだ打つときではない。
外側に向けていた手首を内側に捻じりこみながら、ローレルはアッパーを射出させる。空気を穿ち、ハーメルンを射抜きに来た。
「まだだぁっ」
上体をずらし、右腕だけでアッパーを受ける。攻撃の威力を殺そうとはせずに、受け流す。攻撃を防御するのがハーメルンの闘いではない。攻撃の力を利用して、自らのパンチの威力を高めるのがハーメルンの闘いだ。
上体を、攻撃の威力でひねらせて右拳にパワーを溜め込んでいく。アッパーを受けて悲鳴を上げている右腕も、たった一撃ならばもつだろう。
しかしまだだ。
まだこれを打つべきときではない。
打つのは左拳のブローだ。肝臓のある位置を狙った、リバーブローだ。
攻撃を受けて、体をひねった勢いを利用すればいとも簡単に殴打を放てる。自分は拳を硬く握り締めればいいだけだ。幸い、ローレルのパンチは強力で、十分な力を溜め込める。
ローレルの伸びきった体へリバーブローを滑り込ませる。問題なくローレルにリバーブローはヒットした。確かな手応えが、ハーメルンの左腕にはあった。
「……ごぼっ」
ローレルが血を吐き出す。
このまま倒れろ、そう思った。今準備している拳を放てば、ローレルを殺しかねないと直感しているからだ。そしてそう直感していても加減をできないほど、ハーメルンは追い詰められていた。
もしかしたら、笑顔で学生をしていたのかもしれない少女に。けれど、もしもはもしもである。現実ではない。
それに。
加減なぞしたら、ローレルに失礼だと思った。ただひたすら一つしかない拳を極限まで鍛え上げ、必死になってここまでやってきたローレルに、加減などをするのは無礼だ。
だから、この一撃を浴びせる前に倒れてくれ。
そう願った。
だが、ローレルは倒れなかった。両足で床を踏みしめて、ハーメルンを睨みつける。瞳の奥では、闘志が燃えている。純粋で、真っ直ぐな闘志を持つ瞳に、微塵も倒れる気を感じなかった。
それどころか、ハーメルンがローレルを沈めにいった強打の威力を利用して、伸びきった体を引き戻し姿勢を低くした。
「ああぁアアアア!」
叫ぶ。
ローレルは左に重心を置き、握り締めた拳を振るった。鋭いアッパーは、ハーメルンの顎側面を捉えて打ち抜く。ハーメルンの視界は強制的に横に向くこととなった。体に、さらなるひねりが加えられ、拳に溜まるエネルギーが増す。
――打つのは、今だッ!
「オオオォォッ!」
脳が揺らされているのにも関わらず、ハーメルンは正面を、ローレルを見据え叫ぶ。限界まで伸ばしたゴムが勢いをつけて戻るがごとく、殺人的な拳がローレルに向かう。
ローレルの顔面へ、ハーメルンの最後の一撃が打ち込まれる。
力なく垂れる血まみれの右腕、飛び散る赤い汗。
勝った。
ローレルの体ではこの拳に耐え切れない。
――はずだった。
「ぎっ」
歯軋りのような音を聞いた瞬間、ハーメルンはローレルに意識があることを知った。
上体をそらし、拳の威力を流して、左足を前に踏み込んでいるローレルの姿がそこにはあった。足にそれほど力が入らず、踏みとどまれなかったのが幸運だったのか、血や汗でハーメルンの拳が滑ったのか。
いや、違う。
これは故意だ。
後ろにそれた上半身が戻りつつあるなか、ローレルは腰を捻り、右足で床を蹴り、拳を振るう。引いた拳に溜めをつくり、一気に叩き込む。
ここに来ての、最後の最後の力を絞りつくしての、右スイング。
その一撃を、ハーメルンは知っている。
――ボラード。
ハーメルンがいつか見たレパードの一撃と全く同じだった。
――拳が、ハーメルンの顎側面に叩き込まれた。
脳が激しく揺らされ、視界が暗転する。恐らく自分は、倒れたのだろう。
立ち上がろうとするが、体に力が全く入らない。感覚など消えうせてしまっていて、自分の体が何がどうなっているのかさえわからない。意識と体を繋ぎとめていた、首の皮一枚はもうなかった。
思考が消えていく。かろうじて、ハーメルンは実感した。
自分は、敗北したのだと。
動けなければ、闘えない。
眼を動かす。自分を倒した者の姿を、しっかりと目に焼き付けるために。ぼやけた視界だろうが、なんであろうが、見ておく必要があるのだ。見なければならないのだ。
そして。
視界の端に映るは最強のボクサー。
煌めく右拳は、まさしく太陽の拳。
決して他の者にはたどり着けない。ただがむしゃらに真っ直ぐに生きた少女だけの、最高の拳。
――おめでとう。
かつてのライバルに。
娘のボクサーに。
呟いて、ハーメルンの意識は途切れた。




