プロローグ
どこかで思っていた。現実なんて壊れてしまえ、と。
僕は物語が好きだ。特に童話。短く、シンプルでユーモアのある文章の中に様々な教訓が込められている。多くは児童向けで、それらのほとんどは、児童向けに内容を優しく改編されたもの。原作の内容はもっとエグいものがほとんど。
さて、ここで問題がある。物語には、これを伝えたい、という何かしらの思いが無ければいけないと僕は思っている。そして僕には今、それが無い。
親は夢を追って職に就かなかった僕を勘当した。バイトを掛け持ちして生計をどうにか立て、空いた時間はひたすら童話を書く為の時間にあてている。そして行き詰まり、いつも散歩をする。そんな生活をもう半年も続けていた。
夏は過ぎ去り初秋の少しだけ冷たい風が吹き抜ける。木々が葉を徐々に染め始める並木道。道の真ん中、水面の様な雲を見上げる少女がいた。金髪碧眼。まるで絵本の中から飛び出して来たかのような姿。
少女は僕の存在に気付いたようで、横目で僕を見た。そして、少女は目を見開いた。広い湖畔の様な深い青の瞳はどこか寂しさを称えているように思える。
「ーーーーーー」
少女が口を動かした。何と言ったのかは分からない。今僕は、少女と見つめ合う形をとっている。横目で見つめる少女は何を思ったか、僕へ向かって駆け出した。
「え……え、ちょっと、何!?」
少女は両足で力強く踏み切ると、僕の肩に手を置いて僕を地に組み伏せた。
「ぐっ、ちょっと、いきなり何!」
「あー、いいから黙ってて。死にたくないでしょう?」
少女はそう短く告げた。死ぬ? 一体どういう事だろうか。少女が嘘を言っている様には思えない。けれど、少女を信じる理由も少な過ぎる。
「い、一旦退いて。状況を説明して、死ぬって何? というか君誰!?」
頭を横に向けて、背に乗る少女の顔を見る。少女もまた俺の顔を見た。人形の様にきめ細やかで白い肌。見蕩れ、少女の背後に見えた影に意識が向かうのに時間がかかってしまった。
「燻り狂う獣が二体。まだ大丈夫ね」
少女は僕の背から飛び退くと、四足歩行の影の獣の顎を蹴り上げた。
今、なんて? 燻り狂う獣と少女は言った。それはルイス・キャロルが書いた「鏡の国のアリス」という童話に登場する怪物の名だ。どうしてその名が少女の口から? そして今目の前にいるこの影は一体何なんだ。
少女は蹴り上げ軽く浮き上がった獣の懐に入り込み、肘打ちを食らわせた。ズン、と重く鈍い音が響く。力無くぐったりとしたと思うと、獣は風に溶けるように消えた。それを見ていたもう一体の獣。
「何、来ないの? そう、本体無しじゃ私に勝てないものね」
猿のようなシルエットの獣は唸ると、スーッと木の影に溶け消えた。
少女は振り向き、僕の目の前に歩み寄る。
「貴方、名前は?」
「僕は、有栖創」
「へぇ……奇遇ね。私もアリスよ」
少女の名前はアリス。そして、さっきの影の獣たちは燻り狂う獣と呼ばれていた。偶然で片付けていいものか。それよりも、現実味の無さ過ぎる事態に、頭がついていかない。さっきのは、本当に何なのだろうか。
街灯が点き始めた。空はいつの間にか、青から茜色、茜色から紫がかった色に変わっている。すると、アリスが誰かに電話をかけ始めた。もう僕は帰っても大丈夫だろうか。と歩き始めると、自分よりも背が小さく、恐らく年も小さいであろうアリスに首根っこを掴まれた。
「何処行こうとしてるのよ。一人で帰って生きていられると思ってるの?」
「え……それって、どういう」
「こういうことよ」
アリスが見据えた先に目を向ける。そこには、先程見た影の獣とは比べ物にならない「怪物」がいた。
「ごめんなさいね。私はまだ新人だから、あまり慣れていないの。もしかしたら、創、貴方は死んでしまうかもしれない。だから、ごめんなさい」
「え……どういうこ」
アリスは怪物に向かって駆け出した。
「……と」
傍目から見た怪物のシルエットは「人間」。でも、どうしようもなく、それが怪物に思えて仕方ない。常に何かを語りかけてくるのに彼等は何を言っているのか分からない。常に何かを主張しているのに何を言っているのか分からない。分からないから、怖いんだ。
アリスが怪物に殴り掛かる。けれど、影の身体にアリスの拳が当たることはなく、霧の様に霧散して散った。そして、僕の方へと歩み寄りながら、その形を再び取り戻す。
アリスは再び怪物に殴り掛かるが、同じ事。霧散して再度集結しては、僕の方へと歩み寄る。
「創、逃げて! 走って!」
「アリス、逃げてもそれはまた来るんでしょ?」
アリスは怪訝そうな顔をした。
「ええ、そうよ。そいつはまた来るわ。でもね、ここで死なれたら後味悪過ぎるのよ!」
一番怖いものが何なのか。誰しも一度は考えた事があると思う。答えは多分みんな出ているようで出ていない。出ていないようで出ている。きっと、一番大好きで一番大嫌いなものが、一番怖いんだ。
僕は、走っていた。歩く怪物の横を抜け、アリスを抱えて走る。伊達に毎日の様に散歩していない。とはいえ、流石に人ひとり抱えて走るのはキツい。
「ちょっ、私はいいのよ!?」
「僕が聞きたいことがいっぱいあるんだよっ! だから、……疲れたから降りて一緒に走ってっ!」
きょとん、と目を丸くしたアリス。直ぐに整った綺麗な顔に戻ったが、少し怒っているようだ。いや、怒らせてしまった? ようだ。
「……貴方って人が少しだけ分かった気がしたわ!! この貧弱!!」
宵闇の中、街灯と、カーテンの隙間から漏れる暖かな光と笑い声の中を駆ける。
念願叶って、僕の現実が壊れ始めた瞬間で、探しているものが少しと、欲しくもないような最悪が嫌になるくらい詰まった道の始まり。