01 温かい手と無礼な男
もう二度と、目を覚ますことはない……そう思っていたのに。
ふわふわと夢の中を漂うような浮遊感の後、一気に現実に引き戻されるような感覚。
目蓋に光を感じて、美鈴はゆっくりと目を開いた。
目の前には、ヨーロッパ系だろうか、心配そうにのぞき込んでいる外国人の男女……。
品のよいダークグリーンのドレスに身を包んだ中年の女性はなぜか、目に涙を浮かべていた。
「ミレーヌ、おお、あなた!ミレーヌが目を開けたわ!!」
あなた、と呼ばれた夫と思われる男性も瞳を潤ませて頷いた。
「本当に、あの子に生き写しだ……。あれが、もし生きていれば……!」
この男性も夫人と同様にクラシックでフォーマルなスーツを着ている。
混乱で頭がクラクラする。駅の階段から落ちて……奇跡的に助かったのだろうか?
徐々に感覚が戻ってきて、痛みなどは全く感じないかわりに、体全体が今まで経験したことのないくらい重く感じられた。
「リオネル! このお嬢さんを中に運んであげてちょうだい」
「はい。 叔父上、叔母様、ここは私にお任せを……」
とても大きな、温かい手……その手はこわれものを扱うような手つきで美鈴の肩に手を添え、優しく抱きおこした。
力強い腕がひざ下をしっかりと抱え込み、ふわりと、まるで空気を抱いているかのように軽やかに美鈴を抱き上げた。
霧がかかったような記憶の中で、その瞬間だけははっきりと覚えている。
美鈴を抱き上げた「男」の顔が目の前に大写しになり、太く形のよい眉の下の、印象的な瞳は美鈴の知る限り「ヘーゼル」とでも表現するのだろうか。
温かみのあるグリーンとブラウンが複雑に混ざったその瞳が、まぶしいものでも見たように細められ、男は整った口元を崩して、まるでいたずら好きの子供のようにニーッと笑った。
美鈴を抱き寄せるフリをしながら、男が美鈴の耳に唇を寄せる。
「……はじめ見た時は華奢に見えたが…なかなか魅力的なボディーラインでいらっしゃる」
美鈴にしか聞こえないヴォリュームで、しかしはっきりと男は言い放った。男の熱い息が耳朶にかかる。
「……!!!」
それが、初対面の人間に言う言葉……!?
頭にかかった靄が一瞬で晴れた瞬間だった。
ひっぱたいてやりたい……!
自分でも意外なほどカッとなった美鈴はそう思ったが、体は重怠く、とても思うように動かせる状態ではなかった。
玄関を入り、ホールを抜け……勝手知ったる足取りで男は屋敷の中を進んでいき、羽をふわりと落とすように、美鈴を客室のベッドに横たえた。
温かい手が、美鈴の額に触れ、ゆっくりと前髪をかき上げる。
見知らぬ男性に触れられて反射的に身を固くした美鈴を見つめる男の顔から、先ほどの好色そうな表情が消えていた。
美鈴の緊張を解きほぐそうとしているのか、男は優し気な瞳で美鈴を見つめながら労わるように頭を撫で続けた。
……?この男、一体なんなの……?
先の一瞬あれほど不快感を感じたにも関わらず、されるがままになっている自分に美鈴は戸惑いを感じていた。
しかし、それもつかの間、しばらくすると強烈な眠気と倦怠感が襲いかかってきて、 目蓋は重く、指先は甘くしびれたように気怠くなっていき、ついには眠りの中に引き込まれてしまった。
再び美鈴が目を覚ますと、美鈴の前で涙ぐんでいた男女 ―― この家の主人であるクラシックな装いの紳士とその奥方が美鈴の枕元にやってきた。
二人が語るところによると、どうやら美鈴は紳士の屋敷の庭に突然現れたということだった。
芝草の上に横たわる美鈴を見つけたのは、リオネル……美鈴を抱き上げ、屋敷の客間に運んだ男だと夫妻は語った。
「リオネルに呼ばれて……貴女を初めて見た時、本当に驚きましたわ。まるであの娘が生き返ったのかと……」
かつて 二人には 「ミレーヌ」という愛娘がいたのだが、不幸な事故で14年前に亡くなったという。
美鈴は姿かたちだけでなく声までもが、その娘に生き写しだというのだ。
いくら娘に似ているとはいえ、赤の他人である自分を親切に介抱してくれた夫婦に、美鈴は深く頭を下げた。
「……すみません、ここに来るまでのことを覚えていなくて……。本当に、ご親切にありがとうございました」
階段を踏み外したのは、間違いなくあの駅だった……。
駅の構内ならいざしらず、なぜ、会ったこともない他人の庭に倒れていたのか……。
腑に落ちないことだらけだったが、見るからに善良そうな夫妻が嘘をついているとも思えなかった。
この親切な夫妻には、後日改めて訪問して心からお礼を述べたいと思う。でも、まずは一刻も早く帰社しなければならない。
窓の外の日はすでに傾いていており、西日が差す窓越しに空に高く響く鐘のような音が聞こえてきた。
教会……が近くにあるのだろうか……。
「……あの、ここは東京……ですよね。何区ですか……?」
美鈴の問いに、夫婦は目を見合わせた。
「トウキョウ……?」
「ええ、わたし、大手町の会社まで戻らないと……。最寄り駅はどこでしょうか?」
心臓がどきどきする。
だんだんハッキリしてきた頭で考えると、この屋敷で目覚めてからの出来事すべてに強烈な違和感を感じる。
夫妻の、現代日本ではありえないような古風な装い。
見るからに重厚で本格的な西洋建築とそれに相応しい高価そうな調度品。
東京は、今、真冬だというのに、春先のような暖かい空気と、庭に咲き乱れる花々。
「駅というとオルセル鉄道駅のことかな?随分遠くから来たようだね」
まったく聞きなれない単語に、胸の動悸がさらに高まったように感じられた。
「あの……おかしなことを聞くと思われるかもしれませんが……」
夫妻の顔を交互に見つめてから、美鈴は先ほどから何度も心の中で繰り返した質問を口にした。
「ここは、いったいどこ……なのでしょうか?」
「……あなた」
夫人の困惑した視線を受けて、軽く頷いた紳士は美鈴にゆっくりと言い聞かせるように説明した。
「ここは、フランツ王国の首都パリスイ。私はアラン・ド・ルクリュ子爵、これは妻のロズリーヌ」
「……きっと、随分遠いところから来られたのね。慣れない土地でお困りなのかしら」
確かに、自分が今朝までいた場所「東京」に比べたらここは全くの「異国」だった。
両手を胸の前で固く握りしめながら、美鈴は必死に事態を理解しようと努めた。
「おやおや!ようやく眠り姫がお目覚めになったようだな……」
軽口をたたきながら、リオネルがズカズカと部屋に入ってくる。
ベッドに半身を起こしている美鈴の真横までやってくると、彼はゆっくりと優雅な所作で片膝をついた。
差し出された手には美しいカットが施されたグラス。中には少量の琥珀色の液体……アルコールのようだった。
「お姫様は大変お疲れのようだ。ちょっとした「気付け薬」をお持ちしたのだが……」
リオネルはゆっくりと、美鈴の固く握りしめた手をほどいて、グラスを握らせた。
「さ、ゆっくりと…。召し上がれ」
頭が混乱してうまく働かない。
言われるままに、美鈴は渡されたその酒を一気に飲み干してしまった。
じわじわと度数の高いアルコールの熱さが喉を伝っていく感覚。
気付けどころか、強烈な酩酊感と眠気に襲われて、美鈴は再びベッドに倒れこんでしまった。
「まあ、なんてこと……!」
「リオネル、おふざけが過ぎるぞ!」
ルクリュ氏と夫人に責められ、リオネルはさすがに「ちょっと困った」というような表情でつややかな黒髪の巻き毛頭を撫でながらつぶやいた。
「うーん。このお姫様はだいぶ酒に弱そうだな……」