店主の昔話1
「落ち着け神崎!!」
怒鳴り声とまでは言わないが、それでも遠藤にしては珍しく大きな声だった。
「俺は気にしてない、寧ろ俺の責任なんだ。事が大きくならなかったんだし、もう過ぎた事、笑い話で良いんだよ」
「……わかった」
酒の席。
一プロジェクトを終えたチームで、打ち上げの真っ最中だったのだが、新人のふっと始めた笑い話に。
俺一人笑えなかった。
唯一の同僚、遠藤がプロジェクト終了間近に遅刻して来たのだ。
しかも、大事な資料も忘れて来る始末。
理由は分かりきっている。
この一ヶ月、寝る間も惜しんで進めていた為、その疲労が重なったのだろう。
俺がリーダーとは言え、副リーダーと言う初めての肩書きにえらく緊張してたのは言うまでもない。
「人は誰しも失敗はある、今回は初めて肩書きまで付けられて行った一大プロジェクト、成功したのに今更そんな話を」
「だから、思い出の昔話くらいに思えばいいじゃないか」
「しかし」
「見ろ、折角楽しんでいた仲間達が白けてる、そんなだから、狂暴な上司って言われるんだぞ?」
振り返った遠藤の視線の先。
三人の部下達は何処か怯えるように俺を見つめてて、俺の怒りの矛先を向けられていたもう一人の部下も、とても複雑そうな表情をしていた。
自分でもよく分かっている。
沸点が低いのだろう、小さな事ですぐに頭に血が上り、手を出そうとしてしまう。
昔は当たり前の光景だったはずだ。
上司は部下を説得するように罵倒して手を上げる。
しかし今ではパワハラだセクハラだと大問題になる。
俺には昔、青アザができる程に手を挙げていた上司も、今ではすっかり丸くなって、鬼上司なんてあだ名を知る人間も数える程になっていた。
「……すまん、これでみんな盛り上がってくれ」
「帰るのか?」
「俺がいても楽しめないだろ?」
打ち上げ代を賄えるだけの金額を遠藤に手渡し、俺は店を出た。
もうすぐ暑くなるそんな夜。
街の人間は、煌びやかなネオンに吸い込まれる様に、消えて行く。
嬉しそうに楽しそうに笑う人々もいて、俺がここに居るのがおかしく見える。
「帰って飲み直そう」
このプロジェクトの間、俺にだって休みは殆ど無かった。
唯一の、だった一日だけの休みは、嫁のブーイングで一日中買い物に付き合わされた。その時に買ったビールがまだあるはず。
電車を乗り継ぎ、辿り着いたマイホーム。皆が憧れる程に頑張って買ってやった。
嫁も誇らしいだろう。
「……は?」
暖かく迎えてくれるはずの家族はいなかった。
いたのは、テーブルの上の手紙だけ。
【優君へ
頑張って耐えてた、けれどもう限界。
疲れているとはいえ、優君の暴言に態度
もう耐えられません。暫く実家に帰って
これからの事考えます。
支えられない私でごめんなさい。
美奈】
何だ。全部俺が悪いのか。
でも確かに、この一ヶ月、俺は嫁の話を一切聞かなかった。
産まれたばかりの、子供の相談もしてた様な気がするが、それもきっとあるんだろうな。
そうだよ、俺は一つの事に集中すると、周りが見えなくなる。
だけどだ、どれもこれも、嫁や子供の為を思ってやってきた証じゃないか。
何だよ、結局俺の努力は、自己中なだけだと言いたいんだな。
あぁ、出て行けば良い。所詮、それまでの仲だったと言うだけだ。
何度も何度も手紙を破き、細かくなったそれをゴミ箱へ散らし捨てた。
明日からやっと連休開始だったのに、寝て過ごそうか。
もう全てを忘れてしまいたい、よしっ、やっぱり飲もう。
そうして服も着替えずに冷蔵庫を開けたら。
「さ……さ……さむい……」
男の子がいた。
は?
一度扉を閉じて、もう一度開く。
「……さ……寒いんだってばっ!!」
冷蔵庫の中身をばら撒きながら飛び出してきたのは、子供と言うには大き過ぎるが、大人と言うには若すぎる、とにかく男。
ぶるぶる震えながら、その震えた指を俺に向けて来た。
「いつまで閉じ込めておくつもりだったんだよ! もう半日もいたんだぞ! 謝れ!」
どうやら怒っているようだが、その幼い顔がどうにもそれを感じさせない。
いやいやいやいやいや、まずその前に。
「お前誰だ」
静かにけれど声は低く、相手に余裕を持たせない、今すぐにでも逃げ出すはずの声音で言ったはずが、その男には全く、これっぽちも通用しなかった。
しかも、そんな事もお構い無しに、散らばった冷蔵庫の中身を物色し、見つけたハムを嬉しそうに食べ始めた。
「人の話聞いてんのか!!」
段々苛々して来て、思わず男の腕を掴んだ。拍子に手にしていたハムが床に落ちた。
「あぁ……勿体無い」
「そんな事はどうでも良い! だからお前は」
「どうでも良くないよ、食べ物は大切に、人も大切に」
「は?」
ハムに息を吹きかけた男は、それをあっと言う間に食べきり、さてと、と立ち上がり、俺を見上げた。
「それで? 反省してるの?」
「反省?」
「後悔してないの?」
「後悔?」
俺の疑問にさらに疑問で返す男は、何度も首を傾げてただただじっと俺を見る。
その、輝かしい瞳が俺をいつまでも見つめて来る。
一体何のドッキリだよ。
「何だ? 嫁のドッキリか!? 隠れてないで出て来いよ!」
そんな瞳の男を置いておき、家中の扉を開け回った。
けれど何処も綺麗に掃除されたいつもの部屋。
「何探してるの?」
何処にも嫁の姿も勿論子供の姿も無かった。あるのは、この謎の男だけ。
「お前、何なんだよ、人の家に勝手に入って好き勝手やりやがって」
「え? じゃああなたは好き勝手やらなかったの?」
何の疑いも無い、ただ純粋な質問だと言わんばかりの瞳が、また俺を覗き込む。
一体何だってんだ。
「ねぇ、なにか願いがあるんじゃないの?」
「願い?」
「そう、後悔、してるでしょ? さぁ、言って」
「何言ってんだよ」
もう訳が分からない。
いきなりおかしな男が現れたかと思えば、願い事を言えだと? 意味がわからない。
けど何だ? 何か願い事言えば叶えてくれるのか? それと、帰ってくれるのか?
じっと男を見つめて暫く悩んだ後、仕方無しと願い事を言った。
はずだった。
「金も」
「お金持ちになりたいとか、そんなのは無理だよ?」
「制限付きかよ!」
あっと言う間に言い捨てられ、また見つめられる。
何なんだこいつは。
「もう、分かってないなー」
「お前がわかんねーよ」
「とりあえず、今日一日を振り返ろうじゃないか」
メガネなんて掛けていないくせに、それを持ち上げる真似なんかして、無理やり俺を座らせた。
男は俺を確認すると、楽しそうにもう震えていない指を俺へ再び差して来た。
「今朝、あなたは頑張った部下達を労おうと画策した。如何にお礼を伝えられるか、如何にストレス発散させられるか、だからこそ選んだ賑やかな居酒屋だったのだろう?」
どこぞやの教師の様に、語る男。
そこには無いはずなのに、まるで黒板を見せつけるように俺を差していた指で空間を叩く。
いやまず……何故それを知っている?
「結果どうだった? あなたのせいで台無しだ」
「それは」
「美奈ちゃん、世界で一番好きだったんじゃないの?」
唐突に変えられた話題に、質問の意図も汲めず、黙って男を見つめた。
最早そこにメガネと黒板がある様にバンッと空間を叩く。
「どんなに大変でも、泣かせたりしないって誓ったんじゃないの!?」
「なっ!?」
「どうしても辛くなったり、大変になったら、一緒に夜空見ようねって、約束してたんじゃないの?」
「何故それを……知ってるんだ!!」
俺は昔から、自分で言うのも何だが、不器用な男だった。
好きな女には尽くして尽くして、良い様に使われているだけでも、構わないと尽くし続ける。
与えられた仕事は、苦手でも取り組んだ、どんなに時間がかかろうと一人でやった。
助けてもらえばすぐ出来るような事も、その一言が出ずに、結局遅いと怒鳴られた。
やってもやっても成果は出ない。
やってもやっても周りの人間に追いつけず、それでも努力は怠らなかった。
だけど、中々周りには認めてもらえない人間だった。
そんな時に出会ったのが嫁であり、そんな俺を拾ってくれたのは今の職場だった。
「ねぇねぇ、これからもこのまま行くの?」
「……何処へ?」
「なんでやねーん」
「グフッ」
ぷくくっと笑う男は、テレビで見るようなツッコミをした。
しかし俺は、それをまともに受け、苦しんだ。
予想外に力強かった。
「ねぇ、ちょっと外出よーよ」
「は?」
「今日はねぇ、とってもいい天気なんだよ」
「もう夜だぞ」
「もう、いちいち煩いなぁ、黙って付いて来なよー」
男は、俺の腕を無理矢理引いて、勢い良く階段を駆け上がり、屋上へ出た。
そう、この家を建てる時、一番に注文をし続けた屋上。
どんな人工の光も邪魔せずに、ただただ自然の光だけを見つめられる、そんな風に設計した屋上テラス。
「ーー晴天だ」
「でっしょぉ」
満面の笑みを浮かべる男から視線を外し、満天の星空を見上げた。
プラネタリウムとは比べ物にならない位に、沢山の星が輝き、幾つもの星座を作る。
真ん丸の月が、煌々と俺達を照らしている。
「もうさ、意地張るのやめようよ」
「何だよ意地って」
「じゃあ言い方を変えよう」
コホンと咳払いをして見せた男は、それでも笑顔を消さずに、俺を見上げた。
夜空に負けない位の瞳と、優しい声音と共に。
「真似なんか辞めちゃって、自分らしく生きなよ。それがどうしても無理なら、この夜空へ向けてお願いしてみなよ、本気の本心の願いは、昔から叶うって、言われてるんだよ?」
こいつは本当に、一体何者なんだ。
何故、この俺が、真似をしてると、知っているんだ?
俺はこの不器用で残念な性格を変えたかった。
嫁を、美奈を幸せに出来る強い男になりたかった。
こんな俺を拾ってくれた、上司の様に何でも出来る、強い男になりたい。
悩みに悩んで、俺は目標とする上司の真似事を始めた。
最初こそ四苦八苦していたし、中々に可笑しな態度ではあった。けれどそれも慣れてくると板に付いてくるもので、俺は立派に部下を付けられる様にまでなった。
けれどやっぱりそれは俺には合っていない事も分かっていた。
だからこそ、小さな事で苛々するようになった。
そうして、俺は、部下にまで暴言を吐きまくり、小さな事まで我慢出来ない、最低な男に成り下がってしまった。
美奈を守りたいと思っていた強い心は、いつの間にか、方向を間違えた強さを身に付け、一々上から物を言うようになってしまった。
これは最早、真似でも無い。
積もり積もった間違った俺だ。
「さぁ、恥なんて捨ててさ、あなたの願いを、本当になりたかった自分と周りを取り戻す為に!」
まるで魔法使いのように、クルクルと舞い始める男は、ふわりふわりと浮かび上がって行く、あれ? 浮かび上がって行く!?
「ほらほら、夜が明けちゃうよー?」
ほらほらぁ
ほーらほらぁ
どんどん浮かび上がって行く男は、とうとう俺を見下ろす高さまで飛び上がってしまった。
俺は……俺はーーーー。
「俺は……こんな強さはいらない!! 俺が欲しいのは、皆が笑える優しい強さ!! 昔みたいなナヨナヨした自分は嫌だが、俺は、俺に関わる皆を守れる強さと、優しさを、持ちたかっただけなんだ!! だから……こんな俺を辞めて、変えたい!! 変わりたい!!」
『その願い、受け取ったっ!!』
ニコリと笑った男は、勢い良く飛び上がったかと思うと、まるで花火のように、沢山の光を散らして消えた。
まるで流星の様に、まるで何処までも散らばる新しい星の様に、キラキラと、ただただキラキラと輝いて。
消えてしまった。