儀式の痕跡
「さて、帰ろうか」
しんと静まり返った水辺を眺めながら、俺は言った。
しかし、キルシュはそれに答えようとしない。余韻に浸っているのか? と思ったが、どうにも違うようだ。
「ウォルター、さん。あれ」
「? どうした?」
「何かが、ありますね。滝の麓でしょうか」
俺以外の二人はなにかを見つけたようで、滝の麓へと歩いていく。
一体何を見つけたというのだ? と、それは俺にもすぐに理解できた。
「洞窟か。どうにも薄気味悪いな」
滝の水しぶきが掛かる程に近い所に、小さな洞窟が小さく口を開いていた。
いかにも怪しい場所だがキルシュは既に入る気満々のようで、その襟首をアザリアがどうにか抑えている所だ。
「……えっと、入るの?」
「入らないんですか?」
「……入るんだ」
嫌だなーとは思うが、すっかりと探検するつもりのキルシュを無理やり引きずってでも帰るのは可哀想だ。
まあ、少し位ならいいか。
「キルシュさまは一番最後です。ここは私が先に」
「次は俺だ。アザリア、ランプは?」
「ありませんが」
「使え」
ナップサックからランタンを取り出し、火を灯した後にアザリアに渡した。
ランプの中の小さな灯りが、薄暗く湿った洞窟の中を照らし出す。
足元から壁に掛けては苔がみっしりと生え広がり、まるで緑の絨毯が敷かれているようだ。
「滑るぞ、気をつけてな」
デコボコとした足元を慎重に確かめながら、一歩一歩進んでいく。
そう深くは無さそうではあるが、何が潜んでいるかは分からない。
「アザリア、何か居そうか?」
「……いえ、何も。ただ、少しばかり変な匂いが」
「変な匂い……?」
言われてみれば、彼女の言葉通り確かに奇妙な匂いがする。
その匂いの正体はすぐにわかった。
瘤のように少しばかり広がった部屋、洞窟の終端部にあったのは――大型の頭蓋骨を中心に、血で描かれた召喚陣、そして何かの死骸を捧げた跡が残る祭壇。
「古いな。昨日今日の物じゃない」
アザリアは召喚陣を一瞥すると、祭壇とそこに捧げられていた死骸を調べ始める。
「首筋を切り裂かれている鳥に、同じ様な手口で始末されているゴルトウルフ。この場で連れてきて殺した様ですね」
「問題は何をしようとしたか、だな」
悪魔崇拝者か、それとも別のカルトか、それとも異端の魔術師か。
容疑者はいくらでもいるが、俺が気になったのは召喚陣の構成だ。
オーソドックスな円では無く三角形で描かれており、その頂点は更に幾何学的模様の無数の三角、そして頭蓋骨によって覆い隠されている。
「シシィの御使いにしてハシトゥムの下僕。我は…… これ以上は読み取れないな」
血によって描かれた文字は既に掠れ、読み取る事はできない。
俺はキルシュに呼びかける。
「ここで何の儀式をしたのかとか、分かるか?」
「……召喚の儀式、ですね。でも、こんな陣は見たことが……いえ、これは……」
何かに気が付いたのか、キルシュが声を上げる。
「これは、呪術の一種です。正確には、魔術と融合してはいますが」
「という事は、これを組み立てたのはドルイドか?」
「それも、違うような。不器用な人が、不器用なりに、書き上げたというか……」
キルシュの話はイマイチ要領を得ない。
しかし、要約するとこういう事だ。
この召喚陣のベースは呪術だが、大まかな要素は魔術的構成によって書き上げられている。
しかし、その魔術的部分もどうにも覚束ない。きちんとした魔術師が作り上げた物では無いという事だ。
「なるほどね。誰がやったんだか」
「それでも、この召喚陣自体は、すごく手が込んでいます。どれだけ時間を掛けて、描いたのか想像が出来ない程に」
よほどの物を召喚しようとしたのだろう。
術者にはそれだけの力量があったのか、それともただの無謀か。
目的も分からないが、別に知る由も無いだろう。この祭壇の様子を見れば召喚者はとうの昔にこの場を去っているだろうから見つかる事もあるまい。
「さっさと帰るとしよう。もうここからは何も見つからないだろ」
「……ええ。あの祭壇にも生贄以外の物は見つかりませんでした。この洞窟の他の部分も。どこか別の場所への道がある訳では無いようです」
「なら余計長居は無用だな。さっさと帰るとしよう」
洞窟を後にし、再び地上に戻る。
月の光が差し込む静かな水辺に、不似合いな何かが蠢いていた。
「明かりを消せ、アザリア」
「……はい」
俺たちの目に入ったのは、ズタ袋のような何かを身に纏った小柄な人に似たシルエット。
それが先程まで俺たちが座っていた倒木の、火の痕をグルグルと回っている。
ずる、ずると何かを引きずるような音と、通った後に粘着質な液体を残しながらグルグルと回り続ける謎の物体。
布切れで頭から足まで覆ったその姿の下に、何が隠されているのか、知りたいとも思わないし知ろうとも思わない。
「逃げるぞ、気づかれないようにゆっくりと動け」
「逃げるのですか?」
「あんな気味の悪いのを真面目に相手にしてられるか。何が何だかわかりゃしないのに」
足音を立てないように、ゆっくりと、しかし着実に。奇妙な物体から決して視線を逸らさないようにして歩く。
敵の反応を伺いながら、もし何かあれば一目散に駆け出す事が出来るように――
「ひゃっ」
俺の横で音を立てながら、キルシュが転んだ。
その途端に化物が振り返り、こちらを向いた。気づかれた。
「アザリア! キルシュを!」
剣を抜きながら、俺は化物に向かって突進していく。
化物もまた、文字通り地面を滑るようにしてこちらへと向かってくる。
「でえええええええっっ!」
澄んだ水面の様な刃が、化物の胴体を撫で斬りにした。しかし、手応えはまったくない。
表面の布だけが切り裂かれ、内側の半透明に濁った水のような体が現れる。
内側に隠されていたのは、人の形を取ったスライムのような粘性の存在だった。
「ちっ! まるで水だな!」
すぐに切り裂いた断面同士が繋がり、元に戻ってしまう。どれだけ斬っても同じことだ。
化物は手を伸ばして俺に取り付こうとするが、俺はそれを薙ぎ払って絶対に近づかせさせない。
千日手と言ったところだろう。俺もコイツを倒せないが、コイツも俺を倒しようがない。
このままなら、どっちも打つ手はない。
「なら……」
それなら、とっておきを使うまでだ。
俺は深く息を吐いて、一旦距離を取る。
スライム人間は、機械的に俺との距離を詰めようと体を動かそうとする。
だが、動かない。動けないのだ。スライムの足元は流砂の様にさらさらと底のない砂と化して、彼を引きずり込んでいく。
今、俺の手の内にある魔法剣の澄んだ水面の様な刀身は消えていた。
そして現れていたのは、刃を作り上げる核となっている細長い棒の様な魔力を帯びた水晶。
その中に込められた魔術を、俺は一変に解き放つ。
「終わりだ。崩れろ」
彼の足元の砂が泡立つと同時に、爆ぜた。
爆発した砂は、敵を取り囲むように舞い散ると、一瞬の内に半径一メートル程の球体を作り上げ、その内側で無数のまばゆい光を放ち、そして何事も無かったかのように消え失せた。
「ウォルター、さん、今のは?」
「魔法剣を利用した複数の魔術の同時起動だ。地系の魔術を使って敵を閉じ込める空間を作り上げた後に、その内部で光系の魔術を連鎖的に作動させて、最期にエーテルを崩壊させて空間ごと破壊する」
「えっと、その……」
無茶な事を言ってしまったようで、キルシュは目をぱちくりとさせている。
魔術の短縮詠唱が出来る魔術師はいてもこれが出来る奴はそうはいないだろう。
俺でも、あらかじめ剣に仕込んでおかないとそうそう出来るもんでもないが。




