07 森の中の出会い 2
森の奥へ続く細い小路から、不意に美鈴の前に現れたその男
……ただの「男」と形容するのがはばかられるような貴公子然とした青年の、陶器のごとく滑らかな頬で絹糸のような亜麻色のおくれ毛が微風と戯れている。
上質な濃紺のコートに白いシャツを合わせ、灰色に近いブルーのスカーフ状ネクタイは金色の細工の台座にマリンブルーの宝石がついたピンで留めてある。
まるで、いつか画集や美術館で見た西洋絵画から抜けてできたかのような美しい青年の姿に、美鈴はじっと彼の姿を見つめたまま、一言も発することができなかった。
犬を追って現れた青年もまた、平静を装いながらも驚きを秘めたような表情で美鈴を見つめ、茫然と立ち尽くしている。
美鈴を見つめる美しい切れ長の瞳は、北国の冬空のようなアイスブルーに近い薄い水色を湛え、髪よりもほんの少しだけ濃いうす茶色の長い睫毛に縁どられている。
出会った瞬間、まるで美鈴と青年のいる空間だけ時が止まったかのように二人はお互いを見つめ続けていた。
先に、我に返ったのはアイスブルーの瞳の青年の方だった。
右足を軽く引き、左手を身体の前に掲げて美鈴に対して優雅に会釈すると、少し緊張した面持ちで青年は口を開いた。
「……申し訳ありません、不躾に見つめてしまって……」
青のリボンでまとめられた真っすぐな長い髪が、日が陰った森の中、かすかな木漏れ日に淡く照り輝き、サラサラと彼の背で揺れている。
「私は、フェリクス・ド・アルノー……私の犬がご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか?」
フェリクスと名乗った青年は腰を落として彼の愛犬の背に手を添えると、美鈴に問いかけた。
よく躾けられた犬らしく、さきほどドルンと呼ばれていたその犬は、きちんと座った姿勢を保ちながらも、フェリクスに背を撫でられて満足そうに耳を寝かせ、目を細めている。
「いいえ!そんなことは、まったく……」
自分の方こそ、フェリクスを前にただ見つめるだけで挨拶すらしていなかったことに気づき、美鈴は慌てた。
「……わたくしは、ルクリュ子爵家のミレイと申します」
「この世界」での自分の名を名乗りながら、美鈴がドレスの端をつまんで右足を軽く後ろに引き、左足でバランスをとろうとしたその時、森をかけ通しだった足に痛みが走り、身体を支えきれず足元がふらついてしまった。
「……危ない!」
咄嗟に、フェリクスが倒れかけた美鈴の身体を支え、その胸に抱きとめた。
フェリクスの胸に顔をうずめ、身体がピタリと密着している状態に、美鈴の頬が真っ赤に染まる。
「……す、すみません。あ、足が……」
もつれて…と最後まで言い切ることができないほど、美鈴はフェリクスの腕の中で緊張していた。
一方、至近距離で美鈴の顔を見たフェリクスは、その頬にうっすらと涙の跡があることに気づいた。
「……もしかして、足に怪我を……?」
フェリクスは美鈴のただならぬ様子に気づき、そっと問いかけた。
「……いいえ……たいした、ことは……」
そう言って、足の痛みに耐えながら、なんとか体勢を立て直そうとした美鈴の肩をフェリクスは両手で優しく支えた。
「どうか、ご無理をなさらないでください」
青く澄んだ瞳と人形のように整った容姿のせいか、一見、冷徹そうな印象に見えたフェリクスだが、今の彼は温かい光を宿した真剣なまなざしで美鈴を見つめている。
「すぐ近くに私の別邸があります。ひとまずそこで、足の手当てを」
「あの、でも……わたし、実は、連れを探していて……彼もわたしを探していると思いますし、このまま失礼しようかと……」
ただでさえ男性慣れしていない美鈴としては、いくら貴公子然とした美青年であっても、よく知らない男性の家に招かれるという事態は避けたかった。
それに、先ほどの強引な黒髪の男から受けた恐怖が、まだ生々しく思い出される。
「このまま森に居ても、じきに、雨が降り出すことでしょう」
空を見上げたフェリクスにつられて、美鈴が顔を上げると、木々の隙間から見える空が先ほどよりも暗くなっているのがわかる。
「何の気兼ねも要りません。私の家で手当が終わり次第、馬車を出してお連れの方の元へお送りします。」
フェリクスの背後から吹く風によって、彼のつけている香水だろうか、さきほどは緊張のあまり気づかなかったアイリスのような清廉な香りが香ってくる。
……確かに、痛む足を引きずってこのままこの広い森を迷い続けるのが賢明ではないことは、美鈴も百も承知している。
なおも逡巡する美鈴を安心させようと思っての所作だろうか、青年は美鈴の前で膝を折って彼女を見上げた。
「……私はアルノー伯爵家の者です。神に誓って、貴女に無礼な真似はいたしません」
……伯爵家の御曹司!!
美鈴は自分も慌てて腰を落とし、青年と目線を合わせた。
まだ公式な社交界デビューをしていない美鈴にとって、相手がどれほどの家柄なのか推しはかる術はない。
……もし、この申し出を断ることで、ルクリュ家に何か迷惑をかけるような事態になったら……そこに思い至ったとき美鈴は青ざめた。
「……ご厚情、ありがたくお受けします。伯爵様」
美鈴の返答に、フェリクスはほんの少し顔を顰めた。
「……伯爵、などと呼ばなくても結構です。フェリクス、と呼んで頂きたい」
さきほどまでの優し気な態度と打って変わり、キッパリとそう言い放ったフェリクスに、美鈴は驚いて彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
美鈴の戸惑いに気づいたのか、フェリクスは美鈴に向かって軽く微笑んでみせると、そっと美鈴の手を取った。
「さあ、急ぎましょう。……雨が降り出さないうちに」
フェリクスは美鈴を気遣いながら立ち上がらせると、軽く肩支えるようにして、美鈴の歩幅に合わせて少しずつ小路の奥へと導いた。
犬のドルンは、フェリクスが手で軽く合図しただけで大人しく二人の後に付き従ってくる。
美鈴が最初に見た時には永遠に奥に続くのではないかと思った細い道は、意外にも森の外周の一部を囲む富裕層の住む住宅街への抜け道となっていた。
ほんの10分ほど小路を歩き、住宅街へたどり着いた時、やっとのことで迷路から抜け出せた心境の美鈴は、つい立ち止まって安堵の吐息を漏らした。
それを疲労によるため息と考えたのか、フェリクスは帽子の影の美鈴の顔を覗き込みながら、優しい声音で話しかけた。
「お疲れでしょう、私の家はもうすぐそこです。ご安心を」
フェリクスが片手で示したその建物は、周辺の正面部分を豪奢に飾り立てた邸宅と較べると一見簡素な外観をしているが、体面を重んじる階級の人間が陥りがちな成金趣味の装飾とは一線を画していた。
住居部分はやや小さめに造られているものの、前庭が広く、白で統一された外壁と正面玄関上の小造りなバルコニーに対して青緑の銅版葺きのような屋根のコントラスが爽やかな印象の住宅だった。
「……ちょうど先ほどまで友人が来ていたのですが、今は私一人だけです。……どうぞ気兼ねなく」
……ということは、この館には召使いもいない、彼一人きり……ということ?
伯爵家の息子が、召使いの一人も置かずに別邸にいるなんて……。
あくまで紳士的な物腰で正面玄関のドアを開き、美鈴に中に入るよう促すフェリクスに、美鈴は一抹の不安を感じずにいられなかった。