初めての戦い
「ああ、お陰様で元気その物だよ」
「良かったわ。……まあ、スヴォエ家の医師団は優秀ですから、何も問題は無かったでしょうけど」
そう言いながら彼女は階段をゆっくりと降りる。動きづらそうなドレスだ。
そして、階段を降りきった彼女は指を鳴らす。すると、従者の女性が馬車の中から何やら大きな箱に入った物を持ち出してきた。金細工が施された折りたたみ式の化粧箱に似ているが、随分と巨大だ。
「随分と長いこと馬車に乗っていたから、疲れてしまったわ。お茶にしましょ。当家の交易先から特別な一品が届いたの。特別に貴方にも飲ませてあげるわ」
特別に、という所に強いアクセントを置く辺り、相変わらずのプライドの高さを表している。
俺は苦笑しながらも受け流した。
応接室に彼女を通すと、従者の女性達が化粧箱の中からソーサーやティーポットを始めとしたお茶の器具を並べていく。
茶葉を入れる缶、テーブルの上に被せられたクロス、湯を沸かす器具と思われるポット。
その全てにスヴォエ家の家紋が入っており、全て特注品である事が容易にわかる。彼女がどれだけ豪勢な暮らしをしているのかが伺える。
「水を持って来るよ」
「その必要はありませんわ」
そう言って、メルキュールはもう一度指を鳴らす。それに合わせて従者が仰々しく彼女に差し出したのは、透明なガラスの水差し。
一見すると空のように見えるが、蓋がされた中には何かが浮かんでいる。
「我が領地に湧き出す飲泉の水ですの。魔法を使って凝縮してありますのよ」
「へー」
そう言いながらポットの中へと水差しから水を注ぎ込んでいく。小さな水差しだというのに、何時までも無くなる気配はない。
ポットに水を注ぎ終わると、それを従者に渡した。従者が魔法を唱えると小さな煌めきがポットを覆う。それと同時にシュンシュンと水が沸騰する音が部屋の中へと響き渡る。
「あれから、また魔法の勉強を始めたんですの。この前の様な事を二度と起こさないように。それまでは魔法は封印ですわ」
「魔法は難しいからな。スヴォエさんなら、しっかり習得出来るって」
俺がそう言うと、メルキュールは顔を顰める。しまった、何かマズったか?
しかし、彼女はため息を一つ付くと、手を振りながら言う。
「そんな堅苦しい呼び方は止めて下さいな。メルで良いですわよ」
「いいのかい?」
「私の命を助けてくれた事を考えて特別に許すのですからね、ウォルター。この呼び方を許しているのはほんの僅かな親しい人物だけですの。光栄に思いなさいな」
そう言ってフフンと笑う。メル。まあ、彼女がそう呼べと言っているのだからそう呼ぶようにしよう。
俺たちがそんな会話をしていると、お湯が沸いた。
それに合わせてメルはお茶の入った缶を開ける。
中に入っていたのは俺が考えていたお茶とは異なっていた。だが、懐かしい色と形、そして匂いだ。
「希少な品ですのよ。ようやく手に入れたんですの」
「リョクチャ、だろう?」
「えっ。どうしてそれを……」
呆気に取られたような表情で俺を見る。
そう、リョクチャだ。この世界においても緑茶は存在している。茶葉、そして紅茶の類が存在するのだから当たり前の事ではあるのだが、元日本人としてはやはり嬉しい。
「東方においては、これを飲むためだけの作法が色々とあるんだってね」
「そ、そうなのですの。意外と博識ですのね、貴方」
驚いた様子で俺を見るメル。
少しやり過ぎたか? 確かこのリョクチャはこの世界においては相当な希少品だったはずだ。王家ですら自由には飲めないと聞いたことがある。
怪しまれても良くない。そう考えた俺は少し大げさに喜んで見せる。
「いやいや、本で見ただけなんだ。一度飲んでみたかったんだよね。ありがとう、メル!」
「フフ、喜んでくれて何よりですわ」
そして俺たちは暫くお茶を楽しんだ後、散策に出かける事になった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数十分程豪勢な馬車に揺られて辿り着いたのは、街道沿いの森から少し入った箇所に存在している泉だ。
滾々と湧き出る水場の周りには、少し地味だが色とりどりの花々が咲き誇っている。
俺のお気に入りの場所でもあり、当家のピクニックスポットでもある。
そこへやって来た俺達は、メルの従者達を馬車で待たせて二人で遊んでいるという訳だ。
「随分と、辺鄙な場所ですわね。もう少し楽しい場所に連れてきてくれるのかと思いましたわ」
「……」
メルは口では小馬鹿にしているが、水場で楽しげに遊んでいる辺りはやはり子供だ。
クスクスと笑いながら楽しげに俺に水を掛けてくる。
「お前!」
「ぼーっとしているのが悪いんですのよ!」
俺も水を掛けてやろうと手に澄んだ水を汲み取ったその時だった。
何かが動く音が遠くから聞こえる。
そちらの方に目をやると、何者かの視線を感じた。
寒気がした。明らかに敵意の篭った視線だったからだ。
「誰ですの? ……ああ、もしかして、私の様子を見に来た従者達ですのね」
不満げな顔をしながら、物音のした方向へとメルは駆けていく。
止めようとしたが、時既に遅い。俺の制止を聞き止める事無く彼女は物音がした方へと駆けている。
嫌な予感がした。本当に従者なら、あんな風に俺たちを見るか?
「メル!」
彼女を追って俺も駆け出す。すぐに彼女の悲鳴が聞こえた。
全速力で駆け寄ると、怯える彼女の視線の先には一頭の獣が居た。
俺はメルを庇うように前に立つ。
「な、なんですの、これ!」
「落ち着け、興奮すると襲ってくるぞ!」
ワイルドボアだ。その中でも少し小柄な部類……ではあるが、今の俺にとっては十分過ぎる程に巨大だ。
しかも恐らく手負いなのだろう。脇腹の辺りが赤く染まり、足元が覚束ない。
だが、この獣の目つきは、明らかに俺たちに対して敵意を向けている。
幸いにも、今の俺は腰に短剣を下げている。
だがこの手の獣を相手にするには少し貧弱過ぎる。
「逃げろ、メル」
「え、あ……」
三十六計逃げるに如かず、という言葉を思い出した俺はメルに告げた。
しかし、メルの足は震えたまま動かない。
そうこうしている内に、ワイルドボアはよろけながらも俺たちに向けて突進を始めた。
世界が止まったようにゆっくりと見える。
鼻息荒く、黄色い牙を剥き出しにしながら俺たち目掛けて突っ込んでくるワイルドボア。
俺の裾を離そうとしないメルが、目を瞑る。
深呼吸を一つして、俺は覚悟を決めた。
飛びかかってきたワイルドボアの額に向け、迷うことなく短剣を振り下ろす。
結果を確かめる事無く、俺はメルを片手で抱き抱えながら倒れ込む。
激突音と共に、森の中の鳥たちが一斉に羽ばたく音が聞こえた。
「メル、大丈夫か?」
「ええ、ええ、大丈夫。私は大丈夫、ですわ」
恐怖からか、嗚咽と共に涙を流し続けるメル。
視線をワイルドボアの走り去った後に向けると、木にぶつかったまま動かなくなっている獣の姿があった。
なんとか仕留める事が出来たという事だ。




