意外な教師たち
アザリア・クラウディア。それが流れ着いた少女の名だった。
彼女は喋るのが苦手なのか、その名を聞き出すまでには随分と時間が掛かった。
身の上を聞き出すには、それ以上の時間が掛かったのだが。
彼女は解放奴隷の子であり、ここベルンハルト領から北部に位置している王室直轄地の山間部で細々と生活していたが、土地を管理している王室狩猟官に狩り出され、逃げる途中に両親と死別、一人で逃げる内に増水している川に流されたというのがここに辿り着いたあらましという訳だ。
奴隷制度というのは俺の住むローメニア王国では既に廃された制度ではあるが、解放奴隷は未だに厳しい立場に置かれている。
アザリアの様な子供の存在はそう珍しい事ではない。9歳という若さで、彼女はどこか達観していた。
本来であるならば、彼女は孤児院に送り出されるのだろう。だが、父も母もそれは選ばなかった。
彼女の方が俺とエレオノーラの良い遊び相手になると考えたのだろう。家で引取り、メイドとしての教育を施される事になった。
俺(言い忘れていたが、今現時点で俺は6歳。エレオノーラは2歳)よりも年上の少女がお目付け役として家にやってきたという訳だ。
今現在も、彼女は老境に近い屋敷のメイド長に徹底的に仕事を叩き込まれている。
中庭からも炊事場で先輩のメイドに付きっきりで指導を受けている様子が窓越しに伺う事が出来る。
しかし、そんなアザリアに見とれていた俺の手に、突如として痛打が与えられる。
「何をしているのですか、しっかりと振りなさい」
「は、はい」
「何事も基本から。形を正確に熟せるようになって初めて次の段階に進む事が出来るのです」
アザリアを見ていて、剣の指導を受けていたのを忘れていた。呆けていた様子がバレて、教官はお冠の様子だ。
その教官というのは、なんと母なのだが。
最初父から聞かされた時には何の冗談かと思った。前の人生においても知らなかった事実だ。確かに母はアウトドア派だったが、まさか剣技にまで精通しているとは。
しかし、細身の剣でいとも簡単に鉄の剣を切り落とす光景を見せられれば、その腕前を疑う訳にはいかない。
その指導の元、徹底的な基礎トレーニングに励んでいるという訳だ。
「明日までに基本の型を200回熟しておくように。午後からは魔法の先生がやって来ます。それまでに終わらせておくように」
「はい」
そう言い残すと、汗を拭いながら母は去っていく。
ため息を付きながら俺は剣を振るい続ける。剣の振るい方を知識として知っていても、体が動かなければ仕方がない。しっかりと筋力を付けなければ。
一休みした後にまた木剣を手に取り、素振りを行っていく。それが終わる頃には、丁度昼になっていた。
エレオノーラを連れ立って、アザリアが現れる。焼き立てのパンが入ったバスケットを手にしている。
「ウォルター様、昼食をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。丁度お腹が空いてた頃だったんだ」
そう言ってバスケットに手を入れようとした時、アザリアに腕を掴まれる。
何かと思って彼女を見たが、彼女はバスケットから濡れ布巾を取り出し、俺の手を拭き上げていく。
更に、懐から包帯を取り出して両手を手際よく巻き上げる。ここ数日の訓練ですっかりと豆だらけになった手を心配してくれたのだろう。
それが終わってから、ようやく昼食の時間だ。
俺達は中庭に備え付けられたベンチに座り、並んでパンを食べ始める。いつもと変わらない美味しさだ。俺の好物のスグリに似たベリーのマーマレードまで忘れずに付けてくれている。
そのベリーのマーマレードを指で舐め、その酸っぱさに渋い顔をしているエレオノーラを見てアザリアは笑う。
「屋敷には慣れた?」
「……はい。お仕事の方も、少しずつ覚えてきました」
そう言って、アザリアは弱々しく笑う。
「ところで」
「どうした?」
「先程、御当主様の書斎に随分と風変わりな方がお見えになっていました。あの方が魔法の先生でしょうか」
「なら、ちょっと見に行ってくるよ」
そう言って、俺は口の中にパンを無理やり押し込んで立ち上がる。どんな人から教わるのか、確かめないと。
父の書斎に近くでは、足音を殺しながらゆっくりと歩く。やましい訳ではない。こっそり伺いたいだけなのだ。
そっと扉を開けて中の様子を見る。確かに誰かが父と話し込んでいる。しかも、数人は居る様子だ。
もう少し中を覗き込もう。そう思って扉に力を入れたときだった。
突然、扉が勢い良く開き、こっそりと覗いていたはずの俺の姿は丸見えになってしまった。