10 舞踏会の朝
その日、窓辺にやってきた早起き鳥の軽やかな鳴き声で美鈴は目を覚ました。
早朝、日が昇ったばかりのこの時間帯は、社交界の習いで夜型の生活を余儀なくされる貴族社会に暮らす者にとってはまだ起き出すには早すぎる。
カーテンの隙間から外を覗いてみると、頬白の雀ほどの大きさで翼と頭の色が青く腹の色が若草色の小鳥が、美鈴の部屋の窓枠にチョコンと止まってせわし気に首を動かしている。
……綺麗な鳥……色は全然違うけれど、雀みたい。自然が豊かな場所なら、日本にもこんな鳥がいるのかしら。
小鳥を驚かさないよう、慎重に、そっとカーテンを引いた美鈴の動作を敏感に察知して、青い小鳥は窓から飛び去ってしまった。
小鳥が飛び去った空を見上げると、白から青へ淡いグラデーションを描いた、水彩画を思わせる透明な夏空が広がっていた。
窓を開けて早朝の涼やかな空気を部屋に入れ、刻々と変化していく空の色を眺めながら胸いっぱいに新鮮な空気を吸った後、美鈴は窓辺を離れてベッドの上に腰掛けた。
吹き込む風を受けてフワリフワリと窓辺で舞い踊るレースのカーテンを無心に眺めていると、この世界にやって来てから、貴族令嬢として過ごした2か月間の出来事が次々と思い起されてくる。
この世界に来たばかりの頃は、朝目覚めるたびに自分がまだ夢の中にいるのではないかと疑った――「この世界」の方が、夢なのではないかと。
しかし、何度朝を迎えても覚めることのない夢……今の彼女にとってこの世界がまぎれもない「現実」であることを悟ってからは、とにかくこの世界について夢中で調べ、令嬢としての礼儀作法を学んだ。
……たった一人 異世界に迷いこんでしまった、その心細さをどうにかして紛らわしたかったのかもしれない。
そんな風に内心無我夢中で過ごした日々ではあったけれど、美鈴にとって貴族令嬢としての日常は、元いた世界……東京の目まぐるしい社会人生活とは較べものにならないほど、静かで穏やかな生活だった。
美鈴がこれまでこの世界で絶望に打ちひしがれることなく生きてこられたのは、ひとえに、見ず知らずの美鈴に居場所を与え、実の娘のように何くれと無く世話をしてくれたルクリュ子爵夫妻の慈愛の心があったればこそだった。
心細さから固く閉じていた美鈴の心は徐々に開いていき、ついには彼らの勧めるままにルクリュ子爵家の「養女」として、今夜フォンテーヌ侯爵夫人邸で行われる舞踏会で公式に社交界デビューをすることを承諾した。
元の世界に戻ること、東京で自分が築いてきたキャリアを、まだ完全に諦めきることができない美鈴ではあったが、この世界で生きていくため、そして何よりもルクリュ子爵夫妻のためにも、社交界にデビューし結婚相手となる男性を見つけなければならない。
美鈴のこれまでの人生――東京で過ごした日々は、ひたすら自分の居場所を見つけ、確保するための戦いの日々だった。
学生時代は同級生が恋話に花を咲かせているのに見向きもせず、難関大学合格を目指して良い成績をとるためひたすら努力を重ねた。
卒業後は、大手外資系企業に入社し、そこでも「ずっと必要とされる」社員でい続けるため、働きながらも常に持てるスキルをアップデートし続けてきた。
……絵にかいたような、キャリア志向、恋愛経験皆無の自分が、いまさら「婚活」なんて……。
この世界に来るまで、男性に手を握られたことすらなかった……そんな自分が、果たして結婚などできるのだろうか……。
俯いて膝の上に置いた両手をじっと見つめてから、美鈴はぎゅっと両の拳を握りしめた。
……今夜、舞踏会に参加するのは、自分の意志で決めたこと。もう、後に退くことはできない。
美鈴は顔を上げると、立ち上がってもう一度窓辺から朝の空を見上げた。
青い空の端、見事なグラデーションを構成している一部の色に、ふと既視感を覚えて美鈴は首を傾げた。
ほんのわずかにグレーがかった、どこまでも透明なブルー……アイスブルーの空の色を見て、美鈴はすぐにあの瞳……フェリクス・ド・アルノーの美しい瞳を思い出した。
あの日、偶然に森で出会い助けられた後、美鈴がルクリュ子爵夫人にごく簡略に事の次第を説明して彼について尋ねた時、「アルノー」という家名を聞いた夫人は驚きのあまり口許を手で押さえたまま、目を丸くしてしばし沈黙していた。
アルノー伯爵家は古い歴史をもつ名門貴族としてフランツ王国 パリスイで知らぬ者はいないほど有名な一族だった。
さらに、フェリクスの父は若い頃から勤勉で頭脳明晰な人物として知られており、様々な新興産業が勃興しているフランツ王国で今後発展が見込まれる事業を天性の勘で見定め、自動車や重工業への投資で莫大な利益を得えているのだという。
森へ行った翌日、ルクリュ子爵と当事者でもあるリオネルが、早速御礼の品をもってアルノー邸を訪ねて行ったのだが、フェリクスは「当然のことをしたまで」と笑って御礼の品を丁重に断ったと聞いている。
夫人からアルノー家について概要を得た美鈴だったが、森で出会ってから別邸で手当をしてもらった時のフェリクスのあの振る舞い……。
彼が本物の紳士であることを確信している美鈴だったが、名門貴族の一員である彼が「伯爵」と呼ばれることを嫌がり、自らの身分に全く無頓着な態度を見せたことに対する不可解な印象は拭い難いものがあった。
……今夜、あの人も、舞踏会に参加するはず、でも……。
自らこの間の礼を言いたくても、由緒正しい伯爵家の地位に加えて華やかな美貌に恵まれた煌びやかな若者が、社交界の中心人物であることは間違いないだろう。
きっと、舞踏会では大勢の令嬢に取り囲まれるであろう彼に、近寄ることさえできないのではないか……。
そんなことを考えながら、美鈴は今夜の舞踏会に備えて、もうひと眠りするためにベッドに横になったが、一度朝日を浴び、完全に覚醒してしまった後、再び寝付くのは容易でなかった。
何度も寝返りをうって、ようやくウトウトとしかけた頃、ふと、あの日のリオネルの顔が頭に浮かんできた。
馬車で森から帰った後、美鈴を抱いて屋敷の中を早足でズカズカと進んだ彼は、この部屋――美鈴の寝室までやってくると、初めて彼女に出会った時と全く同じように、丁寧にゆっくりと彼女をベッドの上に降ろした。
「……足を、見せてもらえないか?」
美鈴の前に跪いたリオネルは、顔を伏せたまま、彼には珍しく遠慮がちな様子でそう呟いた。
「 君は、伯爵が手当をしたと言ったが、3日後の舞踏会のこともある。……靴を変える必要があるかもしれない。確認させてくれ」
伏せた顔を上げて、懇願するような目で自分を見つめるリオネルに、美鈴は黙って頷いた。
そもそも、舞踏会の衣装の一式は、彼が見立ててくれたものだ。
何とはなしに、彼には逆らえないような気がして美鈴はそっと靴を脱ぐと、おずおずと膝を伸ばし、彼の前に素足を晒した。
リオネルは、小鳥を掌に乗せるように、優しく彼女の足を彼の大きな手で受け止めると、まだところどころ赤みが残る色白の小さな足を丹念に確認した。
真剣な表情のリオネルに声をかけることもできず、美鈴は彼から顔を逸らして、緊張から身体をこわばらせたままその時間を耐えようとした。
「……緊張しているな」
美鈴のぎこちない動きを敏感に感じ取ったリオネルが美鈴の顔を見上げて言った。
「そ、それは、……当たり前でしょう、男性に、素足を見せるなんて……」
そう切り返した美鈴だったが、その答えに『意外だ』といわんばかりに片眉を吊り上げて驚きを示したリオネルは、わざと意地悪な表情を作って口の端を上げた。
「アルノー伯爵……フェリクスはどうなんだ? 彼は、別邸では人払いをして召使いを置かないと聞いている、……変わり者だという噂だ」
視線を美鈴のもう片方の足に移しながらリオネルはボソリと呟いた。
「……それは……しかたがないじゃない、伯爵は、親切で気さくな方で、それで……」
リオネルに対して、なぜこんな弁解をしているのか。
自分でもよくわからないまま、美鈴は必死にあの時の状況を説明しようとしたが、リオネルは拗ねた子供のような表情で、無言のまま美鈴の片足を下ろし、もう片方の足を手に乗せた。
その瞬間、遅くなった美鈴の帰りを今か今かと待っていたルクリュ子爵夫人が美鈴の部屋をノックした。
「……おっと、残念ながら「時間切れ」のようだな」
ドアを横目で見やってから、リオネルは美鈴にニヤリと笑ってみせると、丁寧に彼女の足を下した。
そのまま、さっと立ち上がり、ドアに向かって大股で歩いていくと優雅な動作でドアを開けて夫人を美鈴の部屋に招き入れる。
「ああ、よかったこと! 帰りが遅いので心配していたのですよ」
美鈴の顔を見て安心した夫人は、安堵の表情を浮かべながら、しずしずと部屋の中に入ってきた。
「リオネルがついているのだから、きっと大丈夫だと思ってはいたけれど……」
チラとリオネルに視線を送った後、夫人は心配そうに美鈴の顔を覗き込んだ。
「叔母上、ミレイ嬢はこの通りお連れしましたが、足に少々靴擦れが……」
心底すまなさそうな表情で、リオネルはルクリュ夫人に軽く頭を垂れた。
「まあ! それはいけないわ。すぐに手当をしなければ……。リオネル、今日は本当にご苦労様でした」
やんわりとリオネルに退出を促し、ルクリュ夫人は急いで美鈴付きの侍女を部屋に呼んだ。
「いえ、とんでもない……。では、ミレイ嬢、また、近いうちに!」
扉を閉める瞬間リオネルは美鈴にだけ分かるようにヘーゼルグリーンの瞳を細めた後、そっと片目をつむって軽く手を上げた。
朝の爽やかな空気の中でまどろみつつ、その瞬間のリオネルの顔をふと思い浮かべた後、美鈴は再び心地よい眠りの世界に引き込まれていった。




