03 一生を、仕事に捧げてはダメですか?
数か月前、まだ美鈴が東京の大手町にある外資系企業で働いていたときのことだ。
定時を過ぎて人もまばらになったオフィスに、張りのある男性の声が響き渡った。
「ほんっっっとーに、ごめんっ!有坂さん」
美鈴のデスクを囲むパーテーションに半ば頭をこすりつけるように、スーツ姿の同僚が深く頭を下げいる。
その男性 ―― 美鈴と同期入社の柴田幸太は、175cm以上はありそうな長身をキッチリと折り曲げて精一杯の謝罪の意を表そうとしているらしかった。
一方の美鈴 ―― 柴田から謝罪を受けている彼女は、チラリと柴田を一瞥しただけで、ひと言も発することなく視線をパソコンのモニターに戻した。
その間、彼女の白い指は一瞬も止まることなく、恐ろしいスピードでキーボードを叩き続けている。
ビジネス上必要最小限のメイク、ロングの黒髪をうなじの後ろでキッチリと一つに結んで、襟のピンと立った白いシャツ、濃いグレーのスーツに身を包んだ彼女は、まさに「絵にかいたようなキャリアウーマン」といういで立ちだった。
PCメガネ越しに見える彼女の瞳は冷ややかで、多分に芝居がかった柴田の大げさな謝罪に心を動かされた様子はみじんもないようだ。
柴田は柴田で、パーテーションに張り付いたまま動こうとしなかった。美鈴の、何らかのリアクションを待っているのは明らかだ。
その姿には、飼い主の命令を待ち続ける忠犬を思い起こさせるような必死さがあった。
カタカタカタカタ……
美鈴の立てるキーボードの音だけが、静かなオフィスに響いている。
きまずい空気が、時間にして5分ほど流れた後、軽くため息を吐いて、美鈴はキーボードの上の手を止めた。
「……レポートの期限やぶりは、これを最後にして頂きたいです。……後工程がつまっているので」
月次のセールスレポート提出期限破りの常習犯、柴田は恐る恐るパーテーションのへりに押さえつけていた頭を上げて美鈴の顔色をうかがった。
しかし、美鈴は柴田の顔を見るでもなく、さきほどからの無表情を崩すことなくパソコンのモニターをじっと見つめている。
毎月、3日は期限を遅れて提出される柴田のレポートは、全営業社員からレポートを受け取り、それを集計して本社へ報告する業務を担う美鈴にとって頭痛のタネだった。
レポートは英語で提出が義務付けられているのだが、柴田の報告には単純なスペルミスから文法の間違い、果ては100万単位の数字が間違っているということもザラではなかった。
毎月毎月柴田の提出してくるレポートの内容をチェックし、間違いを一つ一つ修正し、売上データベースと突き合わせ、本人に指摘して確認を取り、最終報告書をアップデートする作業に美鈴は心底うんざりしていた。
もちろん、他の営業担当だってミスをすることはある、でも、彼らはメールを打ちさえすれば遅くともその日のうちに訂正版を提出してくる。
営業部門で、毎回毎回、一度の例外もなく、提出期限を遅れてくるのは彼くらいなものだった。
それでいて、柴田の営業成績もレポートと同じく悲惨なものかというと、その逆なのだった。
レポートのクオリティは最低中の最低でも、その数字は目を瞠るものがあった。
新規契約の獲得数、売上総額をみれば、若手の中でも、柴田がとびぬけて優秀な営業マンであることは間違いなかった。
自分の方を見もしない、美鈴の冷ややかな対応に臆することなく、柴田は人好きのする笑顔でニコッと笑った。
営業マンらしく、きっちりと額を出してはいるが、もともと少しクセがあるのだろうか、軽くウェーブのかかった、柔らかそうな髪。
クリッとした目といつもやんわりと笑っているような口元の、いわゆる甘いマスクの彼は年齢問わず社内の女性陣に人気がある。
「いつも、有坂さんには助けてもらっちゃって……。ほんとに感謝してるんだよ」
美鈴にしてみれば、柴田を「助けている」意識は毛頭ない。むしろ「迷惑をかけられている」というほうがよほどしっくりくる。
「……仕事ですから」
仕方なく、あなたのしりぬぐいをしているんじゃないの、という嫌味をぐっと美鈴は飲み込んだ。
「それで、ほんのお礼にと思って……有坂さん、好きだといいんだけど」
パソコンのモニターと美鈴の顔の間に、柴田の長い腕がにゅっと差し出された。幾何学模様の美しい装飾が施された、いかにも高級そうな紙箱に入ったチョコレートが、美鈴のデスクにそっと置かれる。
「フランスの新進ショコラティエの新作、日本に進出したばかりで、今、すごい人気なんだよ」
新しい流行や話題のスイーツが、グラスに注いだばかりの炭酸水の泡のように無数に生まれては消える東京で、美鈴はそういったものに一切関心を持たずに生きている。
彼女の一番の関心事は、いかに速く正確に仕事を処理するか、そのために必要な能力は何なのか。
常にそんなことを考えていたし、彼女の休日はもっぱらスキルアップのための読書やセミナーに充てられていた。
実際、入社して6年経った今、美鈴の活躍は上司はもちろん日本支部を統括する責任者、本社の役員レベルにまで認知されるほどになっていた。
美鈴の望みは、周囲の期待に応え続けること、誰よりも自社に貢献できる存在でい続けることだった。
「あのさ、有坂さん」
目の前に置かれたチョコレートの小箱を無表情に眺めている美鈴に、しびれを切らしたように柴田が呼びかけた。
「……有坂さんって、今週の金曜、何か予定ある?」
特に親しくもない柴田がなぜ、そんなことを聞いてくるのか、理解できずに美鈴は困惑した視線を柴田に向けた。
「いや、イキナリで、ごめん……」
指の長い、大きな手でわしゃわしゃと柔らかな髪をかき混ぜながら、柴田は言った。
「いつも、オレ、有坂さんにはお世話になってるから…。お礼に食事でもどうかなぁって……」
仔犬が飼い主の反応をうかがっているようなあどけなく真剣な表情……濡れた仔犬の目を縁どる濃い睫毛を瞬かせて、柴田はじっと美鈴を見つめている。
しかし、柴田のそんな表情に美鈴が心を動かされた様子はみじんもなかった。
「すみませんが、金曜は社外講習会に参加する予定なので……」
さらりと事務的な調子でそう告げると、美鈴は再びパソコンのモニターに向き直ってキーボードを叩き始める。
しっぽを垂らしてかなしげに去っていく仔犬のような柴田の後姿は、哀愁に満ちていたが、美鈴はそんな彼を気にもとめていない。
自他共に認める仕事一筋のキャリアウーマン、彼女の辞書に「恋愛」という文字は、ない。
それが美鈴という女だった。