剣技と風呂と令嬢の出迎えと
「そこまで!」
中庭に母の凛々しい声が響く。
俺の目の前には、唖然とした様子の使用人の一人が立っている。手にしていた木剣は叩き落され、喉元には俺の持つ木剣が突きつけられている。
「勝者、ウォルター!」
「ありがとうございました」
「え、ええ、坊っちゃん」
四十ほどとは言えこの使用人は元軍人。本来であれば俺のような子供が勝てる相手ではない。実際、俺に対しても力強い打ち込みを行ってきた。
だが、相手が俺だ。運がなかったと思ってもらうしか無い。
しかし、使用人はすっかりと自身を喪失した様子で項垂れている。無理もない。こんな子供に負けたのだから。
「ウォルター、また勝ったのか! 凄いじゃないか! まだ六歳だと言うのに、この屋敷の中で勝てる人が誰一人として居ないとは!」
「私が勝てます。私から見れば、まだまだです」
大喜びする父と、その父にムキになって反論する母。相変わらず仲が良い。
そんな二人を見ながら、俺はアザリアが差し出したタオルで顔を拭く。
「お疲れ様です」
「ありがとう、アザリア」
アザリアは俺の手を取り、バンデージを巻いていく。知らない間にまた豆が増えていたようだ。
「せっかくお綺麗な手ですのに」
アザリアはため息を付きながら俺の手を眺めると、最後にバンデージを強く締め付けた。
「後ほど、あのスヴォエ家のお嬢様がいらっしゃいます。それまでに入浴する事をおすすめします」
「ああ、そうだったな」
そう、今日はあのメルキュールがまた屋敷にやって来る日だ。見舞いという名目ではあるものの、実質は遊びに来たのだろう。
父とスヴォエ氏との関係を事を考えれば、無下にする訳にも行かない。
それに、先日からあの娘は妙な態度を取っている。それも気になっていた。もしや気に入られたのか?
「……まさか、なあ」
確かにあの大事故で彼女を庇った。気に入られる要素はある。
だが、前世でのメルキュールのあの傲慢かつ尊大な態度を記憶している身からすると、どうにもしっくり来ない。
「会ってみなけりゃ分からないか」
取り敢えずは出迎える準備をしなければならない。俺は屋敷の一角に作られた小さな湯屋へと向かった。
途中、使用人に練習着を脱ぎ渡して半裸になる。こんな姿を見られたならば、母からはキツい説教を食らうことになるのでさっさと湯屋の中へと姿を消す。
「今日もいい具合だな」
石のアーチをくぐり、簡易な脱衣場で下着を脱いで扉を開き、浴室へと入った。
途端にもうもうと立ち込める真っ白な湯気で視界を奪われ、先が見通せるまでにしばらくの時間が掛かった。
神話に出てくる巨人を象った石像の持つ壺から滔々《とうとう》と浴槽へとお湯が流れ込んでいる。この湯気はそこから発せられているのだろう。
湯屋の背後に設置された魔石から発せられる熱によって作り上げられた湯が掛け流しとなっている。使われているのは井戸水を沸かした物であって、温泉ではないのが元日本人としては残念ではある。
掛け湯を行い、体の汚れを落とした後にそのまま湯船に浸かる。
少し熱めの湯が心地良い。前世では熱すぎて嫌だったが、今となっては一番落ち着く場所だ。
湯気の立ち込める天井を見つめながら、ぼーっとしていると何者かの気配がした。入り口の方からだ。
脱衣場から、物音が聞こえる。
嫌な予感がした。
「お背中を流しに参りました」
扉を開けて入ってきたのはアザリアだ。彼女はこんな所まで付いてくるのだ。断ろうと聞き入れやしない。
「良いって、自分で洗えるし」
「疲れていらっしゃるでしょう? 私が洗って差し上げます」
「疲れてないって。疲れてたらあのお嬢様とも会わないし」
「でしたら、余計に身だしなみにはお気をつけ下さい。私がお背中を」
勢い良く湯船から飛び出し、入り口へと向かう。彼女に捕まれば全身をブラシでゴシゴシと余すこと無く擦り上げられる事になるのだ。堪ったものではない。
しかし、今日は彼女の方が一枚上手だった。入り口の前に立ちはだかる彼女は下着姿。目のやりどころに困っている内に手を掴まれた。
一件無表情に見えるアザリアの口元に、一瞬笑みが浮かんだ気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ひどい目にあった。まだ体の節々が痛む。
メルキュールを庇った事故よりも辛い。拷問に近いだろう、アレは。
俺をそんな目に合わせた張本人は俺の後ろで顔色一つ変えること無く立っているし。
そうこうしている内に、屋敷の玄関の前に四頭立ての豪勢な馬車が止まる。この間スヴォエ氏が来た時に使っていた物と細部が異なる、というより色が異なっている。ピンク色だ。
それだけで誰が乗っているのかというのが一目でわかる。
御者の女性が馬車の扉を開け、折りたたみ式の階段を用意した所で初めて馬車の持ち主が姿を見せる。
メルキュールだ。以前に来た時より明らかに服装に気合が入っている。
あまりに細かすぎて目眩がしそうな程の刺繍が入ったドレスには所々に赤や青の石がくっついている。どう見ても宝石だ。
胸元には白金に輝く鎖で繋がれた黄金色の首飾りが輝いている。
メルキュールは扉の所で立ち止まり、一行に降り立とうとしない。
どうしたものかと思っていたらアザリアが俺の背を押した。そうだ、貴族的には彼女の手を取るのがマナーだ。
彼女の近くに足早に近寄りその小さな手を取る。遅れたことに叱責の一つも無いどころか、ウットリとした目つきで俺を見ている。
「やあ」
「お久しぶりね! 随分と体調は良くなったんじゃないの!? ま、私には関係ない事なのだけれども!」
相変わらず、怒っているのだか気遣っているのだかさっぱり分からない態度だ。




