09 再会と抱擁
「お久しぶりです、アリアンヌ嬢」
馬車を停め車を降りようとしたフェリクスを、アリアンヌは片手を優雅に上げて制した。
「いいのよ、そのままで。久しぶりに貴方の顔が見られて嬉しいわ。……素敵な方とご一緒なのね?」
「この方は、ルクリュ子爵家のミレイ嬢です。森で偶々お会いして……彼女のお連れの方を探しているところなのですが」
アリアンヌは小首を傾げて興味深そうに美鈴を上から下まで眺めた後、花のような笑顔で美鈴に微笑みかけた。
「わたくしは、アリアンヌ・ド・ヴィリエ……お会いできて嬉しいわ。……白百合のように可憐な方ね」
アリアンヌは軽く会釈してから、よく通る澄んだ声で自ら名乗った。
「ヴィリエ公爵令嬢……もったいないお言葉を頂いて……わたくしの方こそ、お会いできて光栄です」
ヴィリエ、という家名には聞き覚えがあった。3日後の舞踏会を主催者する侯爵夫人の親戚筋にあたる公爵家であり、パリスイの貴族階級でも最上流の家系だ。
深く頭をさげながら、美鈴はアリアンヌに答えた。
「ルクリュ子爵家のご令嬢なら、「お連れの方」というのは、きっとリオネルね。先ほど、この先で会って少しお話ししたのよ。……フフっ」
可笑しくて堪らないという様子で笑いながら、アリアンヌは続けた。
「……普段は自信タップリのあのリオネルがねぇ、……あんなに慌てて……まるで鬼のような形相で貴女を探していてよ」
「リオネルが……? そんな……!」
アリアンヌの言葉に美鈴の心臓がドクンと跳ね上がる。
……リオネル……ごめんなさい……!
心の中で叫びながら、美鈴は俯き、ほとんど無意識に早鐘のように打つ胸にそっと手を当てた。
「アリアンヌ嬢」
美鈴のただならぬ様子を察したフェリクスが、アリアンヌに呼びかけ彼女の視線を捉えた。
「そういう事情ならば、私は急ぎ、ミレイ嬢を彼の元へお送りしなければなりません……これにて、失礼いたします」
そう言って公爵令嬢に頭を下げるフェリクスに、アリアンヌは先ほどと変わらぬ花のような笑顔のまま、それでいて彼の瞳をじっと見据えながら答えた。
「そうね。……貴方とは、3日後の舞踏会でまた、お会いできることですし」
「……では、また後日」
そう言い残して、フェリクスは馬首を巡らせると、さきほどアリアンヌが指し示した方角……美鈴とリオネルが下りた馬車道とはちょうど真反対にあたる通りに向けて馬を走らせた。
森を斜めに走るその馬車道を進むこと数分、人気のない並木道に見覚えのある馬車と、そのすぐ傍に佇むダークグレーのテールコートを着た背の高い男の姿が見えてきた。
「リオネルーーッ!!」
自分でも驚くほど大きな声で、美鈴は馬車の上からリオネルに向かって声の限りに叫んだ。
「……ミレイ……!?」
探し続けた美鈴が突然現れた驚きに目を瞠ったリオネルだったが、水たまりで足や衣服が濡れるのも構わず、フェリクスの馬車に向かって全力疾走で並木道を駆けて来る。
一方、駆け寄ってくるリオネルの姿を認めたフェリクスは、見事な手綱さばきで馬を制してスピードを緩め、リオネルの数メートル手前で、馬車を完全に停止させた。
息をきらせて馬車に駆け寄ったリオネルは、心底安心したという表情でホーッと息を漏らすと、うっすらと瞳に涙を浮かべた美鈴の顔を見て、彼女に優しく微笑みかけた。
「無事で……よかった」
ポツリとそう漏らすと、リオネルは直ぐに馬車の上のフェリクスに対して帽子を取り、深く頭を垂れた。
「アルノー伯爵……この度は私の身内が大変なご迷惑をおかけしたようで……ミレイを私の元に送り届けてくださり、誠にありがとうございます」
頭を上げたリオネルの視線は、ひたとフェリクスの瞳に据えられており、それは美鈴がかつて見たことのない真剣な、強い眼差しだった。
「いえ、森の中で偶然行き会って。私は大したことはしておりません。それよりも……」
フェリクスは横にいる美鈴に顔を向けた。
「よかった。お連れの方と引き合わせることができて」
穏やかな声でそう言うと、ふっと美しい目を細めてフェリクスは美鈴に微笑んだ。
「アルノー伯……いえ、フェリクス様、本当にありがとうございました……」
美鈴がフェリクスに改めて礼を述べている間に、リオネルは美鈴の席に回り込んでそっと彼女の片手をとった。
そのまま、美鈴が馬車から降りるのを助け、馬車の上のフェリクスにもう一度礼をする。
「……では、ミレイ嬢、バイエ殿、私はこれで」
軽く会釈をしてそう言い残すと、フェリクスは馬車を駆ってあっさりとその場を去ってしまった。
それはあまりにもあっけない別れだったが、どこか飄々としたフェリクスらしいと思いながら彼を見送っていた美鈴は、すぐ横で自分をじっと見つめるリオネルの視線に気づいて急いで彼に向き直った。
「リオネル……! わたし……。し、心配かけて……本当に……ごめんなさい」
つい、元いた世界の習慣でリオネルに向かって深く頭を下げて美鈴は謝罪した。
その瞬間……逞しい腕が美鈴の背中に回され、あっという間に美鈴はリオネルの胸に抱き寄せられた。
「……俺の方こそ、悪かった。ミレイ……君を一人で行かせるんじゃなかった……俺がもっと早く、君の後を追っていれば……」
悔恨の情を込めて呟いたリオネルには、いつものふざけたような態度は欠片も見られず、美鈴が無事に彼の元に戻ったことに心の底から安堵しているようだった。
ことの成り行きを唖然として眺めていたバイエ家の御者が我に返って慌てて二人の元にやってくるまで、永遠に続くかのようなリオネルの抱擁に美鈴はただ身を任せていた。
馬車がやって来たところで、リオネルは御者に馬車を転回させ、美鈴が座席に座るのを助けた。
美鈴の世界でいうところの北半球の高緯度の地域に位置するフランツ王国の夏は、日の出は早く、暮れるのは遅い。
いつの間にか止んでしまった、お天気雨を降らせた雲がまばらに上空に残っており、その雲の隙間からは晴れ間がのぞいている。
雨上がりのスッキリとした空気の中、馬車はルクリュ子爵邸へ向かい走り出した。
いつも饒舌な彼には珍しく何かを考える風に黙り込んでいるリオネルを、美鈴は横からそっと見つめていた。
ガラガラと車輪が石畳の上で回転する音が、やけに大きく感じられる。
ふと、美鈴の視線に気づいて、リオネルが美鈴の方に顔を向けた。
次の瞬間彼が美鈴に見せた笑顔は、いつもの彼らしい人好きのする、やんちゃ坊主のようなそれだった。
「……それにしてもよかった。君が出会ったのが「狼」じゃなく、「子羊」で」
「フェリクス……いえ、アルノー伯爵が、「子羊」? どういう意味なの?」
リオネルの意図をはかりかねて、美鈴は尋ねた。
「いや、隣国の童話にこんな話がある。深い森に分け入ってしまった純粋で美しい少女が悪知恵の働く狼に騙されて食べられてしまう……そんな筋書きだったかな」
狼、と聞いて美鈴の頭に先ず浮かんだのは、あの不気味な黒髪の青年の顔だった。
あの青年に比べたら、フェリクスの態度、物腰は「本物の紳士」という以外に表現しようがないと美鈴は思う。
「子羊……という表現があっているのかわからないけれど、アルノー伯爵は紳士だったわ」
「フフ、そうだな……フェリクス・ド・アルノーならそうに違いない」
恐らく直接的な付き合いはないものの、社交界を通じてフェリクスについていくらかの情報を得ているらしいリオネルは、美鈴の言葉に素直に頷いた。
馬車がルクリュ子爵邸に到着し、御者が車寄せまで馬車で乗り入れると、リオネルは颯爽と馬車を降り、美鈴の側に向かって歩いてきた。
てっきり、馬車を降りるのを手伝ってくれるものと思った美鈴が差し出した手を、リオネルはとらなかった。
その代わりに、座席に座ったままの美鈴に覆いかぶさるようにして距離を詰め、至近距離で彼女の顔を見てニンマリと笑っている。
「……? きゃあっ!!」
「失礼!」
そう言ったと同時にリオネルは、美鈴のひざ下に手を入れ、肩を支えて、軽々と彼女を抱え上げた。
「ちょっと……どうして……!?」
慌てた美鈴がリオネルに食って掛かると、彼は抱き上げた美鈴の顔を覗き込んだ。
「足を、痛めているんだろう? 歩き方と靴の痛み具合ですぐ分かる……。さ、ここは俺に任せて、大人しくしていてくれ」
「そんな!……手当もしてもらったし、自分で歩けるわ。降ろして!」
頬を赤らめてそう訴えた美鈴にリオネルが意外な反応を見せた。
「なに? まさか、フェリクスが……?」
一瞬、眉を顰めて呟いたリオネルだったが、直ぐに美鈴に余裕しゃくしゃくの笑顔を向ける。
「それなら、なおさらだ! 俺も、君にいいところを見せたいんでね」
そう宣言すると、リオネルは美鈴の身体をより強く抱き寄せ、ルクリュ邸の玄関に向かって堂々と歩き出した。




