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02 今の私は「貴族令嬢」

 美鈴が「この世界」に来てからすでに2か月が過ぎようとしていた。


 この世界にも、美鈴が元いた世界のような「四季」があるという。


 季節はすでに早春から初夏にうつろい、ルクリュ子爵家の庭園には、夫人が愛してやまない幾種類ものバラが咲き乱れている。


 この「異世界」とルクリュ家を取り巻く環境について、この2か月の間、美鈴なりに徹底的に調べ「理解」したつもりだ。


 まず、解ったことは「元の世界」の歴史と比べれば、文化や科学技術の発展の度合いや社会制度、周辺諸国との関係に差異はあるものの、「この世界」は18~19世紀のヨーロッパに酷似しているということ。


 そして――、訳も分からないまま「この世界」に放り込まれてしまった美鈴にとって、到底受け入れがたい事実ではあったけれど、「元いた世界」に戻れる可能性は皆無だということ。


 幸いだったのは、ルクリュ子爵とその夫人が美鈴に屋敷への滞在を許し、何からなにまで世話をしてくれたことだった。


『瞳の色を除いて、娘に生き写し』という、愛娘との唯一の共通点だけを理由に身元不詳の人間に情をかける夫妻は、14年前に他界した娘に未だ深い愛情を抱いているようだ。


 この世界に来た翌日、美鈴は「彼女」の肖像画を見た。今は亡き子爵家令嬢ミレーヌの、13歳の誕生日に贈られた肖像画。


 確かに夫妻が言うように、肖像画の少女は「瞳の色以外」驚くほど自分とよく似ていた。


 柔らかそうな髪質の流れる黒髪、鼻筋のすっと通った、好奇心の強そうなグリーンの瞳の少女は絵の中で聖母を思わせる優し気な微笑みを浮かべていた。


 ルクリュ子爵夫妻に、自分が「この世界とは全く異なる世界からやってきた人間」だと告白することは、美鈴にはどうしてもできなかった。


 ありのままの真実を伝えたところで、それは情け深く善良な夫妻を混乱させるだけだと判断した美鈴は、周囲に対して「部分的な記憶喪失」を装うことでこの状況を乗りきることに決めたのだった。


 いつか……何とかして「もとの世界」に戻る手だてが見つかるまで……!


 ……そう固く決心をしたつもりだったけれど、その一方で人の好い夫妻に嘘をついているという罪悪感が心の隅には常にあった。


 屋敷で共に暮らすうちに、美鈴は夫妻に対して本当の肉親のような親しみを感じるようになっていたし、ルクリュ夫妻からは全面的な生活の保証と、美鈴を子爵家の養女として迎えるという話までもちかけられていた。


 東京に戻れる可能性が全く見えてこない今、美鈴としてはなんとかこの世界で生きる手だてを見つけなければならない。


 この世界での唯一の拠り処、ルクリュ家の一員として、夫妻の「娘」として暮らしていくこと……それは、「貴族令嬢」として生きていくこと―― 美鈴が一度たりとて想像したことのない ―― に他ならない。


 生来の真面目さから美鈴は令嬢としての基礎的な作法やダンスのレッスンに熱心に取り組み上達も早かった。


 しかし、いくらこの世界に多少馴染んできたとはいえ、心のうちでは元の世界に戻りたいという思いが強かった。


 一生を、いわゆるキャリアウーマンとして仕事に生きると決めていた美鈴には、たった2か月の間にこの異世界で生きていく覚悟などできるはずもなかった。


 さきほど前庭を歩いていた「男」が屋敷に到着してしばらく経った頃。


 自信と余裕に満ち溢れたリズミカルな靴音が廊下を近づいてきた……と思ったら短く鋭いノックの音。


「……どうぞ」


 儀礼的に、やや冷たい声で美鈴はノックに応じた。


 長身で筋肉質の体を優雅にドアの間から滑り込ませて、リオネルは令嬢(レディ)を前にうやうやしく礼をしてみせた。


 端正な顔には、どこか人をからかうような、笑みがたたえられている。


 この世界で美鈴を最初に見つけた人間 ―― リオネル・ド・バイエは、ルクリュ子爵の弟の息子、つまり甥にあたる。


 リオネルは幼少時から、1歳年下の子爵家令嬢 ミレーヌの遊び相手として頻繁にルクリュ家に出入りしており、いつも陽気で快活な彼は子爵夫妻から実の子のように可愛がられていた。


 ミレーヌが14年前に亡くなった後も、甥として、また子供のいない夫妻のよき話し相手として、リオネルと子爵家の交流は続いていた。


 美鈴が屋敷で暮らすようになってからも、リオネルは「ご機嫌伺い」などと言って何かにつけては美鈴の顔を見に来たし、夫妻もそれを歓迎していた。


 そんなリオネルが、美鈴が子爵家令嬢として初めて参加する舞踏会のエスコート役を買って出たのは、当然と言えば当然の成り行きだった。


 そればかりか、美鈴が今着用している舞踏会用の夜会服は、アクセサリーや靴などの小物も含めて、全てリオネルが見立てたものだ。


 種々の織物の輸入事業、紡績業への投資で利益を得ているバイエ子爵家のリオネルは、自らファッションアドバイザーのような活動をしており、上流貴族向けの洋服商との付き合いはもちろん、ブティック、ファッション雑誌の編集社にまで顔を出しているらしい。


『本来美しいご婦人に隠されている「真の美」を発見し、さらに輝かせるために、私は微力を尽くしたいのです』


 ……と、本人は殊勝気に説明するのが常だったが、貴族の中には『単にご婦人の人気とりのために、貴族の子弟が道楽としてやっているのだ』と、ゆく先々で美女に囲まれているリオネルをやっかむ輩も少なからずいるらしい。


 片手に持ったシルクハットをひらひらと躍らせながら、リオネルは彼の選んだ舞踏会用ドレスを着た美鈴にわざと一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄る。


 その間、彼の熱い視線は一瞬たりとも外されることなく、美鈴に注がれている。


 そもそも、リオネルに限らず男性から見詰められることに慣れていない美鈴は、その視線に耐えられず、気恥ずかしさから無意識に顔を伏せた。


 そんな美鈴の反応などお構いなしに、リオネルは怯むことなく悠々と美鈴のすぐ傍まで近づいてくる。


 ついに、リオネルが美鈴の前で立ち止まった。


 大柄なリオネルは、身長163cmの美鈴から見れば、ゆうに頭一つ分は身長差がある。


 リオネルの物腰はあくまで紳士のそれだったけれど、世間一般の女性以上に男性慣れしていない美鈴は緊張していた。


 きわめて無遠慮に上から下までなめるような視線を這わせた後、美鈴にはわざとらしく感じられるほど大仰に、リオネルは感嘆の吐息を漏らした。


「想像以上の仕上がりだ、美しい……!」


 神妙な表情で賛辞を述べながら、リオネルはさらに一歩、美鈴との距離をつめる。


 海外映画スターと並んでもきっと見劣りしない、美丈夫のリオネルに至近距離で見つめられて、美鈴はさすがにたじろがずにはいられなかった。


 ただでさえ、これまで着たことのないような上半身を露出した装いに戸惑っているのに、初めて出会った時から自分に対して好色そうな視線を隠そうともしないリオネルに気圧(けお)されて、美鈴は一歩、後ずさった。


 そんな美鈴の戸惑いを鋭く察知したリオネルは、ふっと柔和な笑みを浮かべ、美鈴にそっと近づくと軽くその手をとった。そのまま、優しく手を引いて大きな姿見の前に彼女を連れていく。


「ミレイ……君の、白い肌を引き立てるオールドローズ、滑らかな肩と細いウエストラインを惜しげもなく出したデザイン…間違いなく、君は社交界の華になれる」


 リオネルの見立ては確かだった。


 上質のシルクのような光沢を放つ深いバラ色のドレスによって、色白の美鈴の肌は今までに見たことがないくらい輝いているように見えた。 


 デコルテが大きく開いたデザインに合わせたプラチナ色の首飾りも、華奢なチェーンを幾重にも重ね、ピジョン・レッドのような深みのある赤石を主とした宝石が散りばめられた、繊細で上品なデザインだった。


 こんな「自分」は知らない……


 美鈴は鏡の中の自分をただただ茫然(ぼうぜん)と眺めていた。


 美鈴の露わな肩を両手で優しく抱いて、鏡の中の美鈴と視線を合わせたリオネルの目が笑い、ゆっくりと形のよい唇が美鈴の耳元に寄せられる。


「……君をエスコートするのが楽しみで仕方ない」


 舞踏会……それは華やかな、貴族令嬢の婚活の舞台。


 つい2か月前まで一生を仕事に捧げる決心をしていた美鈴には、想像もつかない女たちの戦場。


 この「世界」で貴族令嬢として生きていくためには、避けて通ることができないステップ……。


 鏡の中の自分をじっと見つめた後、美鈴は今日何度目になるかわからない、深いため息をついた。

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