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34-6 悪魔の手招き

 コンコンコン……


 男が唇を重ねようとしたその時、開け放したドアの向こう側――このアパルトマンの玄関扉を叩く音が聞こえてきた。


「ダミアン! 俺だ……開けてくれ!」


 聞き覚えのあるその声は、先ほど黒髪の男――ダミアンと共に劇場にいた青年のものだった。


「……フン、ようやくやって来たか」


 愉しみを中断されたことによる不満げな表情を浮かべながらダミアンは美鈴から身体を離すとベッドから降りてドアへ向かった。


 ガチャリ、とドアの鍵を開ける音が美鈴のところまで聞こえてくる。


 ……何とかして、逃げなければ!


 この部屋の出口はひとつ。それも今しがたダミアンが出ていったドアのみだ。


 ベッドを飛び降り、逃げ場を求めて美鈴が一直線に向かったのは恐らく通りに面しているであろう縦長の窓だった。


 あの男に無理やり手籠めにされるくらいなら、危険を冒してでもこの部屋から脱走しようとする方がマシだ――。


 窓から脱出するのが無理だったとしても、偶然通りかかった通行人に助けを求められるかもしれない。


 鎧戸を開け、窓のカギを一心不乱に開けようとしている美鈴の耳に飛び込んできたのは――ダミアンの鋭い一声だった。


「……お前っ! 裏切ったのか!?」


 続いて、激しく争っているような荒々しい物音が廊下から聞こえてきたと同時にダミアンが部屋の中に駆けこんできた。


 頬に傷を負い、唇から血を流したダミアンが片手に持った銃を美鈴に向けた。


「動くな! ……令嬢を無事に返したいと思うなら全員、この部屋に入って壁際に並べ」


 驚いて扉の方を見たその時――ここにいるはずのない人物の姿を目撃して美鈴は思わず声を上げた。


「フェリクス様……!?」


 憮然とした顔でダミアンを睨みつけていた顔が、美鈴を見た瞬間にふんわりと和らいだ。


 白い手の甲には男と争ったためだろうか、赤い血がにじんでいるようだった。


「ミレイ殿……!」


 フェリクスに続いて部屋に入ってきた背の高い男――その顔を見て美鈴はさらに驚いた。


「リオネル……っ!」


「何とか無事なようだな。……安心した」


 リオネルに続いて召使いのお仕着せを着た青年が憔悴した顔で部屋の中に入ってくるなり、ダミアンに呼びかけた。


「ダミアン……もう、こんなことはやめよう。……じきに警察がここに来る。逃げられっこない」


 三人が部屋の中に入って壁際に並んだのを見届けると、ダミアンは美鈴に近づきその手をグイと引っ張った。


「なら、お前ひとりが捕まればいい。俺は逃げる。……この女を人質にして逃げきってやる」


 引きつった笑いを浮かべるダミアンを挑発するようにリオネルが呆れたような声を上げた。


「女連れで逃げられるわけがないだろう。その令嬢はお前が考えているより遥かに手ごわいぞ?」


「これ以上、罪を重ねるよりは……大人しく彼女を渡せ。それが身のためだ」


 フェリクスの言葉に、男は激しく頭を振った。


「うるさいッ! お前たちの言いなりになってたまるか……!」


 片手で美鈴を腕の中に引き寄せ、こめかみに銃口を押し付けると男は部屋の出口までゆっくりと後退を始めた。


 扉まで辿り着いたダミアンは出口にちらと視線を走らせると、抱き寄せていた美鈴の身体を不意に離し、部屋の中に向かって思い切り突き飛ばした。


「あっ……!」


 バランスを失って床に崩れ落ちた美鈴に向かってダミアンが銃口を向けた。


 ――駄目、身体が……動かない!!!


 ダミアンの狂気に宿した瞳が、彼が本気であることを告げていた。


 逃げる時間などない。美鈴にできることは自分に向けられた銃口から目を逸らすことだけだった。


「――やめろッ!!!」


 リオネルの叫びとほぼ同時に、静かな夜を切り裂くような銃声が聞こえてきた。


「……?」


 確かに銃声がしたのに、身体に全く衝撃がない――?


 俯いていた顔を上げると目の前には美鈴を護るように覆いかぶさっている人物――。


「えっ……?」


 亜麻色の髪が、はらりと頬にかかっている。


「……怪我は……?」


 フェリクスの声はどこかかすれていた。アイスブルーの瞳が心配そうに美鈴を覗き込んでいる。


「フェリクス様……まさか……!」


 美鈴の問いかけに答える代わりにフェリクスは微かに笑って見せると、そのまま床に崩れ落ちた。


 フェリクスの身体を支えようと美鈴が背中に回した手が、あふれる生温かい血で深紅に染まった。


「銃声がしたぞっ! 大丈夫か!?」


 玄関口から警官と共に駆け込んでくるジュリアンの姿。


「フェリクス殿が撃たれた……! 直ぐに医者を呼ぶんだ」


 床にダミアンをねじ伏せ、まだ煙を吐いている銃を取り上げたリオネルが、ジュリアンと警官隊に向かって叫んでいる。


 そのただ中で、ジュリアンの声もリオネルの叫びも、あわただしい警官達の靴音もまったく美鈴の耳には届かなかった。


 震える手で握ったフェリクスの手が少しずつ力を失っていくのが分かる。


「フェリクス……さま!」


 熱いものが目頭にこみあげくるのを止められない。


 美鈴には目の前のフェリクスの顔さえ霞んでしまってもう見えなくなっていた。

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