夢
世界が死滅している。
建物は崩壊し、砂や汚れにまみれ、雨風さえ凌げないほどになっている。
赤黒い絵の具が空を塗りつぶされている。
荒地に独り、ブレイドはいた。
終わった世界。
現実なわけがない、夢の中だ。
ブレイドは右手を唇の前に置く。途端にタバコが現れ、火がつく。
「ふぅー」
紫煙を燻らせる。
太陽もなければ、月も無し。
生きているのはブレイドだけ。
黙ったまま、ブレイドは歩き出す。一歩、一歩踏み出すたびに風塵が起こり、紫煙と混ざり合い流れていく。
肌に張り付く冷たさ、息苦しい空気。どこか感じる心地良さ。
夢とはなにか?
それは、神からの啓示である。
悪魔の囁きである。
魂が体験した記憶である。
夢とはなにか?
己である。
無意識下の世界である。
生きている世界とは違う世界である。
ここは夢である。
歩き続ける。
そして、ある建物の前でふと足を止めた。
歌が聞こえてきたからだ。
死滅しているこの世界で、歌を歌うモノがいる。
ブレイドはいっこうに燃え尽きないタバコを口にしたまま、誘われるように歌のするほうへ足を向ける。
そこには屋根もない白い廃屋と、少女がいた。
煌びやかな金髪、白い肌に、清楚なワンピース。
独りでくるくると回っている。両手を広げ、長い髪を揺らし、躍っているのだ。
透き通るような歌声がブレイドの耳を心地良くさせる。
聞き覚えがある歌だ。
「オペラ、ねぇ」
独りでオペラなぞできるわけもなし。
ただ少女は口ずさんでいるだけ。
少女は足を止めて、歌をやめた。そして、ブレイドに微笑みかけてくる。
「私、これが出てくる話が好きなの。あの話、素敵でしょ?」
ブレイドがまるでストーリーを理解しているのだとばかりに、少女が言う。
「恋なんざ、くだらねえな」
「相変わらず冷めてる……いいじゃない、ヒロインが狂っちゃうところとか、想い人がヒロインの後を追って死んでくれるところとか」
女神というのがいるのであれば、少女のような人物なのだろう。
美しく、純粋で、それゆえに歪んで見える。
「ロミオとジュリエットもそんなもんだろ」
「ダメよ、だってあれは勘違いだもの。最終的にロミオを追ってジュリエットが死ぬじゃない」
「順番なんざどうでもいいだろ」
「どうでもよくないの」
頬を膨らませて少女がブレイドに歩み寄る。
上目遣いになって、誘惑してくる。
「ねぇ、私、君が好き。愛してる」
「俺はお前が憎いがな」
「嫌い?」
「いや、全然。むしろ好きだ」
「変なの」
「お前は憎くないのか?」
「憎いわ。でも、それ以上に愛してる」
屈託のない笑顔が、眩しい。
しかしブレイドはこう返すのだ。
「俺はお前が好きだが、それ以上に憎い」
「真逆なのね。私と君って」
「何度も確認してきたことだろ、変わらねぇさ」
「そうね、何度確認しても、変わらない」
憎い、と言われたわりには、少女は嬉しそうだった。
「でも変わったわよね」
「何が」
「君の買ったド・レ・イ」
そうしてタバコを奪い取られ、少女がタバコを吸う。
「ふふん、関節キスだねー」
少女の小さな唇からふぅっと煙を吹きかけられ――
――意識が戻った。
見慣れた天井が目に映る。当然だ、ここは自分の家だ。
「おいリベリア……じゃねえ、今いねえんだ」
ソファから起き上がり傷の痛みを感じる。
猿の爪痕だ。それも数日で消えるだろう。
「富豪のやり口は今も昔も変わらねえな」
あきれたようにブレイドは呟く。
ブレイドも昔は富豪のために闘っていた時期があった。
そもそも、人身売買でブレイドは富豪に買われ、そこであらゆるものを徹底的に叩きつけられたのだ。感覚の鋭利化も、筋力も、肉体強化というよりは肉体改造というレベルだった。
闘い方を教わったのは富豪が雇った「師」からだ。
しかしブレイド自身が強くなり、ハンズで金を稼げるようになった富豪側には問題が発生する。
ブレイド自身が富豪を殺せるのだ。抵抗できなかったただの子どもが、富豪の贅沢に浸りきった体など片手で圧殺できるほどの力をつけている。
富豪はこの事態を予想して策を立てた。
ブレイドを縛り付ける鎖を作ることだ。物理的なものでなく、精神的なもの。
例えば家族。例えば恋人。
いなければ作ればいい。心のよりどころになる人物を仕立て上げればいい。
そうしてある日突然、ブレイドにはよく話しかけてくる少女ができた。
白い肌に、煌びやかな金髪。眩しい笑顔をよく浮かべて、人をからかうのが好きな少女。
それが、鎖だった。
そんなブレイドがなぜ今自由の身であるのか。
簡単だ。全部壊したからだ。
自分に技を教えた「師」も、鎖の役割だったとはいえ純粋に自分を好いてくれていた少女も、憎い富豪も。
全員この手で潰した。
潰して壊して、自由になった。たったそれだけだ。
夢に少女が出てくるようになったのは少女を殺してからだ。
何かきっかけのようなものがあると、必ず死滅した世界と少女の夢を見る。
どうもウェイブを使える人間と使えない人間の夢には差異があるらしい。
使えない人間は夢という自覚がない場合がほとんどで現実のような感覚は無い。白黒の世界に見えたり、現実とかけ離れていることが多い。
ウェイブを使う人間の夢は自覚がある場合が多く、現実のようにリアルだ。音は鼓膜に響くし、目には世界がちゃんと見える。
この差異にどういう意味があるのかは、ブレイドの知るところではない。
ただわかるのは、リベリアが自分の奴隷ではなくなったことが夢を見るきっかけになった、ということだ。
「さて、囚われのお姫さまのお願いを叶えるか」
独り言はやけに家に響いた。




