はじめに~ 安楽死すら、甘美に見える現実
私は、老後福祉に携わりずいぶんと経つ。
人が、成人するくらいの時間は携わって来ているつもりだ。
その中で、日本が置かれている現状。
何故か、マスコミが一切報道しない事にいらだちを覚え始めている。
だから、これをここで書いてみて、自分の苛立ちを解消できれば、と思って執筆してみる事にした。
日本の老後と、安楽死について
安楽死は、裁判にて違法だと言われて久しい。
この前も、安楽死を行った医師が、裁判にて違法とされた。
なのに、親が子を。
子が親を。妻が、夫を。夫が 妻を。
介護疲れによる殺人は、一週間に一回、どこかの記事で目にしてしまうくらいには起き始めている。
もはや、社会現象と言ってもいいのではないかと思うのに。
なのに、なぜか報道を一切されない。
スルーされてしまっている。
その奥で、その陰で。
虐待などは、無数に存在しているのではないかと思うのだ。
施設で行われ、騒ぎ立てる虐待など、本当にごく一部だと思うのだ。
虐待は、家でこそ。家族だからこそ。
無数にあるはずなのだ。
では何故、そんな事になるのか。
結論から言ってしまえば、家族に物理的な無理が来ていると思うのだ。
少子化と言われて久しい現代日本。
今、子供が抱えなければならない老人は何人なのか。
年金がもらえないと言われて、「そんな事は無い」と政府は言う。
しかし、年金どころではないのだ。
今、60代、70代、80代の息子が、80代、90代、100歳の親の面倒を見る事が普通になっている。
下手をすれば、60代の孫が、100代の祖父、祖母と、80代の自分の両親。
やもすれば、親の兄弟、つまりは、おじさん、おばさんまで面倒を見ているのだ。
そんな状況で。
まともに老後が送れるはずもないではないか。
親を一人見るだけでも、人間は限界が来る。
認知症になれば、それはなおさらである。
常に付き添っておらねば、何をするか分からない。
家の中が、糞尿まみれになるのはまだ可愛い方なのだから。
家で、骨折し、入院による付き添いをお願いされたり、町を歩き回り、電車を止めたり。
隣の家に文句を言ったり。
さらには、認知症にはほぼかなりの確率で、鬱が付いてくる。
理由は簡単である。
今。自分が何をしようとしたのか分からなくなる。
両手、両足がうまく動かなくなる。
子供が、兄弟が分からなくなる。
仕事もままならなくなり、家事すら出来なくなる。
つまり、自分が生きて来た全ての経験、積み上げてきた自分の人生が壊れていくのだ。
70年、80年積み上げて来たその全てを壊されて、まともに生きていける人間などいないのではないだろうか。
そんな中、親のイライラは、どこにぶつけられるのか。
結局は家族に向かってしまうのだ。
親といえ、夫婦とはいえ他人である。
お互いに意見もぶつかるし、相手にイライラすることもある。
基本的に親と合わない場合もある。
そこに、鬱という病気が覆いかぶさってくる。
地獄ではないか。
子供や、介護世代といわれる、働いている世代の子供達に、鬱の面倒を見るという、本の中でしか見た事のない現実がいきなり目の前に広がるのだ。
普通に働いて来て、覚悟もない状態で面倒を見れる人は何人いるのか。
なのに、今のシステムは、面倒を見る人がいなければ、施設も、病院も面倒を見てくれないのだ。
だからと言って、祖父の面倒を、おじの面倒を、叔母の面倒を、働きながら真面目に見る人などいるのだろうか?
その結果、結局生まれるのは、名前だけ貸して数十年、施設と病院を行ったり来たりする老人の姿なのだ。
この年になり。
私が、20歳代で面倒を見て来た老人を看取る事が増えて来た。
個人情報ではある。
だが、そこにあるのは結局家に帰る事が出来なかった、家で生活することすら困難と言われてしまった老人の姿が、あふれてしまっているのだ。
家で生活できないのなら、どこで暮らせば良いのか。
なのに、施設に入った認知症の老人は、ほぼ、全員が言う。
「家に帰りたい」と。
そう。本当は、最後まで家で暮らし、家で死ぬのが希望なのだ。
しかし、家では、暮らせない。
人として、生活を送る限界を迎えてしまっている。
「生活限界」と言われる老人は、まだまだ潜在的に多いと思われる。
これから、さらに増えると思われる。
だからと言って、施設に入るのすら、物理的に限界が来ている。
施設すら、人手不足で、老々介護になりつつある。
これは、また後で書きたいと思っている。
こんな状況化。自分が生活が出来なくなった時。
いつ、自分の人生に幕を引くのか。
考えなければならない時代が来たのではないのではないかと感じているのだ。
死ぬのは怖い。
しかし、自分が、自分であり、自分として生きる事が出来ない事もまた怖いと思うのだ。
タブー視されている問題。
誰もが目をそらしている問題。
しかし、一番考えたくないこの問題を、真剣に。本気で議論する時期に来ているのではないだろうか。
正解は無いと思う。
私も、この問題を考えれば、死にたくない、面倒をかけたくない。
自分として、気ままに暮らしたい。お金などあるわけもない。
家賃は払えるのか。
いろいろな考えが混ざり合い、しんどくなる。
考えたくなくなる。
先伸ばしにしたくなる。
しかし、今、私たちが考える事を辞めてしまった時。
私たちの子供達、孫たち。
これからの子供達を締め付け、苦しめ、子供達に地獄を見せる未来しか見えて来ない。
今、安楽死という人生の幕引きすら、選択肢の一つとしてあってしかるべきでは無いかと
考えてしまうのだ。
子供のいない自分を、甥の子供や、姪の子供が面倒を見ると言う、笑えない状況になる前に。