16 甘い余韻と氷の横顔
公爵令嬢アリアンヌの大きく膨らんだスカートの裾が舞踏会場へ通じるドアに消えるのを見送ってから、ホッと息を吐いて美鈴は再び上等の織物で覆われた椅子に座りこんだ。
……全く、今日は何という日なのだろう……
柔らかく滑らかなベルベットに似た質感の、緑地に金色の花模様のパターンに彩られた大きな円形の椅子に両手をつき、瞳をそっと閉じてから、目まぐるしく過ぎたこの数時間の出来事を順番に思い返してみる。
ただただ目を瞠るばかりだった、初めて見る大貴族の邸宅に華やかな舞踏会場。
森で出会った青年――ジュリアンの姿を再び見かけ、彼の出自を知ったこと。
リオネルと踊った、最初の円舞曲……まるで時が永遠に続くかと思われた瞬間。
最初のダンスの後、幾人ものパートナーと踊った様々な舞踏曲。
そして公爵令嬢アリアンヌとの会話と彼女が立ち去る直前に耳打ちした言葉……。
『貴族階級でないものが、舞踏会に紛れ込んでいる』
その一言が、妙に引っかかる。
貴族階級ではない、男性……が、婦女子を篭絡……?
不逞の輩について語るアリアンヌの口ぶりには、貴族社会への「侵略者」に対する嫌悪が、確かに込められていた。
アリアンヌの語った怪しげな男の噂について思い当たるのは、ブールルージュの森で出会ったあの男……黒髪の、質素なコートを着た眼光鋭い青年の姿だった。
鬱蒼とした人気のない森の中、時にギラリと黒光りする、青年の昏い瞳に見つめられた瞬間の背筋が凍るような感覚を思い出し、美鈴は閉じていた目を開き、露わな肩を震わせた。
目を開いてみる景色――そこは紛れもない大貴族の贅をこらした邸宅で、今、美鈴が居る舞踏会場の次の間には美しい腰かけ椅子が並び、柔らかな照明が照らし出す中数人の男女が小声で談笑している。
開け放した扉が舞踏会場に通じるこの部屋には、楽隊の奏でる美しいハーモニーが絶えることなく流れ込み、会場のざわめきが遠く潮騒のように聞こえてくる。
華やかな舞踏会場から離れて一人物思いに耽りながら、美鈴は夢を見ているような虚ろな瞳で目の前の情景をぼんやりと見るともなく見つめていた。
「……お一人ですか、ご令嬢……」
不意に、耳元に低い男の声を聴いて、美鈴は驚いて後ろを振り返った。
心臓がバクバクと激しい音を立て、額にはうっすらと冷や汗さえかいている。
「……! リオネル……ッ!!」
美鈴の瞳に映ったのは、やや眉を上げ、驚きを含んだ表情を浮かべたリオネルだった。
「すまん、だいぶ驚かせてしまったようだな……」
ゆったりとした足取りで美鈴の前に回り込みながら、リオネルはバツが悪そうな表情で美鈴に話しかける。
「何か、考え事でもしていたのか……? 引きも切らずパートナーがやってくるような美しい令嬢が、ダンスもせずにこんなところに隠れて」
椅子に座る美鈴の真正面に立ち、身を屈め、気遣わし気にそう問いかけるリオネルの瞳の色を見て、美鈴は安堵の息を吐いた。
――以前だったら
もし、これがリオネルと円舞曲を踊る前……あるいは、ブールルージュの森の一件よりもっと前の出来事だったなら。
リオネルに対して、美鈴は皮肉の一つや二つ、投げかけていたかもしれなかった。
しかし、今は、以前リオネルと相対する度に感じていた「怖れ」に似た感情に飲み込まれることなく、心配そうに覗き込んでくる彼の視線を受け止めることができる。
「なんでもないの。ちょっと気になることがあっただけ。……あなたの方こそ、踊ってこないの?」
美鈴の問いかけに対して、大げさに肩を竦めると、リオネルはわざとらしくホーッとため息を吐いた。
大きな体をグイと傾け、美鈴の瞳を数秒、覗き込んでから彼女の耳元に唇を寄せて小声でそっと囁く。
「最初の円舞曲で、この舞踏会で一番、美しい令嬢と踊ってしまったものでね……。今夜は、これでもう十分だ」
身体を起こしたリオネルは、これ見よがしに、ニンマリと甘い笑顔を美鈴に向けてくる。
「そ……そう。……それは」
こうしたやり取りに慣れていない美鈴は、頬を赤らめて、そこで言葉を詰まらせた。
……こんな時、気の利いたやり取りができない自分が、我ながら情けない……。
仕事上の付き合いであれば、相手がどんな男性であろうが、臆することなく話すことができるのに……!
「恋愛」というフィルターがかかってしまうだけで、こんなにもぎこちなくなってしまう自分が、どうしようもなく歯がゆかった。
黙ったままの美鈴を、微笑を頬に浮かべたまま眺めていたリオネルが、ゆっくりと彼女の前に跪き、小鳥を掌に乗せるようにそっと手を握った。
「何も、無理をしてこれ以上、踊ることもない。舞踏会の楽しみは、ダンスだけではないからな」
オーケストラの音色、中でも弦楽器の一群による旋律がひときわ高く鳴り響いて消えた後、会場は楽隊への拍手に包まれた。
舞踏会場をチラと振り返ってから、美鈴の手を取り、立ち上がるよう促すと、リオネルは彼女を伴って舞踏の間に向かって歩を進めた。
ちょうど中休みに入った舞踏会場には、きらめく金ボタンに濃灰色のお仕着せを着た屋敷の従僕たちが現れ、招待客たちのための軽い食事や飲み物を次々と運んでくる。
リオネルは目の前に巡ってきた、すまし顔の年若い召使いに軽く合図し、クリーム色の液体が入ったカクテルグラスを二つ受け取り、一つの盃を美鈴に手渡した。
軽く盃を掲げてから、そっと口をつけると、ひんやりと冷たいシロップの甘味がしみわたる。
まろやかに甘い、シロップの余韻を楽しみながら、美鈴が視線を上げるとリオネルと目が合った。
リオネルの明るいグリーンの瞳が優し気に細められ美鈴を見つめている。
ふんわりとした艶のある黒髪の巻き毛、人目を惹く長身に男らしい精悍な顔立ちのリオネルは、窓際に立つ美鈴を舞踏会の喧騒から護るように彼女のすぐ傍に佇んでいる。
……最初は、見つめられるたびに戸惑いを感じていたヘーゼルグリーンの瞳。
一体、この数時間、いや、数日間の間に、変ってしまったのは自分なのか、それとも……。
突如として心の中に湧き出た、不思議な感情の泉に翻弄されながらも、辛うじて美鈴は微笑みを浮かべてリオネルに相対していた。
ふと、美鈴が煌びやかな舞踏会場から窓辺に目を移すと、屋敷正面のバルコニーに面したその窓から、たった今、屋敷に到着したと見える馬車と乗客の姿が見えた。
車寄せに降り立った貴婦人は、袖部分に黒いレースを重ねた、身体の線を際立たせる濃紫のドレスに身を包み、白絹のショールを纏っていた。
そして、その傍らには貴婦人の手を取り、屋敷へ導く男性の姿――
背を向けていた男性が侯爵夫人邸の正面玄関に向き直り、美鈴が何気なくその男性の顔を見た瞬間、舞踏会場のざわめきが急に遠く聞こえた気がした。
細い顎に真っ白な肌、氷のような印象の横顔は、忘れもしないあの男。
森の中で出会った、あの不気味な青年に間違いなかった。




