プロローグ: はじめてのイブニングドレス
一生働いて死ぬんだ、そう思っていた。
入社以来、仕事にはずっとやりがいを感じてきたし、給料だって悪くなかった。
人一倍スキルの向上に努力したかいもあって、マネージャーへの道も開きかけていたのに。
会社からずっと必要とされ続ける「有能な社員」として生きる。
……たぶん、恐らく、いや、十中八九「一生独り」で……
それが、有坂 美鈴の信じるところの「自らの存在意義」だった。ほんの数か月前までは。
やわらかな午後の光が差し込む窓辺に立って、美鈴は深くため息をついた。
日本の一般家庭ではおよそお目にかかることができない、少女漫画に出てくるような豪奢なドレープカーテンに半ば身を隠しながら、美鈴はそっと外の様子をうかがっていた。
その窓越しに、たった今門前に到着した「あの男」が、美鈴のいる屋敷に向かって前庭を歩いてくるのが見える。
ギリシャ神話の英雄のような長身に、広い肩、逞しい胸の男が、背筋を伸ばして颯爽と歩く姿は堂々たるものだった。
もし、年頃の娘が偶然、彼を見かけたなら ―― 若い娘に限らず、ダンディーに関しては海千山千のマダムでさえも、彼をチラリとでも振り返らない女はいないだろう。
美鈴は、もう一度深く、深く息を吐いた……気持ちを落ち着けるために。
俯くと、いやおうなしに自分の装いが目に入る。
デコルテを露わにしたイブニングドレス!
美鈴のような現代日本に生きる一般庶民にとっては、映画などで目にすることはあっても生涯着る機会などないであろうシロモノだ。
しかし、このドレスは美鈴にとって初めての……まさか自分が参加することになるとは想像すらしなかった、あるイベントのため特別にあつらえられたものだった。
「……」
美鈴はそっと窓辺から離れて、意を決したような表情で部屋に設えられている大きな姿見の前にソロリソロリと歩を進めた。
鏡の中、美鈴の髪は丁寧に結い上げられており、露わになった細い首からなめらかに続くデコルテは白く輝いている。
デコルテの下、オールドローズ色のドレスの胸元はこれでもかと寄せて上げられ、柔らかな膨らみが強調されている。
羞じらいに頬を染めて、美鈴はすぐに鏡に背を向けた。
日本にいた頃、美鈴は一分の隙もないカッチリとしたデザインの紺かグレーのダークカラースーツで通勤していた。
スーツに合わせるのは常に襟付きのシャツで、プライベートでも襟ぐりの開いたカットソーを着ることはめったになかった。
たった2か月前のことなのに、遥か昔に感じられる「以前の自分」を思い出しながら、美鈴は鏡の中の自分をうつろな目で見つめた。
「なぜ、こんなことになってしまったの……」消え入りそうな声でひとりごちる。
あの日、あの場所で、あんなことさえなれば……。
今、この瞬間だって、私は大都会のオフィスでごく普通の会社員として働いているはずだったのに。
「こちら」に来てからはいつも、あの瞬間のことを考える。
東京の、オリンピックに向けて改装中の駅。
雨に濡れた階段を踏み外したあの瞬間。
あの日、雨の昼過ぎ、出張中に緊急案件が入って美鈴はいらだっていた。
真冬の空には重い雲がかかっていて、朝から冷たい雨が降り続いていた。
トレンチコートを翻し、携帯でオフィスにいる同僚に指示を出しながら、駅の階段を足早に降りかけたその時。
――足を滑らせて……それから?
「それから」は全く憶えていない。
落ちていく瞬間が奇妙に長く感じられて、その間にさまざまな思考が頭の中に閃いた。
――よかった、私の前にも階段の下にも人はいなかったはず…。誰も巻き込むことはない……。
こんな形で人生が終わるなんて思ってもみなかったわ。何かやり残したことは……?
そうだ……!来週提出のセールスレポート集計結果、ドラフトを共有フォルダに置いておけばよかった!……そしたら。
……少しでも、部署のみんなに迷惑をかけずに逝けたかなぁ……?
それは、見事なまでに仕事のことしか考えていないアラサー女の最後だった。