孤独死は悪なのか
よく、孤独死を問題視される事が多い。
孤独死なんて、ここ数十年前まで一切聞いた事もない言葉だった。
なぜなら、近くに親戚が、子供が、近所の人がいたから。
しかし、今、隣と隣の関係は皆無となり隣を心配するよりも、隣を監視しているような社会になっているのではないだろうか?
村社会と言われればそれまでではあるのだが、そんな社会の中で、一人暮らしの老人は何人いるのか。
むしろ、子供が先に逝ってしまった一人暮らしの老人は何人いるのだろうか?
事故でしか起こらない、親より先に逝く事が不幸と言われた時代は、この長寿社会の中で終わってしまっていると思っている。
ならば、親だけが生きている方も相当数いるのではないだろうか。
今、平均寿命は延びていない。
けど、これは、数字のマジックではないかと思っている。
事故などで死ぬ子供達の数が多くなっているために、この数字は正しくないのではないかと思うのだ。
実際、100歳を迎えた老人の数は過去最高になっている。
100歳時代は来てしまっていると思っている。
その中で。
施設に70で入った場合、30年、施設で暮らす計算になってしまう。
30年、制限された生活を送らなければならないと考えると、自分がその立場になれば、気が狂うだろう。
昼まで寝ていたいし、朝ごはんなんか、食べなくても全然いい。
夜中の2時に食べるカップラーメンは止められる訳もない。
まぁ。こんな生活をしていたら、自分自身は、長生きは出来そうにないので、心配する事もないのだろうけれども。
何十年も施設で暮らすと考えた場合、施設は第二の家と考える考え方が本来であると思う。
家であるなら、自由に過ごし、自由に食べ、自由に寝て、自由に起きる。
それが出来てこそ、気兼ねなく過ごせるからこそ家なのではないのか。
ならば、ケアマネが作る、ケアプランとは何なのだろうか?
何時に、トイレに行き、何時に食事をして、その管理を誰がして。
食事についても、これを食べないように徹底して。
施設でのプランそのものに、疑問を感じてしまう。
吐くほど食べたい事もあれば、あびるほど酒を飲みたい夜もあると思うのだ。
人なのだから。
そんな疑問を思った時、在宅でのケアプランが気になってしまって、聞いた事がある。
すると、いついつに、デイケア、デイサービス、食事についても、何時に弁当配達、ヘルパーがいつに入って。
と日中にほとんど、詰め込まれている事が多い。
寝たきりになろうものなら、一つ一つの時間が長くなってしまうので、日中の自分の時間が無い人もいるのではないだろうかと思ってしまうのだ。
その実。
夜間はほぼドフリーなのだ。
つまり、夜に来るのは、おむつ交換の人だけであり、基本家族に任されている事が多い。
夜間に人を入れると、値段が跳ね上がるとも聞いた事がある。
家族への負担は、いかがなものなのだろうか。
鬱は、夜にその本性を発揮する事を、実体験として知っている私としては、無理だと思ってしまう。
認知症も、夜妄症も、夜こそが本領発揮なのだから。
自分が仮眠をしている間に、うんこを持って歩く事など日常茶飯事である。
夜に買い物に行こうとして、家を出る事もあるだろう。
夜にそばに居なければならず、そばを離れる事も、目を離す事も出来ないのであれば、仕事など出来るわけがない。
介護休暇と言われるが、介護をするために休暇を30年も取らせてくれる企業があれば、教えて欲しい。
結局は、施設に行きつくしかないのだ。
そして、自分の家に帰りたいストレスを抱え、最後は完全に壊れながら死んでいく。
それを幸せと呼んでいいのか。
認知症が治る病気であれば、施設にしばらく入り、家に帰るのもありであろう。
しかし、現実はそんなに甘くはない。
家族には、家族の生活があり、仕事があり、責任がある中で、親を見るために何度も休むなどしいていれば、付き添う家族が壊れてしまう。
結局は、施設に入れば家に帰るなどの選択肢が実質無くなってしまうのが現状だと思うのだ。
その中で、家で一人で死んでしまう孤独死は、本当に悪なのかと思ってしまうのだ。
結局、その方は、自分の生きたいように生きて、病気になり、死んでいったのだろうと。
ならば、別の言い方をすれば、「その人らしい死に方」をした人もいたのではないかと考えるのだ。
餓死や、医療を受けれない、自己ネグレクトによる病死は、問題外であるが、普通に生きて、昨日まで買い物に来ていて、数日後に死んでいるのを発見したというのは、ある意味、その人にとっては、「大往生」であると思うのだ。
なら何故、孤独死が大騒ぎされるのか。
結局は、警察が病死か、事故死かを調べ、検死を行い。
事故物件となってしまい、特殊清掃を行なわなければならない。
多くの人にとって、「迷惑」であるから、問題になってしまうのだろうと思うのだ。
ならば、考え方から変える努力もあってしかるべきなのではないだろうか。
この部屋は、「ピンピンコロリ」の部屋だと、胸を張って言える部屋があっても良いと思うのだ。
そして、それこそ、理想と思うのなら、それを目指すべきだと思うのだ。
なのに、マスコミは、孤独死を問題死する発言を行う。
心臓病にて、突然死したと、病院で診てもらえなかったのかと。
診察ミスではなのかと、騒ぎ立てる。
ほとんどの人が、「ピンピンコロリ」を願っているのに、マスコミは、「ピンピンコロリ」がまるで悪のような報道をしている事に、昔から疑問を感じていた。
60であろうと、70であろうと、80であろうと、90であろうと。
「あの人らしい死に方であった」と言える社会があってもいいのではないかと思うのだ。
今、コロナで、バイタルチェックが出来ないと騒いでいる。
スマホウォッチで、バイタルが測定できる機器も出来ている。
ならば、なぜ、それを本格的に導入し、「ピンピンコロリをすぐに発見できるシステム」を作ってくれないのか、疑問に思うのだ。
「医師の診察」があり、「看取り期」に入っていなくても、「ピンピンコロリが存在する」
法律を作って欲しいと思うのだ。
そこには、おそらく、「安楽死」の概念に触れなければならない部分が多量に出て来てしまうと思われる。
しかし、「その人の人生であり、その人の死に方だった」と思える社会作りは必要なのではないかと思うのだ。
その上で、「ピンピンコロリ」を早期発見でき、さらには「ピンピンコロリによる死」には、警察も介入せず、そのまま葬儀や、埋葬に移れるようにしてしまえば、その部屋は、「ピンピンコロリ」の部屋として、価値が上がると思うのだ。
孤独死。
誰も看取ってくれる人がいない、いないと騒いでいる時代は終わったと思っている。
どうせ、施設に入っても病院に入っても、コロナのこの時代。家族には看取ってもらえず、ここ数年しかかかわった事のない、「近場の知り合い」にしか看取ってもらえないのだから。
書きながら、泣いてしまったので一度、書き込みを終わらせてもらいたいと思います。
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コロナで、さらに大変になってしまっている状況ではありますが、休める時に休み、頑張りましょう!
インフルエンザで、半分倒れた時を思い出せばなんとかなるっ!