潜入と強敵と
陰鬱な夜だと思った。
重苦しい雨の音。
不意に館を軋ませる風。
震える窓硝子。
貴族クランマーの館の執事であり警備役でもあるナビアンは、胸騒ぎを覚えて館を巡回していた。何も異常はない。落ち着かない天候と、主人が新たに連れてきた女が鳴いたり叫んだりする以外は。
だが警戒を怠ってはいけない気がする。こういった勘をナビアンも大事にしていた。だからこそ執事という重要な役割を与えられているのだ。今もこうして真面目に働いていれば、主人が使い終わった後の女の肉を楽しめる。そう思ってナビアンは自分を鼓舞した。
そのとき、一つの部屋のドアが閉まりきっていないことに気付いた。咄嗟に侵入者を疑ったが、誰もいない。それにドアは少し空いている程度だ。誰かが適当に閉めたのだろう。そう思いつつ、一応警戒しながらドアに近づいた。
足で小突いて開ける。部屋の中には誰もいない。窓も――カーテンが閉まっている。揺れてはいない。一応ガラスも確認するかと歩き始め。
ナビアンの時間はそこで終わった。
男の身体が倒れて大きな音を立てないようにそっと横たえる。首はごとんと落ちたがまあ仕方あるまい。
周囲を確認し、部屋を後にする。夜ということもあり人の気配はほとんどない。ほとんど暗闇の屋内に、遠く、獣のような人間の声が聴こえるだけだ。
広い館だと思った。紗月としては自分の道場とか学校とか大きな建物をいくつも知っているが、レインとしては初めての経験だ。
この館にはクランマーという貴族が住んでいるらしい。正確には別宅なので本当の家は別らしいが。ニムの情報を求めていた紗月に、いつも闇試合の斡旋をしてくるディーが訪れそう教えた。
クランマーは定期的に娼婦を身請けしている。ただしそれは強制であり、身請けされた娼婦の生きた姿を二度と見る者はいない、つまりは虐められ殺される。極度のサディスト。唯一の救いは、身請けの金以外にも、長く生きた分の金が女の指定した先に送られるということだった。そして昨夜クランマーはニムを買ったという。
その情報の対価は、クランマーの命だった。彼の趣味とは別に彼は敵が多いらしい。紗月はクランマーの暗殺を引き受け、彼が女を弄ぶために使う別宅の窓から侵入した。そして早速誰かを殺した。身なりは良さそうだったがあれがクランマーということはないだろう。紗月は声のする方向へ歩いていった。
「ぐふふ……活きが良いのう。お前のような娘は嫌いじゃない。虐められるのが好きか?」
紗月がその扉を開くとガウンを羽織った小太りの男が、顔を前にする奇妙な体勢で吊られた女の前に立っていた。どうやら楽しみに夢中でドアが開いたことにも気付いていないようだ。紗月は気配を殺したまま男の側面に回ると、刀を抜いて男の気管だけを切断した。
「……!?!?」
気管を切られ、声にならない声で叫び尻餅をつく男。股間のものが跳ねる。どうやらそれを女に、ニムに咥えさせていたらしい。
「ごめん、遅くなった」
「サツキ、ちゃん?」
信じられないものを見るかのように紗月を見上げるニム。その身体は元は白いドレスだったと思われる、彼女の身体と共に引き裂かれ赤く染め上げられた布をまとっていた。紗月の名を呼んだ口も赤く染まっている。前歯を一本、折られ抜かれているようだった。足も見ると指が一本潰されちぎれたようになっていた。その痛ましい姿に心を締め付けられながらも、紗月は冷静な手付きで彼女の脚の鎖から順に外して、彼女を地面に降ろしてやった。
「どうしてここ、ごほっごほっ」
ニムは自分の血に噎せた。
「しゃべらなくていい。辛いかもしれないけど、少し待ってて。先に仕事をしないといけないから」
そう言って紗月はニムを弄んでいた男の方を見た。喉を押さえ、窒息しそうになりながらも部屋の外を目指しているようだった。
「言っておくけど、おまえの死に場所はここだよ」
「……!」
酸欠に濁った眼が紗月をとらえる。紗月は相手に良く見えるように、刀の切っ先を眼前に突き出してやった。
「おまえがクランマーか?」
男は、クランマーは頷いた。「わかった」。まあそうだろうと思っていた紗月は、一太刀の下にクランマーの首を切り落とした。
「終わったよ。……って言いたいけど、まだいるみたいだね」
首を部屋の隅に蹴り飛ばして、ドアの方を振り返る。そこには新たな男が部屋に入り口に立っていた。やや上背のある若い男。抜き身の片手剣を手にしている。
「素晴らしい殺しだ。素晴らしい殺気。水のように透明で、俺ほどの実力者でなければ気付かないだろう最高の剣気だ。おまえほどの剣士は未だ見たことがない」
「……」
紗月は何も言わない。誰かと問うこともない。黙ったまま、相手との距離を詰め、一息に切りかかった。
「おおっと!」
「……! イアー!」
一撃を止められた紗月は、そこで引かず攻撃を続けた。疾風、いや閃光のような連擊。相手の顔から笑みが消える。しかし彼は部屋の入り口から廊下に出て逃げただけで、斬られることはなかった。
これまでの敵とは違う。紗月は刀を構え直しながらそう悟った。




