23-1 湖畔の再会
静まり返った森の中で自分の心臓が立てる音がやけに耳についた。
湖を取り囲むように湖畔を一周する小路――といっても、それは整備されたものではなく獣道に毛が生えたようなものだった。
その小路に沿ってそぞろ歩いていた美鈴の目に飛び込んできたもの……茂みの向こう、低木の枝が水辺に向かってしな垂れかかっているあたりにそれはあった。
よく観察すると乗馬ブーツは使い込まれてよく磨かれ、上質の品であるように見受けられる。
しみ一つない純白の乗馬ズボンを穿いた足はすんなりと長く伸びておりピクリとも動く気配がない。
美鈴が今いる位置からでは茂みが邪魔をしてそれ以上のことをうかがい知ることはできなかった。
――どうしよう……関わり合いにならないほうがいいとは思うけど……。
もし、事故か何かで身動きが取れない状態だとしたら……?
近在の村の住民には、ルクリュ子爵家の一員として美鈴も世話になっている。
美しい村に住む、心温かい人々――もし、そんな村人が窮地に陥っているのだとしたら?
一旦、引き返そうと身をひるがえしかけた美鈴だったが、もう少しだけ様子をみることにしてそこに立ち止まった。
ドクン、ドクンと心臓の音が一段と耳元に大きく聞こえてくる。
意を決して茂みからソロソロと顔を出し、その先にあるものを見極めるべく目を凝らす――。
ドクンッ!
横たわっていた人物を見た瞬間、心臓がひときわ大きく飛び跳ねた。
……まさか、こんなところで彼と再会することになるとは……!
無造作に広げた上衣の上に横たわっているのは、あのブールルージュの森で出会った彼――フェリクス・ド・ アルノーその人だった。
ゆるく結んだ真っすぐな長い亜麻色の髪はほどけて広がり、美しい流れをあちこちに作っている。
これ以上は望めないというくらいに完璧な曲線を描く額から鼻梁、唇に続くライン。
絹糸のような睫毛に彩られた目蓋はしっかりと閉じられており、身体の横に添えた腕にはまったく力がはいっている様子がない。
まるで湖畔に置き去りにされた美しい人形のように――シンと静まり返った森の中、木漏れ日を浴びて横たわっている。
そこに横たわっていたのがフェリクスであったことに安堵しながらも、そのあまりに無防備な姿に美鈴は首を傾げざるを得ない。
名門貴族のアルノー伯爵家の子息がこんな田舎の湖のほとりで、供の者も連れないでひとりきり――。
初めて出会った時の振る舞いやこの間の舞踏会の件といい、多少気ままなところがあるのは知ってはいたけれど……。
一歩、二歩……足音をたてないよう、慎重に美鈴はフェリクスの横たわる水辺へ近づいてゆく。
その間もフェリクスは指先ひとつ動かさず横たわったまま――微動だにしない。
……よほど深く眠っているのか、それとも……。
――生きている人間じゃないみたい……。
ふと、そんな考えが頭に浮かんでしまった美鈴は急いでそんな不穏な想像を振り払おうとした。
まさか、そんなことがあるはずがない……でも、それならなぜ、よりにもよってこんな場所に横たわっているのだろう?
急に不安が黒雲のように胸の中を覆っていく。
怪我をしているようにはみえないけれど……頭を打ったとか? せめて、息をしているかどうかだけでも……。
フェリクスまであと数歩の位置まで来ていた美鈴は、思い切って彼のすぐ傍まで歩を進めた。
彼の横に膝をつき、改めて顔を覗き込んだその時。
流麗なカーブを描く眉がピクリと動き、端正な顔立ちが一気に生気を帯びた。
「……ん、ん?」
かすかに開いた唇から呟きが漏れ、ゆっくりと開かれたアイスブルーの瞳が数度、瞬いてから細められる。
「……君……は」
目覚めたばかりの虚ろな瞳が美鈴の姿を映し出した時、フェリクスは確かにそう呟いた。
「……お、お久しぶりでございます」
他に何と言っていいのか皆目わからず、美鈴は何とかぎこちない笑顔を作ってフェリクスに呼びかけた。
「……!」
ようやく意識がハッキリしたのか、フェリクスは瞳を見開くと急いで上半身を起こした。
薄青のシャツの胸飾りが揺れ、ほどけた亜麻色の髪がふわりと宙を舞う。
「……フェリクス様?」
こちらに背を向けて座っているフェリクスの表情は美鈴には見ることができない……のだが、気のせいだろうか?
ほんのわずかに見える彼の横顔――頬のあたりがうっすらと紅く染まっているように見える。
「……?」
「……失礼、少々驚いたもので」
ゆっくりとこちらを振り返ったフェリクスの顔は冷静な表情を浮かべていたものの、頬はやはりうっすらと紅くなっている。
「す、すみません。驚かせてしまって……!」
慌てて詫びようとする美鈴に対してフェリクスは軽く頭を振った。
「そういう意味では……。こんなところで、貴女に再び会うことになるなんて、思いもしなかった」
フェリクスの透き通ったアイスブルーの瞳が美鈴をまっすぐに見つめている。
湖面に反射する光を背に受けて、亜麻色の髪の輪郭が淡く光って見える。
――なんて……、美しい人なんだろう。
思わず、彼に見惚れてしまいそうになった美鈴の耳に下草を踏みしだいてこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
「おい、フェリクス! 待たせたな……」
フェリクスの名を呼ぶ、明るく朗らかな声に振り返ると、そこにいたのは確かに見覚えのある琥珀色の瞳に栗色の巻き毛の背の高い男性……。
大きなバスケットを携えたジュリアン・ド・ヴァンタールが驚いたような表情を浮かべてそこに立っていた。




