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短編小説集 à la carte

花と驟雨

作者: 篠崎フクシ

 急に大粒の雨が降り出した。

 ずっと日照りが続いていたので、兎川コウタは嬉しくなって、少しだけ濡れてみた。自転車の後輪が、水飛沫を上げる。

 学校からの帰路、街路樹の緑が濃くなるのを見て、幼い頃の記憶が蘇る。夏にはいつも近くの森にカブトムシやクワガタを獲りに行ったものだ。

 西の空は晴れているのに、こちらの雨足が強くなってきた。さすがに鞄の中も心配になり、雨宿りをすることに決めた。

 街道沿いの古刹が目に入り、ひょいと門の軒下に飛び込む。

「あっ」

 先客がいたので、コウタはちょっと驚きの声をあげた。隣町の高校の制服を着ている。この子も傘を持っていないようだった。

 思いなおして軽くお辞儀をすると、彼女も同じように頭を下げた。ショートの髪に白いハイビスカスを挿していた。雨粒がひとつ、花弁のさきから零れた。

 コウタは彼女の艶やかさにドキリとして、すぐに逃げ出そうと、そのタイミングを計った。

「コウタ君、だよね?」

「へ……」

 いきなり自分の名前を呼ばれ、コウタは身構えた。自分のこれまでの記憶のアルバムに、こんな子がいただろうか。思い出せない。

「私のこと、忘れちゃった?」

「い、いや、そんなことは……、な、い」

 えーと、たしか、とシドロモドロになりながら雨雲の動きを目で追った。

「ずいぶん、髪が伸びたよね〜。小学校の時からずっとボウズだったのに!」

 あははは、と高い声で笑う彼女のキラキラした目を見ていたら、ようやく思い出した。

「お、おまえ、ミサキか!」

 沢渡ミサキとは小学校、中学校といっしょだったけれど、中学一年の時以外ほとんど同じクラスになることがなかった。中学校卒業後は別々の高校に進み、同じ市内にいてもまったく会うことがなかった。

「高校でも野球部だったんでしょ?」

「まあな。でもこの頭見れば分かるだろ。一回戦負けで、引退。夢の甲子園は遥か遠く……ってね」

 中途半端に伸びてきた前髪をつまみ、雨水を絞りとった。

「わたしね、コウタ君の最後の試合、観に行ってたんだよ」

「え?」

「去年も一昨年も観に行ってた」

「マジかよ、おまえ。ストーカーか?」

「そんなんじゃないよ! ただ、コウタ君はわたしにとってのヒーローだった」

「ヒーロー?」

 なんだか、むず痒くなってきた。

「小学校の時はさ、虫捕り名人で。コウタ君がみんなにコツを教えていたでしょ?」

「ま、まあ、そうだけど……、そんなに褒められることか?」

「それでさ、コウタ君は虫籠を使わなかったんだ。捕まえてはすぐに逃がしちゃって。優しいんだなって思った」

 夏の夜、森の大樹に甘い液体のトラップを仕込んでいたのを思い出す。夜の森の匂い。虫たちの匂いが大好きだった。

「それでさ、中一の時さ、わたしがイジメられているのを助けてくれたのもコウタ君だった」

「そうだったかな……」

 だいたい、おまえ、イジメられていたっけ、と言おうとしたが、やめた。

「そうだよ。クラスの女子からハブられてたのに、コウタ君だけがわたしに話しかけてくれた」

 あ、と声をあげそうになる。

 二年のクラス替えがあって、しばらくして、ミサキは学校に来なくなったと人伝に聞いた。その時はまったく他人事で、気にもとめていなかった。今考えると、中学二年の時の自分はけっこう冷たかったのかも知れない。あの頃は、いや、ほんの最近まで、野球のことで頭がいっぱいだったのだ。

「ふふ。謝ったりとか、やめてね。いまのわたしは、わりと元気だから。南の島で、ハイビスカスの匂いを嗅いで、復活したの」

 それで東京に戻ってから、時々こっそりとコウタの試合を観に行っていた、とミサキは教えてくれた。

 いつの間にか雨が止んでいた。

 さあ、そろそろ雨宿りも終わりかと二人が軒を出た時だった。

 

 遠くで白い閃光が縦に落ちた。

 それは灰色の空を切り裂き、次に地鳴りのような音を響かせた。

「きゃっ」

 ミサキはコウタの肘を軽くつかむ。

 コウタは雷よりもそっちの方が気になって仕方がなかった。

 

 そうして、通り雨のような、ほんのささやかな二人の出来事は終わった。

 

  ✳︎

 

 急に夕立がやってきた。

「やっべ、急ぐぞ、チエちゃん!」

 自転車の後ろに三歳の女の子を乗せて、コウタは思い切りペダルを漕いだ。

 しかし雨足がはやい。

「あそこのお寺で雨宿りしよう」

 女の子は楽しそうに鼻歌をうたっている。

「うひゃー、濡れちゃったな。ママに怒られる」

「大丈夫だよ、コウちゃん。チエちゃん、雨、大好きだから」

 チエの髪に挿した白いハイビスカスが、風に揺れる。

 しばらくして雨が止み、チエを自転車に乗せると、後ろからクラクションが鳴った。

「ママ!」チエが叫ぶ。

 路肩に軽のワゴン車が止まり、ひょっこりミサキが顔を出した。

「ごめんね、コウタ君! 渋滞からやっと抜けられた」

「シングルマザーは大変だな。それにひきかえ、俺のような大学の非常勤講師はヒマだ」

「そんなんじゃ……。コウタ君、怒ってる? 」

「怒ってねえよ」

 コウタはチエを助手席のチャイルドシートに乗せ、苦笑いをする。

「保育園の緊急お迎え欄さ。俺の名前じゃなくて、もっとふさわさい人がいると思うぞ。いくら他にいないからといって……」

「チエちゃん、コウちゃんのお迎えがいい!」

「はいはい」

 コウタはチエの頬っぺたにちょっと触れる。

 マシュマロよりも柔らかい。自然と笑みがこぼれる。

 

 高校時代の、あの雨宿りのあと、二人は時々いっしょに近くの図書館で受験勉強をした。仲の良い友達として、幸せな時間を過ごした。それからお互い別々の大学にすすみ、恋人ができ、それぞれの時間が流れた。

 

「わたしにとってのヒーロー」

「ん?」

 コウタは鈍感すぎて、その言葉がミサキにとっての「好きだ」という意味に取れなかった。あの頃のミサキも、ストレートに気持ちを表現することが下手だった。

「今度、ご馳走するから、ウチに来て」

「来て来てー、コウちゃん、うち来てー」と、チエが足をバタバタさせる。

「おうよ」

 コウタは車のドアを閉め、彼女たちが去っていくのを見送った。驟雨の後の、涼しい風が心地よかった。ハイビスカスの残り香が消えるまで、コウタはしばらく遠くの空を眺めていた。【了】

 

 

 

 

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