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12 フォンテーヌ侯爵夫人邸

 美鈴がリオネルの手を取って、馬車に乗り込んだその時。


 馬車の窓からふと見上げた空の、太陽が沈みきった方角はまだほんのりと薄明りを残していた。


 一方で、その真反対の空……薄青から濃紺のグラデーションの夜の帳が下りた部分は明るく輝く星がいくつか、キラキラと瞬いている。


 ルクリュ子爵夫妻、ジャネットをはじめとしたルクリュ邸の召使いたち一同が見送る中、ルクリュ家の紋章が入った二頭立ての箱型馬車はカラカラと軽やかな音を立てながら、夜の街へと滑りだした。


 馬車の中、満足そうな表情で座席にもたれながら自分を見つめるリオネルの視線を受けて、美鈴はいつも以上に緊張していた。


 手袋のちょっとしたよれを何度も直したり、ドレスの裾を気にしたり、いつも冷静な彼女らしくもない落ち着きの無さだった。


 その原因は、リオネルの視線以上に、彼女が今身に着けている夜会服にあった。


 滑らかなデコルテを強調し、うなじや首、肩や胸元まで露わにする、「女性の美しさを引き出すため」のドレスは、舞踏会用ドレスを着慣れていない美鈴にとって心もとない、露出度の高すぎる装いに思える。


 加えてパリスイの社交界では、昼間の外出時と異なり、夜会向けの盛装では男女ともに基本的に帽子は着用しないことになっている。


 そのため――この世界の紳士淑女から見ればごく自然なことではあるのだが――露わな上半身を隠す手だては一切なく、その姿を衆目に晒すことを余儀なくされる。


 いわば一種のカルチャーショックを今更ながらに感じて、美鈴は戸惑っていたのだった。


「……やっぱり、君には深いバラ色がよく似合う。初めて君を見た時から、君の肌には絶対にその色が似合うと思っていた」


 自らが見立てたドレスに身を包んだ美鈴を惚れ惚れと眺めながらリオネルが呟いた。


 美鈴が今、着用しているデコルテの大部分と胸元を強調したオールドローズのドレスの袖部分は、パフスリーブ状に丸く大きく膨らみ、胸元と同様に繊細な飾りレースで縁どられている。


 コルセットで細く整えられた腰部分は同色の布の飾りベルトで彩られ、ドレープによって布地の光沢が引きたてられたドレスの裾には、ドレスよりほんの少し濃い色の糸で刺繍された花柄の装飾付きの布地が三重、重ねられている。


「初めてって……わたしが、ルクリュ家の庭に倒れていた時のこと……?」

 リオネルが口を開くまで、羞じらいから(うつむ)いていた美鈴が、驚いたように顔を上げて彼の方を向いた。


 彼女が顔を上げた瞬間、プラチナの繊細なチェーンに赤い宝石をあしらった首飾りに合わせて、赤石とダイヤのような透明感のある宝石を交互にちりばめた、長さのあるイヤリングがゆっくりと振り子のように揺れて(きら)めいた。


 その光景を目を細めて見つめながら、リオネルはゆっくりとした口調で美鈴の問いに答える。


「ああ、あの日……緑の芝草の上で、君を初めて見た時……」


 夜の街を通り抜ける馬車の中、街灯の光を受けてリオネルの、今は昼間よりも暗く見えるヘーゼルグリーンの瞳が光った。


「……あの時、君は、中々面白い服装をしていたな……。今までに見たことのないデザイン……やはり君はどこか遠い、異国から来た人間なのかもしれないな」


 ……異国……!


 リオネルの言葉に、思わず美鈴は彼の瞳から視線を逸らしてしまった。


 ルクリュ子爵夫妻をはじめ、リオネルに対しても自分が「異世界から来た人間」だということを隠し通している美鈴にとって、それは最も探られてはならない点だった。


「……子爵邸で倒れていた……その前の記憶は……どうしても思い出せなくて」


 目を逸らし、しどろもどろに答える美鈴を、リオネルは片頬に手をあてながら面白そうに眺めている。


「……まあ、俺は君の正体を何としても探ろうなんて気はさらさらない」


 組んでいた長い脚を伸ばしながら、リオネルは座席の上で固く握りしめられた美鈴の片手に自分の手を重ねた。


「大切なのは、もっと「君自身」を知ることだと思っている……。君は、何に対して喜び、悲しみ、怒りを感じるのか……」


 美鈴の片手を大きな手でそっと包み込みながら、リオネルは美鈴の顔を覗き込んだ。


「……わたしが、どこの誰でも……何者でも、あなたは、かまわないというの?」


 馬車が石畳を走る音でかき消えてしまいそうな小声で、恐る恐る尋ねる美鈴に向かって、リオネルは眩しい笑顔で答えた。


「もちろん!……もし君が月から来た女神だというのなら、俺はその真実を受け容れる……ただし」


 美鈴の手をそっと持ち上げ、手の甲に軽くキスを落とすと、彼女の瞳をじっと覗き込みながらリオネルは言った。


「もし、君が自分の正体を思い出して「月に帰る」と言ったとしても、……俺は、君を離さない……帰したくない」

 

 その瞬間、急に辺りが明るくなり、車内のリオネルと美鈴の姿が昼間のような明るさで照らし出された。


二人の乗った馬車は、今まさに舞踏会の主催者、大貴族のフォンテーヌ侯爵夫人の屋敷の門前に到着したところだった。


 今夜の舞踏会の会場である、フォンテーヌ侯爵夫人邸の門前は、舞踏会の客人たちを迎え入れるため明々と光が灯されていた。


 美鈴が馬車の窓から外をみると、邸内は門前から車寄せに至るアプローチのいたるところに灯りが灯され、様々に趣向を凝らした招待客たちの馬車を照らし出している。


 邸内を進むにつれ、素晴らしい装飾や紋章で彩られた、贅を尽くした貴族たちの箱馬車とそれらを曳く毛並みのよい馬達が、次々と目に飛び込んでくる。


 侯爵夫人邸の広大な敷地の奥の車寄せまで、馬車は徐々に速度を落としながら進んでゆき、車寄せで完全に停車した。


 馬車が停車するやいなや、(やしき)の召使いが美鈴たちの馬車に走り寄り、手早く降車用の踏み台を用意する。


 リオネルが()ず馬車から降り美鈴の座席側に回ると、召使いが(うやうや)しく扉を開けるのを待って彼女の手を取り、馬車から降りるのを助けた。


 舞踏会ドレスの端をつまんで、ゆっくりと慎重に馬車を降りてから、美鈴は改めて辺りを見回して、生まれてこのかた、ただの一度も見たことがない光景に目を(みは)った。


 屋敷の前面の外壁がタイル状の白石で覆われた侯爵夫人邸は、正面玄関を中心に両翼のように左右対称に伸びており、その両翼の先端にあたる部分、屋敷全面と背面に四つの塔を備えている。


 二階建ての広大な邸内には、すでに窓辺やバルコニーまで大勢の着飾った招待客達の姿が、室内灯に照らし出されて浮かび上がっていた。


 開け放された窓からは、邸内のざわめき――招待客たちの談笑する声、オーケストラの本番前の音合わせの音色が館の中だけでなく美鈴たちのいる玄関部分にまで響き渡ってくる。


 邸内から聞こえるざわめきの他に、ふと水音が聞こえた気がして美鈴がそっと後ろを振り向くと、半身が魚の少年少女とイルカの彫像を配した噴水が、夜空に向かって高く水を噴き上げていた。


 優雅な所作で招待状を召使いに渡すリオネルを茫然(ぼうぜん)と見つながら、玄関部分に視線を移すと、教科書で見たギリシャの神殿のような美しい柱列と薄いグレーと白の大理石のような石が敷き詰められた広い玄関ホールが目に映った。


 ……おとぎ話みたいだ、まるで……


 いつか絵本で読んだ、あるいは映画でみた舞踏会の華やかなワンシーンが美鈴の頭の中に鮮やかに(よみがえ)ってくる。


 それと同時に、胸の中に(あふ)れる違和感……東京で、会社員として一生を終えるつもりだった自分が、なぜ、こんな場所にいるのだろう……。


 リオネルに促され、彼の腕に手を回し、豪奢(ごうしゃ)なシャンデリアの光に包まれながら、美鈴は夢の中にいるような不思議な感覚のまま、玄関ホールの奥へ向かって歩を進めた。

 

 そこから先は――邸内の至るところから注がれる招待客たちからの視線の洗礼――玄関ホールで談笑する紳士淑女の一瞥(いちべつ)、そして階上へ伸びる階段の上、バルコニーから降ってくる、数えきれないほどの視線……


 これまで経験したことのない、視線の嵐に(さら)されて、美鈴は無意識にリオネルの腕をつかむ手に力を込めた。


 美鈴の緊張が伝わったのか、リオネルは美鈴の前に回り身を屈めて彼女を軽く抱き寄せると、耳元でそっと囁いた。


「大丈夫、心配することは何もない。……君は、堂々と胸を張って歩いていけばいい」


 呪文のように美鈴にそう言い聞かせると、リオネルは軽く片目を閉じて彼女に笑いかけた。


「……さあ、参りましょう、ミレイ嬢」


 そう呼びかけると、裾長の舞踏会用ドレスを着た美鈴の歩調に合わせながら、リオネルは彼女を階上へ向かう幅広の階段の下に導いた。


 リオネルの声で我に返った美鈴は、周りの視線を気にしながらも、リオネルと共に一歩一歩、シャンデリアの灯りで艶々と輝く石段を踏みしめて上っていく。


 階段を上り切った先、第一の広間は、次の間に控えている侯爵夫人に挨拶をしようと待ち構えている招待客で溢れかえっていた。


 その中に――偶然にも見知った顔を見つけて、思わず上げそうになった声を、美鈴は何とか飲み込んだ。

 

 忘れもしない、ブールルージュの森の中での出来事……黒髪の不気味な男から彼女を救ってくれた、栗色の髪、琥珀色(アンバー)の瞳のあの青年の姿がそこにあった。

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