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17-2 はじめての「お願い」

 馬車の車輪が石畳を叩く音が夜の街に響いている。


 道路沿いに規則正しく並んだ街灯の灯りが、すこぶる上機嫌そうなリオネルの顔を闇の中に照らし出す。


 一方、美鈴の胸には気まずさと恥ずかしさが入り混じったような感情がうず巻いていてすぐ隣のリオネルの顔を見ることができない。


「……まさか、真面目な君があんなことを言い出すなんて」


 クックッと、ごく軽い笑い声を漏らしながら、リオネルは隣の美鈴を目を細めて見つめた。


「思ってもみなかった。まあ、俺としては君にワガママを言われるのは嬉しいことだが」


 舞踏会が果てるのは真夜中の2時頃、社交という名の情報交換に余念がない招待客たちは夜が白んでくる頃になってやっと帰り支度を始める。


 しかも、侯爵夫人のような大貴族主催の会ともなれば周りの目もあり、よほどの事情がなければ途中で帰宅するなどということは難しい。


 しかし、リオネルはいともあっさりと美鈴の望みを叶えてくれた。


 実に手際よく侯爵夫人に暇乞いの挨拶を済ませ、召使いに馬車の準備をするよう伝えると、大勢の人目がある中悪目立ちしないように細心の注意を払いながら美鈴を玄関まで(いざな)った。


『舞踏会を抜け出したいの、今すぐに』


 なぜ、あんなことを口走ってしまったのか、今となっては自分でもよくわからない。


 黒髪の男への警戒心――何としてでもあの男と再び相対することを避けたかった。


 それが大きな理由だったのは間違いない事実だけれど、それ以上に『リオネルなら願いを叶えてくれるに違いない』という期待もあったことは確かだ。


 ……一体どうして、そんな風に思えたのだろう?


 この世界に来て、リオネルと出会ってからたった数か月。


 今まで男性に心を開いてこなかった自分が、彼に対してそんな風に感じられたことが不思議だった。


 北ヨーロッパに似た気候のこの国では夏とはいえ、朝と夜は気温が急落し肌寒いほどに冷え込む。

 

 美鈴の剥き出しの肩に、リオネルがそっとショールをかけてくれた。


 細やかな折り目の柔らかな生地がふんわりと優しく肌に降りかかる。


「あ……ありがとう」


「どういたしまして」


 リオネルの長い指の大きな手がショールの上から美鈴の肩にやんわりと触れている。


 ……温かい手、いつもと、変わらない……


 ここに住む大半の人が眠りについているシンと静まり返った街の中、聞こえてくるのは二人を乗せた馬車の駆け抜ける音だけだった。


 リオネルの手から伝わる温もりを感じながら馬車の車内という密室に二人きりでいると、まるでこの世界には自分たち二人しかいないような気がしてくる。


 それは、何とも言えない不思議な感覚だった。


 闇の中、リオネルの瞳に探すように視線を漂わせると、すぐに濡れたような瞳がこちらを見返しているのがわかった。


 先ほどは笑みを浮かべていた端正な顔が、今はもう笑ってはいない。


 ほんの少し細められた瞳が、引き結んだ唇の美しい輪郭が、美鈴に何かを語りかけているようだった。


 リオネルと目が合った瞬間、自然と頬が熱くなるのを感じて、美鈴は急いで窓の外に視線を移した。


 馬車が走り出してもう随分時経っている。


 往きに要した時間を考えれば、もうそろそろルクリュ邸の付近についてもよさそうな頃あいだ。


 しかし、周りに見える建物や街角の雰囲気から、今、馬車が走っている界隈は貴族の屋敷が数多く立ち並ぶルクリュ邸近辺ではないことが分かる。


 窓の外をしげしげと眺めてから、美鈴は思い切ってリオネルに尋ねた。


「リオネル、ここはどこなの?……どう見てもルクリュ邸に向かっているとは思えないけど」


「ご明察!さっき、レミに俺の家に寄るよう頼んでおいた」


「なんですって!」


 そういえば、公爵夫人邸で馬車に乗り込む際、ルクリュ家の御者であるレミの肩を抱いて、リオネルが何やらひそひそと話をしていたのを美鈴は思い出した。


「一体、どういうつもりなの?」


 美鈴が気色ばんだ様子でリオネルに詰め寄ると、リオネルは両手を『参った』というようにあげて美鈴を制した。


「どういうつもりもない、ただ、せっかくだから今夜、君を俺の部屋に招待したくなっただけだ」


 いつもの茶化すような表情ではなく、美鈴の問いに真顔で答えたリオネルはゆっくりと唇を動かし、囁くような声で続けた。


「俺は、君のことをもっとよく知りたい。で、俺のことも君にもっと知ってもらいたい……そう思ってね」


 窓の外、流れる街並みの中の街灯の光を映して、リオネルの瞳がきらりと輝く。


 美鈴は、今度こそ、リオネルが何を考えているのか本当に分からなくなっていた。

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