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【完結】太陽の拳  作者: 月待 紫雲
エピソード5
39/93

骸の仮面

 雨漏りが合羽に落ちてほんの小さな音を立てる。ローレル自身はバッグが置いてある隅に行き、座る。


「疲れた」


 片腕だけで膝を抱え、ローレルは瞳を瞑った。

 男は、ローレルがハンズで打ち負かした相手だった。ローレルは殺しを好まない。殺しを許されているハンズでも人を殺せず、気絶させるだけに留めていた。ゆえに、闘いが終わった後、意識を取り戻した相手が因縁をつけにくることがたまにある。そうして追いかけてきて襲いかかった相手は先程のように拳で黙らせるのである。


 普通はウェイブを使われ、こちらもウェイブを使って応戦するのだが、今回相手が馬鹿だったのかウェイブを発動させずに襲い掛かってきた。ハンズで闘ったときはパープルウェイブを使っていたというのに。

 まぁ、あまり気にすることではない。男は気絶させたから、ここまでは追いかけてこられないだろう。


 ブレイドとリベリアと別れて、数週間が経った。


 ブレイドのおかげでウェイブを使えるようになったローレルは、ハンズで勝利を重ねた。ウェイブを使う相手でも決して負けることはない。ただ、闘いが終わった後、ひどい疲労がローレルを襲う。ウェイブにあまり体が慣れていないからであろう。ブレイドが説明したように、体の変化についていけなくなり死ぬことはないが、体の急な変化には体力を使うらしかった。


 ハンズで金を稼ぎ、ローレルにはやらなければならないことがある。


 ロイヤー・ハーメルンへのリベンジだ。そして最近、ハーメルンがどこで何をしているのかがわかったのだ。

 クライムの中心都市イルネスウォー。そこでハーメルンはハンズをしている。ボクシングで言うところのチャンピオン、ハンズの「キング」となって。


 会いたい。会って、闘いを申し込みたい。


 しかし、ハーメルンの立場上、ローレルから会いに行くことは難しいだろう。イルネスウォーはクライムの中で政府が管理する数少ない場所であり、ハンズのキングは政府に管理されている。ハーメルンか、政府の了承無しに、ハーメルンには合えない。


 会うためにはハンズで名をあげなければならない。噂がハーメルンの耳にも届くように。


 特にイルネスウォーで行われる大規模なハンズで勝利を重ねるのが効果的なのだろうが、あいにくローレルにはイルネスウォーで生活を続けるほどの資金がなかった。ゆえに、今資金調達中なのである。方法はもちろんハンズだ。隻腕のローレルを、雇ってくれる者は少ないだろう。クライムで高く稼げる仕事としては風俗商売や清掃、環境整備の仕事などだが、考えるまでもなく論外だ。よって、ローレルには稼ぎ口がハンズしかない。


 移動をしながら稼いでいたため、イルネスウォーにいくらか近い都市にはやってこれた。宿泊施設の利用は金がかかるため、タダで雨風を凌ごうとした結果、このスラム街の空き屋で生活することにした。ここでの生活を始めて四日経つが、誰からの文句もなければ住人が帰ってくるわけでもない。完全に忘れ去られたような場所だった。


 ゆっくりと、瞳を開く。


 思い出したようにそっとジーパンのポケットに手を入れ、封筒を取り出す。


 今日の稼ぎだった。


 次に合羽の、胸ポケットから財布を取り出した。封筒の金を、財布に全て入れる。バッグに入れても良かったが、金だけは盗まれては困る。

 自分の目の届くところになければ安心できない。

 財布をジーパンのポケットに仕舞い、バッグの中に封筒を入れる。

 ローレルは拳を開いたり閉じたりして感触を確かめてから、再び目を瞑り、膝と額をくっつけた。

 最近は随分浅い眠りばかりだ。眠れないのではない、寝ていられないのだ。この住居には鍵のついた扉も窓もない。いつ誰かに見つかって、見つかった相手がローレルに牙を向いたとしたら、眠っていて対処できませんでしたでは話にならない。すぐさま飛び起き、対応しなければならないのだ。

 だから、深い眠りは取ってはいけない。眠りは浅く、誰かに見つかった瞬間に動き出せるよう、感覚は研ぎ澄ませていなければならないのだ。


「はぁ」


 疲れた。ただ疲れた。

 そろそろ宿泊施設を利用しようか。

 ローレルは思考を巡らせながら、感覚を研ぎ澄ませ、意識を寝ることに向け始める。


「明日、決めよう」


 悩む力もなく、ローレルが意識を手放そうとした……その時。


 異様な殺気がローレルの心臓を射抜かんばかりに発生した。鋭く、どす黒い感情の篭った、濃密な殺気だった。


 闘いにおける覇気ならブレイドよりも凄まじいものに出会ったことはない。しかし、殺気で感じる気色の悪さは、今感じ取っているものが生きてきた中で一番だった。

 鳥肌が立ち、体が警報を鳴らす。

 ローレルはすぐさま立ち上がり、構えた。

 開けた視界には、


「……何だ、お前は」


 雨粒が張り付いているビニールの向こう。

 雨の降る外で「ソレ」はこちらを見据えていた。

 黒い、ローブを着た何か。

 顔も容姿も全く見えない。


 不気味だ。


 人間とは思えない雰囲気を身に纏ったソレは、顔を仮面で覆っている。髑髏の仮面だ。

 姿はまるで、死神のよう。

 髑髏の双眸から、異常な殺気が放たれている。奇妙なことに黒く空いた双眸の奥には赤い光があった。仮面をつけている人間の瞳の色であろうか。いや、その前に人間なのだろうか。

 ローレルは幽霊や悪魔の類は信じる信じないを決定付けるほど知識があるわけではない。しかし今、「幽霊や悪魔が実在するか」と問われれば、ローレルは「いる」と答えてしまいそうだ。


 今、目の前にいるナニカがとても人間には見えない。


 濃密な殺気が、そのまま攻撃になればローレルは殺されてしまうかもしれない。そう感じてしまうほど圧倒的なものだった。

 静かに、動かず。

 ソレはただ、こちらを見つめている。


「……くっ」


 歯を食いしばり、拳に力を込める。寒気と鳥肌が止まらない。

 なぜソレがここに来ているのか、なぜソレがこちらに目を向けているのかなどという些細な疑問が浮かぶ余裕さえなく、ただ殺されないためにどう闘えばいいのかばかりが気になった。それしか、考えられない。

 殺気だけで吐き気がこみ上げてきそうなのだ。ソレを視認した途端、ソレの気配が濃密すぎて何がなんだかわからなくなってしまう。


 唾を飲み込む。


 耳に聞こえるのは、鼓動と呼吸音と雨の音。いずれも普段は気にならないほどかすかな音だ。かすかな音ゆえに、それらが聞こえるほどローレルの聴覚が研ぎ澄まされていることがわかる。

 いつの間にか額に汗が滲み出していた。

 ソレはいつ動き出すのか。動かないのか。

 いつまでこの緊張状態が続くのか。

 考える余裕もなく、ローレルはひたすらソレを視界に入れ続けた。


 やがて。


 ふらりとソレは上体を動かした。

 跳躍してくるのか、それとも堂々とこちらに入ってくるのか。

 どちらにせよ対応できるように、ローレルは準備した。

 だが。


「……えっ」


 ソレは身を翻して、その場を立ち去っていった。雨の中に、ぼんやり溶け込んでいき、幻影のように消えていく。

 ローレルは体を硬直させたまま、警戒を解けなかった。まだ殺気を感じていたためである。

 雨に少しずつ洗い流されていくように、濃密な殺気は徐々に徐々に消えていく。ローレルが警戒していた殺気は、ただの残滓だった。

 それを知り、ローレルは構えを解いて座り込む。


「かはっ! ……はぁ、はぁ」


 汗を拭いながら、ついさっきまではしていたはずの呼吸を忘れていたことに気付いた。


「何だ、アレは。何だ……」


 脳裏に焼きついて離れない記憶が、ローレルの恐怖をかきたてた。寒気はいっこうに消えなかった。


 結局。


 ローレルはその日眠ることができず、髑髏の仮面をつけた者の正体は無論理解できるはずがなかった。

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