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老後福祉従事者からの愚痴  作者: みのむしの愚痴
2/11

施設とは、働く側からの現状

最近、老人系のエッセイを携帯で見る事が増えて来た。

ケアマネ選び。

施設選び。

こうしたらよかった。

これを言ったら良くしてもらえた。


そんな記事をよく見るようになった。


しかし。

その記事を見る度に。一人の職員として苛立ちを感じるのだ。


ふざけるなと。


そこまでしたいのなら、自分で面倒を見ろと。

親は、そんな事を、施設に放り込まれることをそもそも望んでいるわけではないのだ。

ケアマネに、自分の人生を生活を、管理されることを望んでいるわけではないのだ。

子供に面倒をかけたくないから。

子供の生活を壊したくないから。

割り切れない思いを抱えて施設に入って来るのだ。

ケアマネに、自分の人生設計をお願いするのだ。


そして、私たちは、その思いをくみ取りながら必死にプランを立てるのだ。

どうしたら、その人の生活を支えられるのか、考えるのだ。


本当であるのなら。

家族が、いつでも会いに来てくれて。

真夜中に、声が聴きたくなったと、子供に電話をして。

夜中にタクシーで乗りつけ、あんたに会いたかったと言える状況を望んでいるのだ。


真夜中に、医者からとめられている、甘いお菓子を食べて朝に胃もたれして、苦しむ生活すら楽しみたいと思っているのだ。


そんな生活は、施設では絶対にタブーである。

なぜなら、それは家族からのクレームとして対応しなければならないからである。

夜中に、食べてしまい詰まらせて死んだり、病院に運ぶとなれば訴訟ものである。


病気が悪化してしまえば、なぜ見てくれていなかったと言われてしまう。


絶対にクレームを避けたいと思うあまり、制限してしまう施設は多いと思う。

自分の働いてきた施設もほとんどがそうであった。

しかし、そこに本人の希望はあるのか。

後、数十年、数年しか生きられない人生の中で、激しい制限をされた人生に楽しみなどあるのか。


最近、自分の人生をあきらめて、他人を巻き込んで一緒に死のうとする、「最強の人」と呼ばれる人がこの世の中にいると言われ始めている。

しかし、私は思うのだ。

老人こそが、「最強の人」なのだ。


なのに、先が無い「最強の人」であるに関わらず、世間に、子供に、親戚に迷惑をかけたくないと言って、胃に穴が開くほど、病気になるほど我慢して生活している人がどれだけ多い事か。


施設に置いて、個室最強と言われ。

プライベートが必要と言われ続けて来た。


しかし、今、そのプライベート空間に、監視カメラをつけると言う。

虐待があるかもしれないから、盗聴器を仕掛けると言う。


転倒の危険が高いから、カメラを、センサーをつけると言う。


プライベートはどこにいった。

個人の時間はどこにいった。


自室にて、自慰行為をすることすら、「キモイ」と呼ばれる生活に、プライベートなどあるのか。


思いつきで書いてしまったが、老人の性も、問題になっている。

年を取ってすら、夫婦の生活をしなければならないのか。

そんな女性目線の記事を見て、震えてしまった。


男は、80であろうが、100であろうが、性欲は変わらないのだ。

若い女の子と話をしたいし、軽いスキンシップはしたいと思っているのだ。


偉人や、笑い話として、70歳、80歳で子供を作った男性の話が良くあがる。

しかし、忘れてはいけない。

その年であろうとも、男性にとって、性欲はあるのだと。命を作り、子孫をつなげる生命としての根源でもある本能はあるのだと。

自身が出来ないのなら、外でプロに処理してもらうのもありではないのか。


そこに、女性との絶対的な価値観の違いがある事を、これだけ大威張りで発信できる時代、多様性を声高に叫ぶ世界に置いて、未だにお互いに理解できていない事に震えてしまった。


話がそれてしまった。


施設虐待と呼ばれるものの流れで書くのだが。


ひと時代前には、拘束禁止。

寝たきり禁止と叫ばれてきた。


とにかく、起せと。

日中は車いすで、机で生活しろと。


レクリエーションで、楽しいひとときを提供しろと。


20代は何も考えずに、それを楽しんできた。

一緒に笑って過ごして来た。


しかし、今、自身が年を重ね体のあちこちにガタが来て、会話を多くするようになり経験を積み。

考える事が増えて来た。

レクリエーション活動を毎日する必要があるのか。

毎日、頭の体操をすることを仕事としていいのか。

休みの日には、ただひたすら寝ていたいと思う自分だからこそだと思うのだが、自分が年を取った時、レクなんか絶対に参加しないと思う。


グループホームでは、一緒に掃除を行い、一緒に料理を作り、一緒に洗濯をする。


昔ながらの老人ホームや、病院では、全ては職員が行う。

ならば、掃除や、洗濯をプランの一つとせず、その方の仕事とし、きちんと報酬を払うのが必然ではないのか。


そこから、考えをあらため、利用料の削減を考える事は出来ないのかと考えてしまうのだ。

それを行う施設に対して、障碍者雇用の補助金を出せないのかと考えてしまうのだ。


グループホームは、利用料が高い。

基本、月に10万を超える事はざらである。


その費用を、年金と、子供が負担する。

なら、その負担している子供が年を取った時、その負担していて部分は誰が払うのか?

今の少ない少ない子供達が、お互いに負担しあって払うのか?

親の面倒を子供が見るという考えはすでに前に述べた通り、捨てたほうがいい。

面倒が見れる世代は、親を、祖父を、おじを、おばを見る可能性があるのだ。

一族全てを一人で面倒を見る事すら考えなければならない時代なのだ。


考えてみて欲しい。

10クラスあった学校が、廃校になり。

500人いた学校が、今は、10人いない事すらあるのに。


子供に負担しろと?


施設は、今のままでは20年で限界に来る事がすでに見えてしまっている。

子供が、新卒が居ない世の中で、この業界に入って来る人は明らかに少ない。


それなのに、施設職員を増やすために、賃金を上げると今更のように言い始めている。


今から増やした所で、施設が限界をきたした時、新人が育っているわけもないのに。

多くの人が離脱した介護業界で、再び辞めた人を集めた所で、施設が回るわけでは無いのだ。


施設を辞めた人は、辞めた理由がある。


ずっと続けて来た人と出会えば、やはりみんな考える事は一緒なのだから。


みんな、この業界が好きなのだ。

お金ではなく。

障害の子供と一緒に過ごす事が。老人と一緒に最後を過ごす事が。

結局。

根っこの部分で、この世界が好きな人が何十年も務めて来ているのだ。

だから、辞めたとしても、何年か経った後、この業界に戻ってきている事が多い。

賃金の大小ではなく。

基本、この仕事が好きだから。


そんな人たちが、悲鳴をあげているのが、今の施設でもある。

今、センサーをつけて人を減らせばいいという案が出ている。

介護ロボットを作ればいいと言う人もいる。


しかし、今の現状で、おむつを替えるのは人である。

トイレへ誘導するのは、人である。

認知症の人に、このボタンを押せば良いと言って、押せるわけがない。


職員呼び出しボタンすら押してくれないのだから。

その上で、転倒、骨折。

転倒、頭部打撲のなんと多い事か。

介護にかかわる人ほど、機械には限界があるという事を理解している人は多い。


鳴り物入りで参入してきた、会話ロボットは、ほとんどの施設で置物と化しているのではないだろうか?

センサーが鳴ったからと言って、ふらついた人を支えてくれるわけでは無い。


同時にセンサーが鳴った時。

職員は常に選択を迫られる。

誰を後回しに出来るのか。安全に全てを回るために、どう行けばいいのか。

そこには、経験と、病気に対する理解と、その人の今の身体状況。下手をすれば精神状況まで関わって来る。

全てを理解して、転倒するならどんな人なのかを経験しているからこそ考えられるのだ。

さらには、この時間なら、そろそろあの人が鳴らすだろうという経験すら入って来る。


そこに、少しの好き嫌いが入ってしまうのは、人だから仕方ないだろう。


そんな状況で。

夜間ではワンオペなのだ。

年を取れば分かると思うが、年を取れば、夜間頻尿になる。


夜中に数回トイレに行くことは必須になる。

なのに、おむつを外せと言う。

夜中であろうと、トイレに連れて行けと言う。

無理である。

3階の人がトイレに行っている間に、2階の人がトイレに行きたいと言った時。

自分は限界が来ている夜中に、5分待てるのか?


無理である。ならば、一人でトイレに行くだろう。

職員が瞬間移動する事は出来ないのだから。

夜中に一人でトイレに行けば、いつか転倒する。

いつか骨を折る。

いつか、頭を打ち、病院へ送る事になる。


だからこそ。新人一人に夜間を任せる事が一番危険なのだ。

そんな中で、怪我があれば先輩に叩かれる。管理者に叩かれる。

夜勤が出来ない職員は、先輩職員から、お荷物扱いをされてしまう。


新人が育つ環境が、整っていないのではなく。

制度として、箱として、業務として限界を迎えてしまっていると感じてしまう。


二人で夜勤をさせる事ができるほど、お金を稼げている施設がどこにあるものか。


失礼。また、愚痴になってしまったみたいである。



結局、私が言いたいのは人が求めるものは人なのだ。

年を取れば、さらに人を避けたいと思うのに、人を求めてしまう。

因果といえばそれまでなのだけど、この業界にいると何度も苦しい思いをする事がある。

感情をぶつけられて、泣く事もある。

セクハラされて、泣く事もある。


それでも、必死に職員は夜を過ごす。

独り対50人と言う、地獄の夜を。

その中で、人の転倒を無数に見て、無数のヒヤリと、数多くの事故を体験して職員は育つのだと思っている。

夜勤者の人が日勤が来たときにホッとするのと一緒に、必ず「疲れた」と言うのは、夜起きているから言うのではない。

夜間、一時も休まず動き続けていたからこそ、頭を働かせ続けていたからこそ出て来る言葉なんだと思う。


そんな仕事環境の中で、時々出る、5分毎のナースコールが、どれだけ職員のストレスになるか、考えて欲しいのだ。

5分毎のナースコールは、職員にとっては全ての時間を奪われる一番嫌われる行為である。

何も出来ない。

そして、それにイラついて暴言が出てしまうのも納得できる。


それが、毎回、毎夜続いたとしたら。

いつか口が出てしまうだろう。

いつか、手が出てしまうだろう。


虐待や、暴言を騒ぎ立てる前に、施設とはどうあるべきなのか、誰が世話をしているのか、もう一度考えを変えない限り、そのうち、コールが多い利用者は、施設入居が出来ないという

「利用者の選別」が行われるようになってしまう。

それは、クレームが多い家族がいる場合でも同じように選別対象になって行ってしまう。


施設は人手不足であり。

次々と施設は無くなっているのだから。


私としては、施設とは「行く所が無くなった人の最後の砦」であるべきであると思っている。


その「最後の砦」にお世話になる前に、ぎりぎり、限界まで自分の家で。

自分の環境で。

自分が築き上げてきた人間関係の中で。

生活して欲しいと、生活が出来ればと節に思うのだ。

それを支える支援を、それが出来るための環境を。

施設ではなく、ヘルパーを。ボランティアを。

常に育てて欲しいと。

ケアマネも、この業界に関わる全ての人間に、心から、土下座してでもお願いしたいのだ。


「最後の砦」には、介護が好きで、人が好きなプロたちが務めているのだから。

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[良い点] >介護にかかわる人ほど、機械には限界があるという事を理解している人は多い。 機械を導入する際には、本当にそれが今の現場に合うのか、しっかりと運用できるのか、運用できるまで仕組みを構築で…
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