一つの噂と一人の少女
翌朝。
この街でやる事は終えた俺は、気怠い気分でメルと食事を取っていた。
メイヤーが失われた以上、これ以上ベルンハルト領内に敵が入り込む事は無いだろう。
収穫祭まであと一月を切っているので、今から新たな責任者やらを選んで……という訳にはいかないだろう。
ただ、問題が一つ。ロアークが領内に潜んで間者達の指揮を取っているという話が本当だとしたら厄介だ。
見つけ出しても処断する訳にはいかない。殺したり傷つければ、外交問題になる恐れがある上に、捕まえて表に引きずり出せばのらりくらりの言い逃れるのは目に見えている。
「……っと」
やはり、収穫祭の日まで待つしか無いのか。
でも相手の出方を待つってのものなあ……
「ちょっと!」
「う、うん」
テーブルを叩く音と、メルの声に驚いて顔を上げると、そこにはすっかりとむくれて不機嫌な顔になったメルの赤ら顔が目に入る。
どうやら、俺は彼女の事を無視して考え込んでしまっていたようだ。
「さっきから、何ですの! 私の話以上に大切な事を考えていらっしゃる様ですけども!」
「ごめんごめん、少しぼーっとしてた」
「んもう! 今日の予定を話していたんですけれど、どこまで聞いていたんですの!」
「……えっと、これから郊外に行こうって辺りまでは」
「それを言ったのは、一番最初! 殆ど聞いていなかったんですのね!」
メルが怒るのも無理はない。その通りだ。
俺はただただ頭を下げて嵐が過ぎ去るのを待つしか無い。
と思っていたのだが、彼女の怒りは中断された。
珍しく彼女の使用人の一人が、俺達の元へと訪れて一礼してからメルに告げる。
「お嬢様、お客様が」
「朝食中ですのよ、後にして頂戴」
「それが、この街の市長様ですので」
昨日、散々な目に合っていたあの老人か。
メルとヴァリナとの間で板挟みになり、おろおろとしている気弱そうな老人の姿を思い浮かべる。
「……分かりました、通して下さい」
メルが答えると、使用人は再び一礼して立ち去っていく。市長を呼びに行ったのだろう。
彼女は口元をナプキンで拭いて身なりを整え、来客を待っている。
しかし、市長も運が無い。またもや不機嫌なメルを相手にするとは。
やがて、軽く着飾った程度の市長が姿を見せる。
「お早うございます、メルキュール様」
「食事中です。手短にお願い致しますわ」
「お厳しい所はお母様のリーベッカ様と変わり有りませんな」
母の名前が出た途端、メルの顔色が強張った。
まるで何かを恐れているかのような、悲しみに満ちた表情に。
「……それ以上下らない事を口になさるのなら、今すぐこの場を立ち去ってくださる?」
「も、申し訳ありません。私はただ、昨日の一件について釈明をと思いまして」
「釈明?」
「ええ、ええ! どうやらメルキュール様とヴァリナ様との間に何か行き違いがあったと聞きまして! 彼女の方から謝罪と歓待を行いたいとの旨を伝えるようにお願いされて来たのです」
またヴァリナか。今のメルとしては、一番聞きたくない名前の相手だったろう。
「申し訳ありませんが受けかねますわ。その様な用事でしたら彼女が直接尋ねてくるのが礼儀でしょう」
「そこをどうか! 私はただ言いつけられただけでして、そのう、あのう……」
深い深い溜息の後、渋々メルは受け入れた。
会食を昨日のレストランで取ることとなったが、彼女はある条件も付けた。
それは、俺も同席するという事。当然市長は難色を示したが、有無を言わさず受け入れさせた。
そして俺は今、郊外の滝にまでやってきて余計に不機嫌になった彼女の相手をしているという訳だ。
「いつまで膨れてるんだよ、メル」
「だって、またあの娘と顔を合わせなきゃならないんですのよ! 市長をボーイ扱いするような礼儀知らずの田舎娘と!」
「まあまあ」
この滝はこの辺りの名所の一つで、ゴツゴツとした岩山の切れ目から突如として現れた流れが、澄み渡った水をしている池に音を立てて流れ込んでいる。
まるで一枚の絵のような光景であり、マイナスイオンに満ちていそうな場所ではあったがメルには何の効果も無かったようだ。
メルは滝には目もくれず、靴やらを脱ぎ捨てて素足を晒しては足を池に突っ込む。
「ウォルター、来なさい」
俺も同じように靴を脱ぎ捨てて足を池の中に沈める。時期は冬に移り変わろうとしているので、まるで氷水のように冷たい。
だからこそ、肩を寄せてきたメルの体温が良く伝わる。
「先程の話、聞いていたでしょう? ……私がお母様の話をしたがらない、その理由と噂を知っているかしら」
「……うん」
「正直で宜しいですわね」
普段の強気な彼女からは想像も出来ない程に弱気な表情となっているメル。それをみた俺は、何も声を掛ける事が出来ない。
メルには一つの噂があった。彼女はリーベッカの実の娘でないという話だ。
その理由は髪の色と瞳の色。その二つがあまりにも彼女の母と、そして姉達とはかけ離れていた。
だから口さがない者たちは彼女はリーベッカの娘ではなくマルキオが別の女との間に産ませた子だと噂しているのだ。
当然、そんな事を言っているのが見つかれば碌な事にはならないのだが、人は噂好きな物だ。社交界に少しでも出入りしているのなら、嫌でも耳に入ってくる。
「あんな噂を信じる必要なんてありませんわ」
「信じるも何も、あんまり気にしていないよ」
「?」
俺の答えに目を丸くしているメル。何を言われているのかがあまり良く分かっていないようだ。
「メルはメルだろ? 親とか、家とかはあんまり関係無いと思うけど」
「私も、そのくらい単純な思考で生きていきたいですわ」
「小難しく頭を捻って、真面目に生きるばかりが人生じゃないから、僕はこれで良いんだ」
俺がそう答えると、彼女は勢いよく足を振り上げた。
水飛沫が俺に、そして彼女自身にも大量に降りかかる。
「うわっ! 何を!」
「変に大人びた事を言うからですわ。それっ、もう一回!」
そう言ってメルは笑う。いつも通りの強気で、小生意気な表情に戻りながら。




