鉄槌
ここまできて、負けたくはない。
腕を震わせ、力を振り絞りながら、ローレルは上体を起こす。
骨が軋み、筋肉に激痛が走る。歯を食いしばり、手を強化ガラスに当てながらゆっくり立ち上がった。
ぼやける視界を、焦点を絞ることで安定させようとする。視界の端がぼやけて見えないが、中心辺りなら見えた。
青い巨人はローレルの眼前までたどり着いていた。拳で人の体を潰しに来る。
「終わりだ、ローレルッ」
怖い。
デリーが怖い。眉間にシワを刻み、ギョロリと向けられる視線の鋭さが。確実に体を潰してやろうという殺気のこもったパンチが。
雨の日に現れたあの悪魔を力でねじ伏せた巨人の拳が、怖い。怖くて堪らない。
ローレルは逃げた。足で床を蹴り、ふらふらと横に移動し、拳を避けた。倒れそうになるが、なんとか踏み留まる。
拳は放てても一発が限界かもしれなかった。
「フフフ、アハハハ……」
ローレルは渇いた喉で笑い声を絞り出す。
「オマエ、気でも狂ったか」
「そうかも、しれないな」
全身に痛みを感じながら、しかし、ローレルは口の端を吊り上げていた。
この恐怖に打ち勝つことができれば、自分は強くなれる。きっと、今までよりも強くなれる。
父のリベンジマッチを果たすためにクライムに来た。そして己の無力さを味わってきた。だからこそ、そこから脱せることをローレルは望む。
自分は、女でも、片腕しかなくとも、ボクシングでも、強いのだと。証明するために。
笑う。
この巨人を打ち倒せれば、自分は強くなれる。
「少しオマエを舐めていたのかもしれないな。もっとまともなやつかと思ってたぜ。ちょいと痛めつければ降参するかと、思っていた」
デリーは声音を低くして、ローレルを睨む。
「ところがどうだ? オマエ、ボロボロのくせに構えようとしてるじゃねえか」
「わ……私、だって」
近づいてこないのはありがたい、その間休めるし、準備もできる。
「ラックだけで、ここまで」
拳を上げて胸に引き寄せる。震える体に鞭を打ち、力を引き出す。
「来た、わけじゃ……ないっ」
フラフラと体を揺らしながら、ローレルはデリーに歩み寄る。デリーも足を動かし、近付いてきた。
「死んでも恨むなよ」
デリーは拳を握り締め、上から下へ振り下ろした。鉄槌のようなその一撃はローレルの頭目掛けて落ちていった。
左足を一歩前に出し、半身になる。だが、その程度では避けられない。ローレルの狙いは、鉄槌を振り下ろすときに下りてくる巨人の頭だ。
デリーは右手を地面に着き、左の鉄槌を振り下ろしてきていた。つまり、ボディへのダメージがなくなっていないゆえ、安定した姿勢での拳は放てなくなっているのだ。
ストレートでもフックでも放てばいいのに、デリーはさっきの一撃も振り下ろしの攻撃にしている。走って接近することもしなければ、ステップも踏んでこない。大地を踏みしめるように歩くだけだ。
だから、デリーはその場に踏み留まれず、姿勢も保てずに腕を曲げた形で鉄槌を落とし、頭を下げてくる。
ローレルは拳を突き出す。
全力のコークスクリュー。
振るわれるデリーの拳。
先に当たったのはローレルの拳だった。直前で手首を内側にひねり、威力とスピードを増したコークスクリューが、デリーの顔面に当たる。
だが、デリーの鉄槌も、ローレルの肩に叩きつけられる。
「アッ、ガアァ!」
肩から腕まで走る激痛に叫ぶ。
まだ、もう一撃。
左足を一歩前へ。
腕を引き戻し、体で振り回した。
「ローレル」
デリーが叫ぶ。デリーも一撃放とうとしてきた。
最後の力を振り絞り、ローレルはストレートを放とうとする。
しかしそれは、ストレートではなく、右スイングのような動きの、実に力任せな一撃だった。
ワンテンポ遅れて拳を叩き込む。デリーのテンプルに直撃した。
グギリ、といやな音が聞こえた。肩から先が吹き飛んだ。
「……ぐ、え」
デリーの拳はローレルの右肩に突き刺さっていた。拳を振るい切ったローレルの体は、抵抗できずにデリーの拳を受け入れていた。
拳が離れる。
ローレルが膝を付く。
意識が曖昧模糊とし、動くという考えが浮かばなかった。
だらん。
右腕は電池の切れた機械のように、役立たずのものになっていた。
終わった。右腕は、もう使えないのだ。
ローレルはただ息を漏らし、喘ぐしかできない。
デリーは両の拳を床に付け、ローレルを見下ろしていた。
ローレルには闘う術がなかった。
ぼんやりと、拳を突き出そうとするものの、それだけだ。動かないものは動かず、本能で突き出そうとするだけで何も考えていない。
デリーは表情を変えず、そのまま崩れ落ちた。ローレルの目の前でデリーがうつ伏せに倒れる。
「……え」
おぼろげな世界の中で、疑問符がわく。
理解できなかった。なぜ巨人が倒れているのか。巨人のウェイブが消えているのか。
「ローレル」
司会から声をかけられる。あの、ボブという男だ。
「デリーは気絶している。殺すのならば頷け。これ以上続ける気がないのなら首を振れ」
観客のざわめきなどは聞こえないが、ボブの声だけははっきりと聞こえた。
殺す? 冗談ではない。
ローレルはゆっくり首を振る。
『勝者、カレジ・ローレル』
ボブがマイクを使って叫んだ。
何も出来ないまま、時間だけが過ぎていく。意識はかろうじてまだあった。夢を見ているかのような気分だ。
ここを去らなければならないが、体が動かない。力さえ入らなかった。
「おい、いつまで動かねえつもりだ」
何分かした後、聞き覚えのある声がした。
あぁ、ブレイドの声だ。
ブレイドの名を呼ぼうとしたが、まともな声にならない。
「ま、無理か。あんなん食らっちまったら動けねえだろうな」
突然、ローレルの頭に手を置かれる。
「眠っちまいな。安心しろ、ちゃんと起こしてやるからよ」
優しげな口調のブレイドに言われ、ローレルは瞳を閉じる。
そして、ローレルの意識は闇の中へ沈んでいった。




