彩光キャンディー
タイトルの読み:彩光キャンディー
五月、新緑の季節。
今日も私は、自分だけの雨を楽しんで歩く。
朝日の下で虹色に濡れる、私の足跡。
こぼれ落ちる透明なキャンディーが、一つ一つ、積み重なって。
何度も振り返っては、その波紋を、美しいと味わうの。
* * *
「光桃! たまには晴れを楽しめば?」
葵の制服のスカートのひだが、雨のカーテンの間で揺れる。
「それ、私が彩太に言うセリフ」
雨製造機「レニー」の降水量レベルを「やや強」から「弱」に下げて、私は言った。会話に支障のないレベルの雨音は、残したいもの。
「あいつは短距離走のタイムのためでしょ」
「登校タイムだって大事だよ」
私は、大袈裟にマイナスイオンを吸い込んで吐いた。
「アタシはいいけどね。アタシは」
葵の声が、雨音を突っ切って私に届く。
傘をさしていないのに、彼女の紺色のブレザーはまったく濡れていない。
桜の散った後の葉っぱたちが、我関せずと乾いた葉を揺らしている。
レニーは、「ウェザー・コーディネーター」社が開発した機械の一つ。
ドーナツ型に穴の開いた特殊金属は磁石の力で頭上に浮き、搭載されたA.I.に命令すれば、いつでもどこでも自分の周囲にだけ雨を降らすことが出来る。
雨はレニーの輪の外側沿いに降るから、真ん中に立つ本人は普通に歩けば濡れない設定だ。
――レニーおたくの雨女。歩道が濡れて大迷惑。
雨音に混ざって耳に届く、じっとりした陰口。
そんなの全部、雨と一緒に流してやるから。
「光桃、もう校門だよ」
そう言った葵に申し訳ないから、
「レニー! 雨とめて!」
私は顔を上げて宙に呼びかけた。
「承知しました」
機械音声が聞こえて、雨が瞬時に止んだ。
二人の間を遮るものが消えて、湿ったコンクリートの匂いが鼻をつく。
「もう少し、癒されたかったな」
深呼吸をして私は呟いた。
「昼休みも使うんでしょ」と、葵の呆れた声が響く。
「いや、今日は彩太のトラック走を見に行くから」
「部外者のくせに。いっそ、光桃も一緒に走れば?」
葵が、私の頭上の輪っかを指してケラケラと笑った。
「レニー夫婦で全国目指せ! タイムもお揃いにしろ!」
「ハイハイ」と言って、私はレニーを手に取り圧縮した。浮き輪から抜ける空気みたいな音がして、天使の輪の形が瞬く間に平べったくなった。
去年の高校一年生の誕生日に私がレニーを親に買ってもらったのは、あの瞬間がきっかけだった。
昨年の十月、秋晴れの雲一つない日の放課後。
「自己ベストきるかな?」
「あの条件で!? ありえん!」
運動場のトラックに立った彩太を見守る、陸上部の部員や部外者たちのざわめきは毎度のことだ。
幼馴染の彩太が短距離走の練習で走る姿を、同じ高校に入学後から何度も見てきた。
彩太は手足が長くて、馬みたいに駆ける。
しなやかに走る競走馬の、青毛のような黒髪を風になびかせて、ただ目の前だけを、足元なんて見ずにいつも飛ぶように駆け抜けていた。
あの日、レニーの輪を頭上に浮かせた彩太は白いユニフォーム姿も相まって、大きな天使みたいだった。
トラックで彩太がクラウチングスタートを切った瞬間。
彼の靴の裏が、馬の蹄のように地面を蹴った一瞬で。
私の心臓も、運動場の砂と一緒に踏まれて蹴られた。
小気味良いくらいの圧倒さで放置されて、私から彩太はどんどん遠ざかっていった。
斜め上空を浮遊するレニーが豪雨を降らし、彩太の行く道をあっという間に黒く染めていく。
雨の弾丸の中に、躊躇なく顔を突っ込んで走る彩太。
食いしばった彼の口にダアダアとなだれ込む雨の筋。
腕を大きく振るたび、太ももを前に突き出すたび、火の粉を払うように雨粒を飛ばして走る彩太。
艶やかな黒髪から水しぶきが飛んで、私の心にビシャリとかかった。
桜のピンク、青葉の緑、プールの水色、紅葉の赤、雪の白。
今まで見てきたどんな綺麗な景色をもしのぐ鮮やかさが、私の目の奥まで染み渡った。
あの光景を思い出すたび、喉の奥が甘くて苦くて、キュッとなる。
* * *
彩太と二人で歩く、雨の帰り道。
正確に言おう、天気は晴れ、私はしっとり小雨モード、彼は練習の延長でやや強い雨モード。
こんなちぐはぐな組み合わせだけど、私たちにはすっかり見慣れた「日常」風景だ。
「今日の昼も、彩太は絶好調だったね」
頭上のレニーの角度を調整しながら、私は彩太を見上げた。走り方だけでなく、その面長の顔も馬を彷彿とさせる。
まだ身長差がなかった頃は、彼のつぶらな瞳をのぞき込むのが好きだった。
「……」
返事の代わりに首をポキッと鳴らすと、彩太は頭の後ろを右手で掻いた。
私より頭二つ分ぐらい高い位置で、彼のレニーが雨を降らす。
「っちいな」
腕まくりしたシャツの袖で火照った顔を拭いて、彩太が呟いた。
「風モードにしてもいいよ。私、多少濡れても平気だから」
暑がりなのに今まで遠慮してくれていたんだと、嬉しくなった。
彩太がスイッチに手を伸ばした途端、
「あ!」
「え!」
二人で同時に叫んだ。
彩太のレニーから出ていた雨が、突然、尻すぼみになって止んでしまったのだ。
「雨切れです。水を補給してください」
機械音声が繰り返し告げた後、輪の端からポトリと何かが落ちてきた。
彩太が素早く手を伸ばして受け取った。
その掌の中には、小さなあめ玉が一粒あった。
「雨切れになるとお詫びにアメが出るって噂、ホントだったんだね」
私が呟くと、彩太は小さくうなずいて掌を見つめた。やがて彼は私の方を向くと、長い腕を差し伸べた。
「やるよ」
「いいの?」
レニーの輪の影が彩太の顔に重なり、表情は見えない。でも、その声は私の好きな雨みたいに、穏やかで温かかった。
私はレニーのスイッチを切って、両手を差し出した。
このアメは絶対に濡らしたくないと思ったから。
「ありがとう」
丁寧に包装紙から出して口に含むと、素朴な甘い味が舌の上に広がった。
好きな人を想うときみたいに、私はしばらく目をつぶった。
「あのね」と言いながら、そっと目を開ける。
「……」
「私ね」
「……」
星の数ほど多い雨粒の一つ一つが、空気に潜んで私を応援している。
千差万別に輝く彼らの存在が、とても愛おしく思えた。
あめ色のエールを受けるべく、私は深く息を吸い込んだ。
包装紙を剥がしたときみたいにゆっくりと息を吐いて、彩太を真っ直ぐに見据えた。
彼の顔を正面から見たのが久しぶりすぎて、たぶん、私の顔は赤くなっていたと思う。
「こんなに美味しいアメもらったの、生まれて初めてだよ!」
ニッコリ笑って、私は言った。
「っ!?」
馬面の鼻が一瞬大きく膨らんで、私は笑った。
「変な顔しないでよ、バカ」
からかって彩太の肩を軽く叩いたら、木の芽みたいな良い匂いがした。
「光桃」
「なに?」
彩太がうつむいて、足を止めた。
「少しだけ、ここにいよう」
私も黙って、足を止めた。
彩太と私の足下には、二人の作った水たまりが広がっている。
数枚の枯葉が小舟のように揺れるそばで、紺色のズボンと、スカートから出た白い足が、水たまりを境に上下に伸びている。
五月の澄んだ風が二人の足元をくぐりぬけて、くすぐったい。
四つのスニーカーの周囲で、溶けたキャンディーのような水たまりに波紋が巻き起こった。
陽光を受けた水面が、虹色にさざめいている。
波紋を見つめ続ける私の喉が、甘やかに締め付けられた。あの光景を思い浮かべたときの苦味は、もうない。
「良かった、美味しくて」
ふわっと低い声が私の耳に降りかかる。
再び風の動く気配がしたと思ったら、自分の右手が何か温かいもので包まれていた。
(了)
◎最後までお読みくださり、誠にありがとうございます。