11 舞踏会へ……!
開け放した窓の外から聞こえてくる、空高く響く鐘の音で美鈴は再び目を覚ました。
太陽はすっかり昇りきり、正午を少し過ぎた眩しい初夏の日差しが窓から差し込んでいる。
ベッドでゆっくりと身体を伸ばして寛いでいると、ドアを軽くノックする音と「お嬢様」と呼びかける女性の声が聞こえてきた。
ルクリュ子爵邸に起居することになってから、ずっと美鈴の身の回りの世話をしてくれている侍女のジャネットだ。
「起きてるわ、ジャネット。いい天気ね」
美鈴の返事を受けて、すらりと背の高い女性――ジャネットが扉を開け室内に入り、美鈴に軽く会釈した。
「本当に。今日はまた、良く晴れましたねえ……」
開きっぱなしだった窓を閉め、レースのカーテンを引いてから振り向いたジャネットは、ベッドの上で半身を起こした美鈴に明るい笑顔をみせた。
ルクリュ子爵夫妻の娘、ミレーヌがまだ存命だった頃、彼女付きの召使いとして雇われた彼女は30代半ばを過ぎている。
昔から仕事の手際がよく、人の気持ちを察することに長けていた彼女は、今では熟練者としてこの屋敷に雇われている侍女達を統括する立場にあった。
やや赤みがかった金髪をキッチリと結い上げて、テンポの速いダンスのステップを踏むように、ジャネットは無駄のない動きでテキパキと仕事をこなしていく。
子供の頃を除いて、誰かに身支度を手伝ってもらうことなどなかった美鈴は、最初この慣習に大いにとまどったものだったが、今では、しっかり者で気立てのよいジャネットと打ち解けた会話ができるようになっていた。
「数日前、リオネル様がおっしゃられた通りになりましたね。……この分なら、今晩、雨の心配はなさそうですわ」
あの日、ルクリュ子爵夫人、リオネルと三人でテーブルを囲んでいた時、給仕をしてくれたのはジャネットだった。
当然、あの時のリオネルのきざなセリフ……『自分がとびきり美しい女性をエスコートする日は、いつも必ず晴れる』と彼が自信満々に言い放ったのを、ジャネットも聞いていたらしい。
ブールルージュの森を訪れたあの日以来、美鈴はまだリオネルと直接顔を合わせていないのだが、昨日の夕方、彼から舞踏会用の新しい靴が届けられた。
美鈴の足の状態を気遣って急いで誂えたのであろうその靴は、内側にも上質の革を使った、履き心地がよい上等な品だった。
「……そうね。」
そっけない反応の美鈴を、ジャネットは入浴の支度をしながら、興味深そうに横目で観察しているようだった。
「……リオネル様は、子供の頃からどこか飄々として……個性的な方ではありますが」
美鈴が丈の長いネグリジェを脱ぐのを手伝いながら、ジャネットは静かな声で美鈴に語りかけた。
「とても、お優しい方です。ご自分が特別な好意を抱いている方々には……想いを隠すことなく尽くそうする。とても純粋な方だと私は思っています」
美鈴の反応を窺いながら、やや遠慮がちに、ジャネットは独り言のようにそっと呟いた。
ジャネットの言葉を受けて、先日ブールルージュの森で再会した時のリオネルの表情――彼の温かい胸に抱かれた感覚がまざまざとよみがえってくるのを美鈴は感じた。
「……そうね、私も……そう、思うわ」
ごく控えめな反応を見せる美鈴を、ジャネットは湯あみの後に身体を拭くためのタオルを広げながら、澄んだ栗色の瞳を見開いて不思議そうに眺めていた。
あの日、ブールルージュの森での出来事が美鈴の中の「何か」を動かした。
その何かが彼女の心を揺さぶり、未だ言葉にすることができない感情を呼び覚ましかけていることは、本人も自覚しているところではあったのだが……。
……どうしたらいいのか……、解らない。
白い浴槽の中でゆらゆらと揺れる青い水面を眺めながら、美鈴は心の底から当惑していた。
人はこの感情を恋愛と結びつけるかもしれない、でも自分の場合は……まともに恋などしてきたことがない美鈴には、この気持ちを何と呼べばよいのか、見当もつかなかった。
ジャネットに手伝ってもらいながら全身を香りのよい石鹸で洗い終わると、ゆっくりと浴槽から立ち上がりながら美鈴は軽くため息をついた。
勉強に、仕事に、常に自ら目標を設定してそれに打ち込んでいるフリをしながら、その実、見ないよう、感じないようにしてきたこと……逃げてきたこと。
それらに、今、向き合わないといけない……この異世界に自分がやってきた理由は、そこにこそあるのだろうか……。
この世界――フランツ王国 パリスイで過ごした2か月間、美鈴が見聞きしてきた限りでは――少なくとも美鈴が今まで出会ったこの国の人々は自分の心に正直に、喜びや悲しみを表現し、それを愛する人と分かち合って生きているように思える。
ひたすら自分の感情を押し隠し、何重もの鎧を心にまとって生きてきた自分とは全く違う……。
……これは運命なのだろうか? だとしたら、なぜ……。
「そんな顔! なさらないでください。ミレイ様」
物思いに沈んでいる美鈴を見かねて、ジャネットがそっと声をかけた。
美鈴の身体をすっぽりと包めるような大きさの柔らかなタオルを美鈴の肩にそっとかけながら、ジャネットがふんわりと微笑んだ。
「……今夜は、お嬢様のデビュタントなのですから……。貴族のご令嬢なら、誰もが夢見る、そんな日ですのに」
もう一枚、片腕にかけていた髪用のタオルで美鈴の髪を丁寧に包みながら、ジャネットが歌うように美鈴に言い聞かせる。
「まず、楽しまなくては! 美しいドレスを着て、めいいっぱいおめかしをして出かけるのです……さあ、楽しいことだけ考えましょう」
ジャネットもまた、リオネルと同じく自分の心に素直に行動できる人間らしかった。
布で軽く美鈴の髪を挟んで水気をとりながら、ジャネットは澄んだ声で囁くようにある歌を口ずさんだ。
――人生はバラ色
今、愛と光を私は感じることができる。
それができれば、それさえできるのならば、私にとってこの世はバラ色。
街で流行っている曲なのだろうか。どこか聞き覚えのあるメロディーに美鈴は耳を澄ませた。
ルクリュ子爵夫人と出かけたパリスイの中心街でも、辻音楽師がこの曲を演奏しているのを確かに何度か耳にしたように思う。
バラ色の人生……
今までの自分の人生とはなんと大きな隔たりがあることだろう。
再びため息をついてしまいそうになった美鈴だったが、ジャネットをこれ以上心配させないよう、彼女を振り返って美鈴は精一杯の笑顔をみせた。
同日、夕刻……
夏の期間、日暮れの遅いこの国では、夜9時頃になってやっと、ゆっくりと陽が暮れかける。
貴族たちの夜会が始まるのはほとんどの場合が日没後、太陽が沈みきり、夜空に星が瞬く時間帯になってからのことだ。
つい先日、リオネルがドレスの最終調整にやってきた時には、分厚いカーテンに隠れるようにして、彼が前庭を歩いてくるのを恐々と見ていた美鈴だった。
しかし今日の彼女は、夜会用の煌びやかな燕尾服に身を包み、何かの箱を小脇に挟んで、いかにも愉し気に前庭を歩いてくるリオネルを、同じ窓辺に立ってじっと見つめていた。
室内から漏れる灯りで、当然、リオネルには美鈴の姿がはっきりと見えている。
リオネルは美鈴の視線に気づくと、優雅な動作でシルクハットを脱ぎ、うやうやしく窓辺の美鈴に会釈してみせる。
彼が屋敷の中に消えてからしばらくして、いつものように規則正しくリズミカルな足音が廊下から聞こえてきた。
美鈴の部屋の扉がノックされると、扉の脇に控えていたジャネットがリオネルを部屋に招き入れる。
「……こんばんは、ミレイ嬢。いつにもまして美しい君のため、神は今宵、美しい星空を我らにお与えになった……! そう、思わないか?ジャネット」
いかにも彼らしい詩人のような大仰な賛辞も、ジャネットにとっては慣れたものだった。
「わたくしも、そう思います。今日のお嬢様は一段と輝いておられますわ」
リオネルはジャネットの返答に満足そうに頷くと、ゆっくりした歩調で窓辺の美鈴に近づいた。
「リオネル……ありがとう、ございます。先日は……アルノー伯のことも、いただいた新しい靴も……」
いつもの冷淡な態度ではなく、リオネルの瞳を見つめながらたどたどしく礼を言う美鈴を、リオネルは口の端に笑みを湛え、眩しいものを見るように目を細めて見つめ返している。
室内灯の揺らめくオレンジ色の温かな光が、見つめあう二人の姿を柔らかく照らし出している。
「お嬢様のお支度は、すべて済ませております。あとは……リオネル様、よろしくお願いいたします」
「失礼いたします」そう言って軽く会釈してから美鈴に軽く微笑んでみせるとジャネットはさっと踵を返して次の間に下がってしまった。
ドアの閉まる音を聞いて数秒後、窓辺の美鈴に向かってリオネルが二歩、三歩と、彼にしては少し遠慮がちに近づいた。
ゆっくりと差し出されたリオネルの手に美鈴が手を重ねると、リオネルはややほっとしたような表情をみせた。
「ミレイ、……ジャネットが気を利かせてくれたらしい。舞踏会の支度の最後の仕上げは俺にさせてくれないか?」
真っすぐに美鈴の瞳を見据えながら、リオネルは美鈴に尋ねた。
「え……ええ、でも、仕上げって……?」
既に髪を結い上げ、オールドローズの夜会服やネックレスはもちろん、白い手袋を身に着けた美鈴は、リオネルの言う「仕上げ」が一体何なのか、皆目見当もつかなかった。
「そうだな……、君は、化粧台の前に座って、目を閉じていてくれるだけでいい。後は全て俺に任せてくれ」
……化粧台の前に座って、目を閉じる……
リオネルの企みの意図が全く読めず、躊躇しながらも美鈴はコクリと頷くと、リオネルの言うまま、鏡のついた化粧台の前の椅子に腰かけて目を瞑った。
コトン、と化粧台に何か軽いものが置かれる音と、サラサラと、木々の葉が風にあおられて舞うような音がかすかに聞こえてくる。
「少し、髪に触れるぞ……そのまま、動かないで」
美鈴の頭のすぐ後ろに、リオネルの息遣いと先ほどと同じく木々の梢が触れ合うような音が聞こえてくる、と同時に、そっとリオネルの大きな手が美鈴の髪に触れた。
その瞬間、美鈴の心臓が跳ね上がり、鼓動がだんだんと早くなっていく。
すぐ後ろに立つリオネルに、もしかしたら勘づかれてしまうかもしれないと心配になるほど、髪に触れられるたび、美鈴の鼓動は早く激しくなっていく。
……一体、何をしているの……?
早く時が過ぎてくれるよう念じながら、美鈴はリオネルのいう「仕上げ」が終わるのを、今か今かと待ち続けた。
繊細な手つきで美鈴の髪に触れていたリオネルの手がやっと離れた、と同時に、美鈴の耳元にリオネルの息がかかる。
「これで、今夜の衣装は完成だ。……ミレイ、目を開けてくれ」
そっと目を開いた美鈴は、思わず化粧台の鏡の中の自分の姿をまじまじと見つめてしまった。
さきほどジャネットが香油をなじませて丁寧に結い上げた艶やかな髪が、今夜の夜会服の色に合わせた、花の中央が濃いローズピンクに染まった瑞々しいバラを中心に可憐な白い小花を散らした髪飾りで彩られていた。
リオネルはその仕上がりに満足そうに胸を張ると、美鈴に手鏡を差し出した。
リオネルの指示にしたがって鏡台に背を向けて手鏡の中をみると、後髪も同じように美しい生花で飾られているのがわかる。
「リオネル……わたし……何ていったらいいか……」
驚きと、感動でほとんど言葉を失いかけている美鈴に得意げに微笑みかけると、リオネルは美鈴の手からそっと手鏡を取り上げ、鏡台の上に戻すと、彼女の手を大きな両手で包み込んだ。
「……何も、言わなくていい。俺が好きでやっていることだからな。それに」
美鈴の手を包んでいた左手を離し、上半身を折って美鈴の手の甲に軽くキスを落としながら、リオネルは言った。
「前にも言っただろう……? 君は、間違いなく社交界の華になれる。君をエスコートできる、俺は、パリスイ一の果報者だと思っている」
ルクリュ家の車寄せには既に夜会に向かうための箱馬車が待機している。
一生に一度のデビュタント、美鈴にとって初めての舞踏会の夜は、今、まさに始まろうとしていた。




