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【完結】太陽の拳  作者: 月待 紫雲
エピソード12
90/93

全力

「行きますっ!」


 ローレルは駆けた。さながら風のごとく、軽やかな助走。それを持ってローレルはハーメルンへ接近した。そして拳を握りしめ、踏み込んで渾身のストレートを放つ。


 先程よりも速く。

 先程よりも鋭い。


 拳は吸い込まれるように。


「速いな。ゆえに軽い」


 しかし、ハーメルンの右手に遮られていた。がっしりとローレルの拳が防御されている。

 ストレート一発ではハーメルンには通用しない。それはブレイドよりもハーメルンは防御に長けているからだ。ウェイブの性質だけではない。ハーメルンは元々、相手の攻撃を受けて、カウンターで倒すというプレイスタイルをしていた。クライムに来る前、ハーメルンのボクシングは何度か見ている。


 ハーメルンの場合は完全な「防御」だ。ブレイドのように「受け流す」のではない。

 ハーメルンは左拳に力を込め、叩きつけようとする。拳が捕まれた状態では避けることも適わない。


「……ふんっ」


 だが、ローレルの動きに迷いはなかった。ハーメルンの拳を、あろうことか額で受け止めた。頭が揺らされ、視界がぐらつく。


「なっ」


 それでもローレルは笑みを崩れない。

 ハーメルンが驚きにわずかだがひるんだ。ゆえにローレルは動いた。素早く拳を引き、屈み込み、アッパーを放つ。アッパーがハーメルンの顎に当たるとまた拳を引き、ストレートを腹部に叩きつけた。


「ぐっ!」


 苦し紛れか、ハーメルンがフックを放つ。ローレルは床を蹴って跳び、軽々とフックを避けた。


「……はああぁ!」


 着地。共に跳躍。再度放たれるストレート。

 だが、ハーメルンも黙っているわけにはいかない。振り返り、その勢いで放ったジャブによってローレルのストレートを弾く。


 そして反撃とばかりにフックがローレルに迫った。


 体勢が崩れたローレルは床を脚で蹴り、何とか避ける。再びハーメルンのフック。立ち上がる勢いを利用して後ろへ避ける。

 放たれるハーメルンのストレート。ローレルは右側へステップをして避ける。


 放つ放つ放つ。

 避ける避ける避ける。


 決して遅くない猛攻を、ローレルは一つもかすらせることすらなく避けた。


 そして、ローレルの方がスピードがあるゆえにごくわずかな時間、余裕ができる。

 ごくわずかな時間。一秒にも満たないその時間だけでも、ローレルの時間になる。


 ハーメルンの隙をつき、ローレルは踏み込んでブローを放った。ハーメルンの腹部に衝撃を与え、後ろに下がらせる。


 ローレルにはデリーやブレイドほどのパワーもディフェンスもない。力も防御も、男たちに比べれば確かに劣る。


 しかし。

 しかしだ。


 ローレルは今まで努力を欠かしてはいない。凄まじい練習量だけは、誰に向かっても胸がはれる。なぜなら、それによってローレルは誰より早く動け、技を連発できるのだから。

 ブレイドとの特訓のおかげだ。もしブレイドがいなければ、ここまで短期間に闘えるようにならなかっただろう。


 だが、それはもしもの話だ。


 攻撃を見切り、反撃をする。少しずつだが着実に、ハーメルンにダメージを蓄積していく。ここまでほとんどの攻撃は避けきれている。


「……ぬぅッ!」


 だが。

 ハーメルンは父であるレパードを倒したボクサーだ。

 ローレルの拳を左腕で防ぎ、ハーメルンは左脚を一歩前に出す。更に、右足で床を蹴り、腰を回して拳を振るう。攻撃の力を逸らされ、ローレルはバランスを崩してしまい、拳をまともに受けてしまった。

 カウンターだ。


「ごはっ」


 わき腹に、拳が突き刺さる。


「……ぐっ」


 空気が叩き出され、ローレルはわき腹だけでなく、全身にまで痛みを感じた。


 重い。


 ひどく重い一撃だった。体の芯にまで響く。

 こんな一撃を何度も食らえば耐えられない。

 ローレルは苦痛に耐えながら、衝撃を受けた方向と同じ方へ跳んだ。苦し紛れだが、それで少し受けるダメージを和らげる。


「ちぃっ」


 床を踏みしめ、バックステップをする。


「遠慮はしなくていい。来なさい」


 構えなおしたハーメルンが言葉を紡ぐ。本当に攻撃を待っているのだ。なぜならば、攻撃を受ければカウンターを出すことができる。不用意に動けば、とてつもなく重く、響く一撃を、また食らうことになってしまうのだ。


 どうする?


 下手に突っ込めばこちらがやられる。動かなければ、勝てない。

 緊張する。体も、表情も強張って思考が鈍る……はずだった。


「……いえ、貴方こそ来たらどうです?」


 なぜか、口から発せられた言葉は挑発だった。

 強張るはずの表情に、笑みが浮かんだ。不敵な笑みを、ハーメルンに見せ付ける。


「言うじゃないか、カレジ・ローレル」


 ハーメルンは姿勢を低くし、両腕を目前で構える。鷹のごとく鋭い視線がローレルを射抜く。


「なら、俺から行くぞ」


 ズン、と。

 一気にハーメルンが迫る。そのまま、巨体になったように。異様な威圧感と共に、ローレルとの距離を無くす。

 後退りしそうになるのを、ローレルは堪える。拳を握り締め、足を踏みしめる。


「コォ……」


 拳が唸る。

 ハーメルンは空気を引き裂きながら、拳を振るい抜く。

 ローレルは姿勢を低くし、体をそらす。拳が鼻の先をかすめた。


「ぬんっ!」


 過ぎていった右拳の影から、左拳のストレートが襲ってくる。

 ローレルは身を屈め、懐に飛び込んだ。顔の真横をストレートが過ぎていく。ローレルは脇を締めて、ハーメルンの鳩尾へ拳を打ち込んだ。


「ぎぃっ!」


 ハーメルンは歯を食いしばり、一撃に耐える。

 反撃を食らう可能性も、カウンターを受ける可能性もある。だが、ローレルはさらに拳を振るった。


「ハァッ!」


 呼気と共に、腕を引き戻してストレートを放つ。

 矢のごとく放たれた拳に、ハーメルンの右拳が噛み付きに来た。ローレルの拳を殴り飛ばし、反撃に出るつもりだろう。

 だが、ローレルはその先を行く。


「なにっ?」


 ローレルはストレートを、ハーメルンの拳が食らいつく直前で引き戻した。それと同時に屈みこんでいる。床を踏み蹴り、体が伸び上がると同時にアッパーを放つ。鋭いアッパーはハーメルンの右拳に逆に食らい付き、弾き飛ばした。ハーメルンは右腕に受けた衝撃に逆らわず、後ろに下がる。体を後方に逸らした勢いを利用し、左拳を、下から上へ突き上げるように振るった。


 ローレルは脚が悲鳴を上げるのも構わず、無理に床を蹴り上げて体をひねった。しかし、それでもハーメルンの拳はローレルの額に当たり、脳を揺らした。歯を食いしばり、ぐらつく視界や痛みに耐える。耐えながら、先程、床面を蹴り上げることで浮かせた足を前へ出した。一歩、踏み込むと共に構えていた拳を解放する。


 単純な筋力、踏み込みによる勢い、遠心力などあらゆる力を溜め込んだ渾身の一撃。


 その一撃に、ローレルは手首を内側に捻り込むようにして更に力を加える。


 コークスクリューだ。

 ハーメルンの胸部に、拳の弾丸が突き刺さった。


「ぐおぉっ!」


 ハーメルンは驚愕のあまり目を見開き、苦悶の声を漏らす。数歩後退せねばらなかったらしく、ハーメルンはローレルから一メートル以上離れてから立ち止まった。

 眉をひそめ、左手で胸をおさえている。冷や汗なのだろうか、額からは雫が流れ落ちていた。


「はぁ……はぁっ」


 玉のような汗を流しながら、ローレルは呼吸を整える。

 疲労が出始め、ローレルからは余裕が消え去っていた。

 だが、ハーメルンも呼吸は乱れている。


「今のは、危なかったぞ」

「ちゃんと、鳩尾に……当てたかったん、ですけどね」


 実のところ、先程の攻撃は鳩尾を狙って放った一撃だったのが、ハーメルンのアッパーを食らい、視界がぐらついてしまったせいで軌道がはずれてしまった。

 全力を出しきって放った一撃だった。ゆえに、体力を大幅に削られてしまった。


「その目。真っ直ぐで揺らぎのない瞳……やはりレパードに似ているな。久しぶりに体が滾ってくる」

「私も、こんなに楽しいボクシングは久しぶりですよ?」


 強がりを言って、深く息を吐く。


 ロイヤー・ハーメルン。


 父であるレパードよりも強い男を、どう倒せばいいのだろう。


 どう動けば良い?

 どう間合いを詰めれば良い?

 どう攻撃を避ければ良い?

 どう攻撃を当てれば良い?

 どう拳をねじ込めば良い?


 相手に拳を当てる。ただそれだけのことに無数の疑問が巡っていく。時間が経つのが遅く感じられるのか、それとも待っていてくれているのか、ハーメルンは動かない。

 ローレルは考えた。ただひたすらに考えた。

 片腕しかないローレルが、両腕のあるハーメルンにどう勝てば良い。どうすれば、どうすれば……


 …………。

 ――――くだらない。


 どれほどの時間、悩んでいたのかは定かではない。だが、確かなことが一つだけある。

 ローレルは、考えるのをやめた。


 ――どうすればいいかなんて、くだらない。


 ローレルは駆ける。姿勢を低くし、力を溜め込んでからハーメルンに突進した。ハーメルンはそれを向かえうつべく、構える。そして距離を詰めてきたローレルに、ハーメルンは拳を放ってきた。ローレルは床を蹴り、拳を掻い潜り、懐に滑り込む。



 拳を握り締めろ。歯を食いしばれ。


 考えるな、感じろ。


 ローレルに出来ることはただ、たった一つしかない右拳を振るうだけ。筋力も体力も鍛え抜いた体も全て、単純に右拳を当てるためのものだ。


 ――だから。


 だから。


 やるのは一つ。拳をぶちかますだけ。


「はあああぁああッ!」


 吼える。

 全身を振り子のように揺らし、ハーメルンのわき腹目掛けて拳を叩き付ける。深く重く、ローレルの一撃が入り込んだ。


「ぬ、ぐぅっ」


 重い一撃を受けきり、ハーメルンはローレルの鳩尾に右拳を突き刺してきた。


「おっ……ごっ?」


 視界に白い靄がかかり、意識が飛びかける……が、ローレルは引き戻した拳に再度全身の力を込める。

 ハーメルンの拳が離れると同時に、ローレルはハーメルンの鳩尾に反撃をぶつけた。コークスクリューを深く、重く、捻じりこませる。


 直後、ローレルの頭部側面に衝撃が走る。ハーメルンが左拳でフックを放ったためであった。ハーメルンに当てていた拳が強制的に引き剥がされ、足が床面から離れそうになる。意識も飛びそうになった。


 飛んでいきそうな意識を、ローレルは掴んで離さない。浮きそうな足を、踏みとどまらせる。

 死んでも、拳を振るうのをやめるつもりはなかった。

 死んでも、負けを認めるつもりはなかった。


 一発一発に命をかけていた。


「があぁっ!」


 踏み込む。

 獣の叫びを上げながら、ローレルはハーメルンの顎に拳をめり込ませた。脚に力を入れ、顎を突き上げて無理やり天井を見させる。

 素早く腕を引き戻し、伸びた足を床に叩き付ける。

 そして、前屈みの体勢になった刹那、ハーメルンのわき腹を殴打した。わき腹を攻撃した反動で、腕を引き戻して構える。


 腕を引き絞り、放つ。


 ハーメルンが体を元に戻すと同時に拳を振るう。

 ローレルが溜め込んだ力を一気に解放させる。

 高速のフックと神速のコークスクリュー。

 どちらが速いかは明白だ。


 ハーメルンの顔面に打ち込まれるコークスクリュー。遅れて、ハーメルンのフックがローレルの顔に叩き込まれる。


 攻撃が当たったのはどちらも同じだ。ならば、問題はいたって単純である。

 どちらのダメージが大きいかだ。


「……あっ……」


 視界が揺らぐ。目の前が歪む。

 ダメージをより受けてしまったのはローレルだった。


「ぐっ……まだアァ!」


 だが、留まる。

 まだ見える。まだ動ける。

 なら、攻撃をやめてはならない。やめた瞬間、ローレルの負けが決定してしまう。


「はあぁっ!」


 拳を握り締め、ハーメルンにぶつける。


「おおぉっ!」


 重い一撃がローレルの意識を砕いていく。

 攻撃を受けて、攻撃を返す。留まることのない拳を応酬は、もはや意地の張り合いのようなものだった。

 脚が、腕が、ちぎれそうだった。血管が破裂してしまいそうだった。鼓動だけで心臓が爆発してしまいそうだった。

 それでも、それでもローレルは拳を振るう。拳を受ける。

 避ける力などない。だから、振るうしかない。


「カレジ、ローレルッ!」


 ハーメルンが叫び、アッパーを放った。

 それが、終止符だった。

 クリーンヒットした。ローレルの顎をアッパーが抉り、体を宙に浮かせる。


「ふんっ!」


 さらに一撃、顔面に拳が突き刺さってきた。

 体が滑空し、床へ落ちかける。

 視界も意識も感覚も何もかもぐちゃぐちゃにされて生きているのか、死んでいるのかさえわからないほどだった。


 ――負けるのか、ここまで来て。


 何のためにここまで来たのだろうか。

 倒れるな。立っていろ。

 自分に言い聞かせ、ローレルは地に足を付く。だが、体が大きく後方に傾いているため、倒れるしかない。踏み留まる力はもう無かった。


 ――負ける?


 そんな疑問が頭をよぎったとき、あるものが見えた。

 視界はもう歪みきっている。まともに見えるはずがない。だから、自分の幻想かもしれなかった。ただ、それでも見えたのだ。

 笑みを浮かべているブレイドが。

 いつものように悪魔の笑みを浮かべているわけではない。諦めたように、どこか悟ったように、満足した表情で微笑を浮かべて観客席から見ている。


「…………むか」


 脚を後ろへ投げる。


「むか、つく……!」


 床を踏みしめて、後ろへ逸れた上半身を前へ。


「私はっ」


 踏みとどまった。倒れなかった。

 体力はもうない。それでも、動いた。


「私は、お前なんかの思い通りには……いかない」


 何を全て知っていたような顔をしているんだ、と。理不尽な怒りをブレイドにぶつけて、ローレルは立った。汗を拭うつもりで額に手を当てたが、歪んだ視界が真っ赤になった。

 口の端を、吊り上げる。

 後のことなど考えていられない、殴る。ハーメルンを殴って倒す、それだけ。

 それだけだというのに体が全く言うことを聞かなかった。

 立ったまま、前へ進む力がかけらも出ない。

 一撃だ、一撃入れるだけなのだ。ほんの少しでも良い、一歩どころか半歩でも良い。前に進む力がほしい。


 ほしいのだ、力が。


 ローレルの人生はここ終わるわけじゃない。これからがあるのだ、ローレルの未来が。


 だから、力を絞りだせ。胸を張って前に進むために。


 脚に力を入れる。感覚がおかしくなっていて力が入っているかどうかわからないが、とにかく力を入れる。

 拳を握り締める。もう何が何だかわからなくて握り締められているかわからないが、とにかく握り締める。

 姿勢を低くしろ。そうすれば後は前に踏み出すだけだ。

 腰を落とし、構える。

 後は前へ進むだけ。

 前へ……


 ――いってきなさい、ローレル。


 それは奇跡のように唐突に。いたずらのように気まぐれに。

 ぽんっ、と。大きな手に背中を押された気がした。ひどく温かくて優しくて、それでいて懐かしい声と感触がした。


「……っ」


 そのおかげで、だ。


「――――ッ!」


 おかげでローレルは前へと踏み出せたのだ。

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