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08 アルノー伯爵邸

 フェリクスに促されアルノー伯爵家の別邸に通された美鈴は屋敷の中を見て思わず息をのんだ。


 玄関ホールの床材は白大理石のような模様が入った石が敷き詰められ、二階へ続く階段が奥に見える。


 階段には深海を思わせる青色のカーペットが敷かれており、踊り場の天井には金色の波を模したデザインのシャンデリアが、窓からの微光を受けて鈍く光っている。


 邸宅の外観から受ける印象を裏切らない、上流貴族の品格を保ちながらも落ち着きのある、洗練された内装だった。


 フェリクスは白い窓枠の大きな窓のあるサロンルームへ美鈴を通すと、彼女をそっと柔らかい布張りの椅子に座らせた。


「こちらでお待ちを。すぐに手当の用意をします」


 そう言って優雅な動作で軽く一礼すると、美鈴をサロンに残してフェリクスは一旦(いったん)その場を離れた。


 美鈴がそっと周囲を見渡すと薄青の石で造られたマントルピースの上には、肖像画ではなく、花飾りのような縁取りを施した丸型の鏡がかかっている。


 足元のカーペットも、厚みがあるしっかりとしたもので、エジプシャンブルーにミモザの花のような薄黄色の花の文様が散らされていた。


 家の顔であるサロンの調度品や玄関部分、ひいては屋敷全体を「青」を基調として統一しているのであろう、この屋敷の意匠(いしょう)は、フェリクスの少し(かげ)のある雰囲気と見事に調和しているように美鈴には感じられた。


 しばらくすると、コートを脱いだフェリクスが、濃紺の唐草のような(つた)模様が描かれた白地の湯桶(ゆおけ)を持ち、布を腕にかけて戸口に現れた。


「まず、足を洗いましょう……」


 そう言ってフェリクスは椅子に座った美鈴の前に(ひざまず)き、片手を美鈴の足元に差し出した。


 ……まさか、伯爵は……本当に自分で、わたしの足の手当てをする気でいるの……?


 この世界の貴族階級の身分制度や、女性の、普段は長いスカートで隠されている足を男性に(さら)すことにどんな意味があるのか、美鈴がこの2か月の間必死で覚えた知識が頭をぐるぐる回る。


 貴族の場合、こういった軽い怪我の手当ては召使いが行うのが普通だ。しかも、女性の身体に触れるとなれば、当然女性の召使いが世話をすることになる。


 しかし、「なぜか」人払いをしている彼の家では、手当をできる人間は彼しかいない……のだが。


 一体この場合、どう振舞うのが「正解」なのだろう……。相手はルクリュ子爵家よりも身分が上の伯爵家……。

 自分の中に答えを見いだせず、途方に暮れた美鈴は思わずフェリクスの瞳を(じか)に見つめてしまった。


 先ほど森で「神に誓って」と宣誓(せんせい)した時と同じ、真剣なフェリクスの眼差しが美鈴に向けられていた。


「……すみません……アルノー伯爵……いえ、フェリクス様にこんな……」


 顔を赤らめて(うつむ)いた美鈴に、フェリクスは柔らかい紳士的な微笑みで応じた。


「……大丈夫です。私に、お任せを。ただ、痛みを感じたらすぐに教えてください」


 ためらいながらもそっと差し出された美鈴の脚を片手で支え、慎重に靴を脱がすと、幸いみずぶくれはできていないものの、つま先と(かかと)部分が赤くなった美鈴の足を、フェリクスは慎重に湯桶(ゆおけ)の水に浸した。


「……」

 足を水で清めてから、腕にかけた柔らかい布で美鈴の足を丁寧に拭く、俯いたフェリクスの表情は、椅子に座った美鈴からはうかがい知ることができない。


 しかし、亜麻色の髪に遮られ、隠された彼の白皙(はくせき)の頬は、女性に対する緊張と羞恥心から鮮やかな紅色に染まっていた。


 お互いに無言のまま、シンと静まり返った部屋の中、フェリクスによる美鈴の足の手当ては滞りなく進んでいったが、ふいに窓の外から弱雨の降リ出す音が聞こえて来た。


「……やはり、雨が」


 美鈴の足に包帯を当てがったまま、顔を上げ、窓辺を見ながらフェリクスが呟いた。


「ええ……まだ、弱い雨のようですが……」


 美鈴も、雨音が聞こえるとほぼ同時に窓を見やると、フェリクスに答えた。


 ……今頃、リオネルはどうしているだろうか。


 降りしきる雨の中、自分を探してくれているのだとしたら……。


 往きの馬車の上で交わした彼との会話や、裏表のない明るいリオネルの笑顔が思い出されて美鈴の心はきゅっと痛んだ。


 ……わたしが、変に気を回さなければ、こんなことにはならなかったのに……。

 苦い後悔が美鈴の胸にこみあげてくる。


 患部に薬を塗り、包帯で足先と(かかと)を保護してから、フェリクスは再び美鈴の脚を支え、痛みを与えないよう細心の注意を払いながら靴を履かせた。


「……さあ、これでもう大丈夫」


 美鈴の片手を取り、椅子から立ち上がるのを助けながら、フェリクスは美鈴にそう言った。


「……ありがとうございます。フェリクス様。窮状を救っていただいた御恩は、わたくし……」


 貴族令嬢の作法に従い、跪礼カーテシーをしようとした美鈴を慌ててフェリクスが止めた。


「駄目ですよ、足に負担をかけては。……堅苦しい礼儀作法など、ここでは無用です」


「……?」


 どのような家柄なのかまだよく知れないにしても、伯爵家のフェリクスがあまりにも自身の身分や、目下(めした)である美鈴の自分に対する振る舞いに無頓着なことに美鈴は内心疑問を抱いていた。


 何か、特殊な事情があるのかもしれないが、相手の家格が分からない今、美鈴にはフェリクスの態度の裏にある事情を想像することはできない。


「では、参りましょうか。お連れの方がびしょ濡れになっては気の毒だ。足元に気をつけて」


 再び美鈴の手を取り、屋敷の外に出ると、通り雨だったのか、雨は既にあがりかけており、お天気雨に変わっていた。


 ところどころ雲間から光が差す中、美鈴を玄関先に待たせて、自ら馬車の準備を終えたフェリクスが車寄せに向かって優雅に馬を御して近づいてくる様は、亜麻色の髪が天からの光に輝いて何とも言えない美しい情景だった。


 美鈴を二人乗りの一頭立て四輪馬車の席に乗せ、フェリクスは自ら馬の手綱を取ってはじめはゆっくりと、徐々にスピードを上げながら馬を走らせる。


 雨よけのため広げた折り畳み式の幌から空模様をうかがうと、雲間からちらちらと光と小粒の雨が降り注いでいるのが見える。


 雲間から差す幾筋もの天から降り注ぐ光の柱は、いくら見続けても見飽きないほど、美しいと美鈴は思った。


「……美しいですね」


 自然の生み出した美しい光景に瞳を輝かせて見入っている様を横目で見て、フェリクスが美鈴に声をかけた。


「ええ……こんな景色を見るのは……わたし、初めてじゃないかと思います」


 空に視線を向けながら、半分うわの空で答えたその言葉は、高層ビルに阻まれて空の見えない東京の都心で育ち、自然の美しさを実感するような心の余裕もなく、がむしゃらに働いていた美鈴の心の声そのものだった。


 森の外周を少し迂回して、美鈴がリオネルと別れた森の入り口付近に向かい、馬車を走らせながらフェリクスは美鈴に尋ねた。


「……ミレイ嬢、貴女の名前を聞いた時、珍しい、美しい響きの名前だと思いました。何か、特別な由来があるのですか? ……もし、失礼でなければ、教えていただけたら……と」


 フェリクスの意外な問いを受け、美鈴は我に返ってフェリクスの横顔を見つめた。


「あの、遠い、異国の名前です。亡くなった父が、よく仕事で旅行をしていたものですから……」

 美鈴の答えは半分は嘘で半分は本当だった。


 ルクリュ子爵と夫人の計らいで、世間的には美鈴の出自は「父母が既に亡いため、ルクリュ家の世話になっている遠縁の娘」ということにしてある。


 しかし、「元の世界」で美鈴の父が、海外出張などで常に家を空けている商社マンであることは事実だった。


「そうですか……異国の……」


 そう呟いたきり、フェリクスは少し考え込む風を見せたものの、それ以上の詮索は失礼に当たると考えたのか何も聞いてはこなかった。


 内心胸を撫でおろしながら、美鈴が前方に顔を向けると、すでに馬車は見覚えのある、ブールルージュの森の入り口付近に到着しようとしていた。


 リオネルとバイエ家の馬車の姿は……入り口付近には見当たらなかった。


 ……森の中でわたしをずっと探してくれているのだとしたら……


 自分勝手な行動で、彼に大変な迷惑をかけてしまった……。


 リオネルに対して申し訳ない気持ちでいっぱいの美鈴は、どこかに彼の姿が見えないものかと必死の思いで周囲を見回した。


 雨で人が散ってしまった公園の並木道の手前に、一台だけ、白馬二頭立ての華麗な馬車が停まっていた。


 馬車の上には、スカイブルーの日傘を差し、つば広の白い帽子に濃紺のストライプのリボンの凝ったデザインの帽子をかぶり、裾と肩に豪華なレースを幾重(いくえ)にも重ねた白いドレスに身を包んだ令嬢の姿が見える。


 近づいてくるフェリクスの馬車の音に気づいて、傘の影からその令嬢がチラと顔をのぞかせた。


「……フェリクス! お久しぶりね。……随分と長い間、貴方の顔を見なかった気がするわ」


「随分と」という部分をいくらか強調しながら、令嬢はフェリクスに声をかけると、優美可憐としか言いようのない動作で傘をたたんで、フェリクスに微笑みかけた。


 緩いウェーブのかかったストロベリーブロンド長い髪、ミルク色の肌に、少し目尻が上がった気の強そうな鮮やかな青色の瞳……女性の美鈴も見惚れるほど、美しい女性がそこにいた。

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