18-3 真夜中の顔
沈黙が訪れてからどれくらいの時が流れただろうか……。
できるだけ意識しないように努めても、密着した厚い胸からリオネルの熱と鼓動が伝わってくる。
身体に回された腕は鋼のように強く、長椅子に身体を半ば横たえているリオネルに覆いかぶさるような態勢のまま、美鈴は身じろぎさえできない。
リオネルは抱きあげるようにして美鈴を自分の身体の上に乗せてしまっているので、今、美鈴の眼前にあるのは真っ白なシャツと寛げた胸元からのぞく鎖骨だった。
まるであやされている子供のように頭を片手で抱えられ、リオネルの胸に耳を当てていると彼の心臓の鼓動が聞こえた。
ゆったりと規則正しいそのリズムを間近で聞いていると
「君は、俺のことを信頼している……そうだろ?」
ポツリと漏らされたその言葉に思わず美鈴は頭を上げてリオネルの顔を見た。
その瞬間、リオネルはいともたやすく美鈴の視線を捉え、畳みかけるように呟いた。
「……そうでなければ、こんな夜中に俺の部屋に来るはずがない」
濃い睫毛に縁どられたグリーンとブラウンが混ざり合った夢のような色合いの瞳がじっとこちらを見返している。
美しく隆起した鼻梁の下の、薄く形の良い唇がもの言いたげに薄く開かれている。
「俺には、わかる。君が俺のことを憎からず思っていること……魅かれはじめていること」
リオネルの瞳が細められ、彼の片手がそっと美鈴の白い頬を撫でた。
触れた頬から美鈴の熱がリオネルの指先に伝わってしまう。
ただでさえ先ほどからリオネルに捉えられている瞳は美鈴の意志とはまったく関係のないところで潤み、チラチラと瞬く燭台の灯りを灯して輝いている。
「ミレイ……綺麗だ、どんな貴婦人も君には敵わない」
瞳をすっと閉じかけながら、リオネルは柔らかく美鈴の頬を抑えた。
ゆっくりと、窺うように顔を近づけ唇を合わせようととしたその時、ぽつりと温かい水滴が彼の頬を濡らした。
「……ミレイ」
驚かせないようにゆっくりと半身を起こし、態勢を整えると彼女を抱え上げて座らせる。
さきほどまで緊張に慄えていた美鈴の身体は意志のない人形のようにされるがままだった。
ひそめた眉、閉じた瞳の目じりから涙があふれて頬を伝い落ちていく。
声を上げずに、彼女は静かに涙を流していた。
しばらくその姿を眺めた後、リオネルは躊躇いながらも美鈴の両手を自らの大きな手ですっぽりと包み込んだ。
「ミレイ、これだけは覚えておいてくれ」
半ば懇願するような表情でリオネルが呟く。
「俺は、君の嫌がることは絶対にしない――。……怖がらせて悪かった」
ルクリュ家に向かう馬車の中、沈黙の支配する客席で美鈴はぼんやりと窓の外に流れる街並みを眺めていた。
道端のガス灯が照らす街角が記憶の底に押し込めていた古い場面を浮かび上がらせる。
東京郊外の街、木枯らしの吹く日暮れの街角で見た光景。
あの日重い足取りで家路を歩いていた彼女の足を完全に停めた出来事。
街灯の下に居たのは丈の長い黒いコートを着た背の高い男とその男の影に隠れるように立っている女。
男の横顔ははっきりと見えていた。
スッキリと通った鼻筋に憂いを帯びた目、柔らかそうな質感の美しい髪が街灯に照らされて艶々と光っていた。
その男の影に隠れていた女の顔が街灯に映し出された時。
10数年も前のことなのに、その時のことを思い出すと胸が灼かれ、目の前が昏くなるような錯覚にかられてしまう。
あの日以来、自分の心に恋愛感情が芽生えたことはなかった。そんな感情は自分の中で死んでしまったのだと思った。
美鈴が物思いに沈んでいる間に、馬車は徐々にスピードを緩め始めていた。
気づけば、窓の外に見慣れた街並みが近づいては通り過ぎ、馬車はルクリュ家のすぐ近くまで来ていることが分かった。
「ちょうどいい頃合いだな」
懐から時計を取り出してリオネルがポツリとそう呟いた。
その時。
美鈴は、リオネルの意図するところ――彼が部屋に誘った『理由』を理解した。
舞踏会が果てるのは深夜の2時を回ってからが通常だ。
あまりに早い帰宅は舞踏会に娘を送り出した両親にとって気を揉むような出来事だろう。
それを見越して、あえてちょっとした寄り道をすることで帰宅時間を『本来そうあるべき時間帯』まで遅らせたのだとしたら……。
そこまで思い至った時、美鈴はそっとリオネルの横顔を見上げた。
さきほどのことがあったためか、心なしか緊張した面持ちで真っすぐ前を向いている。
ルクリュ家の召使いによって門扉が開かれ、屋敷の中に馬車が乗り入れるその瞬間。
美鈴はそっとリオネルの燕尾服の袖をつまんだ。
驚いて、こちらを見たリオネルとは視線をあわせずに、ごく小さな声で彼女は言った。
「さっきは……ごめんなさい。泣いたりして」
その言葉を受けて、リオネルが浮かべた表情を美鈴は知らない。
「……気にすることはない。君と一緒にいられた。それだけで俺は、いい」
その労わるようにやさしい声音は、それから長い間、美鈴の耳底に残ったのだった。




