すぐそこに奴がいる。
「……いたか?」
「すまん、完全に見失った」
「油断するなよ。奴らは足周りを特に好むらしい。いつの間にかシンゴの足に止まっている、なんてこともあり得るからな」
カズヤがそう言った途端、またしても俺の右足の脛にムズムズが走った。
まるで新品の筆先で撫でられているような、あるいは削りたての鉛筆で軽く突かれているような。
痒みというより、くすぐったさに近い感覚だ。
……奴がいるのか?
不安に駆られながら恐る恐る脛を確認する。
だが、そこに奴の姿はない。
特に腫れているわけでも出血しているわけでもなく、爪で少し掻くとムズムズ感はすぐに消えた。
さっきからずっとこの調子だ。
奴と同じ空間にいるというだけで、俺とカズヤの精神力は少しずつ、しかし確実に擦り減っていた。
この部屋で奴を視認したのはつい数分前。
白紙のノートに降り立った小さな黒い体は驚くほどよく目立っていた。
だが、俺はこの時点で奴を仕留めることができなかった。
私物が汚れることに躊躇して判断が遅れ、みすみす取り逃がしてしまった自分の心の弱さに激しい後悔を覚える。
「シンゴ……」
「ああ……」
一刻も早く奴を排除する。
俺たちの心は通じ合っていた。
何の躊躇いもなくペンを置いて人類の敵と対峙するために素早く立ち上がる。
誰かに教えられたわけでもないのに、俺たちは自然と同じような構えを取っていた。
開いた両手を体の前で構え、膝を曲げて腰も少し落とし、ゆっくりとした足取りで部屋の徘徊を始める。
奴の姿を見逃さないように両目を見開いて首を小刻みに動かしながら、不快な羽音を聞き逃さないように耳を研ぎ澄ませるのは基本中の基本だ。
奴は部屋の中を自由自在に飛び回ることができるうえに、体の小ささを生かした隠密行動も会得している強敵。
さらにカズヤの部屋には目がチカチカするような派手な色をした物が多いせいで、奴にとって有利な環境ができあがっていた。
やはり人類と奴らは永遠の宿敵なのだと思い知らされる。
カーテンの裏、家具の隙間、フィギュアの陰、パソコンの裏、机の下、タペストリーの裏、エトセトラエトセトラ。
思い当たる場所を手当たり次第に探索するも、奴の姿を見つけることはできなかった。
「なあシンゴ。そろそろテス勉再開しないか?」
声をかけられてふと時計に目を向けると、テスト勉強を中断してから既に十分以上が経過していた。
期末テストの日はすぐそこに迫っている。
これ以上奴のために貴重な時間を割くのは無駄なのかもしれない。
だが、カズヤの提案に対して俺は首を横に振った。
「油断した隙を狙うのが奴らの常套手段だ。今ここで仕留めないとお前だって集中できないだろ?特に英語ノー勉はマジでやばい」
「……ああ、そうだな。俺は社会がやばい」
「社会か、確かにやばいな」
「英語も少しやばい」
「少し?」
「英語は中間が終わってからコツコツやってきたんだ。単語をめくるやつも自作した。和訳はたぶん大丈夫だけど英訳は運ゲー」
「それなら一刻も早く奴を見つけないとな」
「ああ!いくぞ、全集中……っ!」
カズヤの目つきが鋭くなり「コォォォォォ」と口で言いながら息を吸い込み始める。
特殊な呼吸方法で身体能力が強化される、という設定、要するに自己暗示だ。
そういえば、二期の放送がもうすぐだったか。
劇場版も面白かったし期待で胸が高鳴るが、放送局に若干不安が……いや、この話はやめておこう。
原作改悪&ダイジェスト最終回で大炎上なんて二度と起こるわけがない。
なお、この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・漫画・放送局とは関係ありません。
こんなことをしている暇があるなら英単語や年号を一つでも多く覚えるべきではないか、という思考が頭をよぎる。
実際、奴の姿を目撃したのは一度きりだ。
二人がかりでこれだけ探しても見つからないということは、目が届かないほどの狭い隙間に隠れてしまったのか、それとも既にこの部屋にはいないのか。
仮に後者の場合、カズヤの言う通りテスト勉強を再開するべきだが、俺たちに真実を知る手段はない。
奴が同じ空間にいる可能性を認知しながら何かに集中できる人間は果たしてこの世に何人存在するのだろうか。
だからこそ、奴を仕留めることが最善の選択であると俺たちは信じていた。
決して勉強に飽きたからそれっぽい理由をつけて遊んでいるわけではない。
「いたいたいたいたいた!!!!!!」
突然、興奮したカズヤが大声を出す。
「どこどこどこどこどこ!?!?!?」
「そこそこそこそこそこ!!!!!!」
お互いに語彙力を著しく低下させながら、カズヤが指差す方向を素早く探る。
だが、奴の姿はどこにも……あっ。
「いたいたいたいたいた!!!!!!」
ついに見つけたぞこのやろてめえ!
お前なんか怖かねえぶっ●してやぁぁる!
ーーいや、落ち着け。
こういう時こそ冷静になるんだ、カトウシンゴ。
奴を確実に始末するためには、攻撃を仕掛けるタイミングと高さの見極めが必要不可欠。
その場のノリと勢いに任せた単純な攻撃が奴に通用しないことは、これまでの人生で何度も経験済みだ。
焦ってはいけない。
焦りはミスを生む。
現に奴は天井や物陰に逃げるわけでもなく、かといって攻撃を仕掛けてくる様子もなく、絶妙な高さを維持しながら不規則に飛び回っていた。
それはまるで「どうした小僧、早くワシを捕まえてみろ」と俺たちをおちょくっているようにも見えた。
早く捕まえてみろだと?
違う、これは忍耐力の戦いだ。
俺たちが諦めたら奴の勝ち、奴がこちらの間合いに入れば俺たちの勝ち。
いいだろう、勉強時間はくれてやる。
どうせ高校一年生の一学期期末テストだ。
赤点さえ取らなければいくらでも挽回できる。
……その代わり、お前の"命"を狩らせてもらう。
現実では絶対に言えないし言ったら恥死するランキング上位のセリフを心の中で呟きながら、奴の動きを目で追う。
気分はさながらラスボスに挑むRPG主人公だった。
だとすれば奴は、HPと防御力こそ限りなくゼロに近いが、当たり判定が極小のうえに回避率がぶっ飛んでいる害悪タイプと言えるだろう。
それはすなわち、こちらの攻撃が命中さえすれば確実に決着がつくことを意味していた。
そして、その時は唐突に訪れた。
ラスボス戦が開始してから僅か数秒後、フラフラと空中を彷徨っていた奴が飛行をやめた。
早々に勝負を捨てたかに思えた奇行。
だが、その行動の真の意味を理解した俺たちに戦慄が走った。
「こ、こいつ、俺のマナミちゃんにっ……!」
カズヤが怒りと悲しみの声をあげる。
知ってか知らでか、奴が降り立ったのは、カズヤの嫁の一人、桜木マナミのイラストが描かれたプラスチックの板……ではなくアクリルスタンドだった。
デフォルメされたかわいらしい黒髪のアホ毛が飛び出たプラス……ではなくアクリルスタンドの頂点に、奴は我が物顔で鎮座していた。
この期に及んで精神攻撃とはなんと卑劣な!
「しっ!しっ!」
カズヤが手を払うと奴は再び空中へ飛び立った。
今のカズヤの行動はせっかくのチャンスを不意にしたようにも見える。
だが一概にそうも言い切れない。
不安定で倒れやすいプ……アクリルスタンドに止まっている奴を仕留めるのは不可能に近いだろう。
最悪の場合、攻撃した際の衝撃でプラスチックの板が破損する危険性も秘めている。
それにノートが汚れることを気にして奴を逃した俺にカズヤの行動を責める資格はない。
「この野郎……マナミちゃんを汚しやがって……っ!」
メンタルをズタボロにされたカズヤが最後の力を振り絞って両手を繰り出す。
だが奴はその攻撃すらも寸前のところで見事に掻い潜り、まるで何事もなかったかのように平然と飛行していた。
「シ、シンゴ……っ!」
「任せろ!」
奴の現在地はちょうど俺の胸の高さほど。
最も狙いやすい位置に自ら飛び込んでくるとは、まさに飛んで火に入るなんとやらだ。
さあ、いい加減終わらせようじゃないか。
高さは完璧。
あとはタイミングを合わせるだけ。
もう二度と失敗は許されない。
慎重に、だが大胆に両手を前に突き出す。
狙いを定め。
逃さないように。
確実に。
一撃で。
「……っ!」
パン。
乾いた音が部屋に響いた。
取った。
これまでとは違う、はっきりとした手応えを両手に感じる。
「やったか!?」
「おいやめろ」
どうして余計なフラグを立てるのか。
しかし、ゆっくりと手を開くと、左手の隅に黒いものが張り付いていた。
それは紛れもなく無惨に潰された奴の死骸だった。
「捕まえた」
「うっしゃおらあああああああ!!!!人間様に逆らうからじゃあああああああああああ!!!!!」
カズヤが勝ち鬨をあげる。
一応近所迷惑を考慮しているのか、声を抑えて代わりに腕を激しく上下に動かしている。
大袈裟だなあと思いつつ、俺も心の底から湧き上がる喜びで拳を握りしめる。
頭の中ではED曲と共にスタッフロールが下から上へ向かってゆっくりと流れていた。
「よし、じゃあラスト一時間、気合入れてやるか!」
「ああ!ちょっと手ぇ洗ってくるわ」
ティッシュで奴の残骸を拭き取り、流水と石鹸で目に見えない細菌を洗い流す。
部屋に戻るとカズヤが勝利の美ラムネを用意して待っていた
俺たちはしばらくの間、激戦の傷と疲れを癒すために休んでいた。
「そろそろ再開したほうがいい頃だぞ」
「まあ待てよ。こりゃあうまいラムネだぜぇ!!」
「でももう勉強に戻らなくちゃ」
「はぁ、やれやれ」
カズヤが名残惜しそうに瓶を置く。
先ほどのやる気はどこへやら。
このまま駄弁っていたいという気持ちは痛いほどわかるが、この機会を逃すわけにはいかなかった。
長い戦いの末に勝利したという達成感と高揚感、そして高いモチベーションを維持した状態でテスト勉強を行えば、学習効率が何倍にも跳ね上がるに違いない。
プ〜〜〜〜〜ン。
突然、俺の耳元で不快な音が鳴る。
悪寒が背筋を駆け抜けると同時に、反射的に自分の耳の穴に人差し指をねじ込んでいた。
「どした?」
「別になんでも……」
今の気持ち悪い音はいったい……いや、俺はこの音の正体を知っている。
一度聞けば二度と忘れることはないだろう。
耳にするだけで怒りをかき立てられ、決して生理的に受けつけない忌まわしい音だ。
そして、まるで答え合わせでもするかのように、目の前を黒い影が横切った。
俺たちは思わず顔を見合わせた。
つい数秒前まで口元に上機嫌なシワを作っていたカズヤの表情筋が一瞬にして虚無と化していた。
「今の見たか?」
「ああ……」
カズヤが死んだ魚のような目をしながら頷く。
幻覚などではない。
すぐそこに奴がいる。
さっき仕留めたはずなのにどうして?
頭が混乱しそうになるが、冷静に考えてみれば何もおかしいことなどなかった。
ラスボス戦のあとに裏ボス戦が控えているのは至極当然の流れだ。
さあ、俺たちの戦いはこれからだ。