安らぎのひととき
練習作、続きです。
12月。
屋上での事件からあっという間に時間が過ぎ、すっかり寒さが沁みる季節となっていた。
窓の外には、ちょっと早めの雪がちらついていた。流石に積もるほどの事は無かろうが、それでも季節を感じさせるものだった。
こんな日には、こたつに潜り込んで煎茶でも啜りたい気分になる。
……なるのだが。
「さあさあ早く、連日の作業で疲れ切った私へ癒しを届けるのです」
「ねぇ。どうしてこんな寒い日にまで僕の部屋にくるの?」
「分かりませんか、そういう日だからですよ」
こたつに脚を突っ込み、僕の手を(くいくい)と引っ張る彼女は、いつもと同じく小動物のような笑みを浮かべていた。その様子をみて、僕はやれやれと言わんばかりに首を振った。
いつものように学校の授業が終わった後、彼女はさも当然の如く僕の部屋へ上がり込んできたのだ。幸か不幸か、僕自身はさほど忙しくしている訳では無かったので、その所業に対して特に抵抗しなかったのだが――
「そういうサービスまで求められるとは思っていなかった」
「えーニブいですね相変わらず。私がただ君の部屋へ来たとでも思っているのですか?」
「……そういう君の厚かましさこそ、本当に相変わらずだね」
きょとんとしている彼女へ、僕はやや皮肉を込めた言葉を向ける。尤も、本気で憎く思っている訳では無いのだが。
ちなみに彼女は既に、客人用にと出した煎茶と羊羹を(僕の分まで)平らげてしまっている。遠慮が無いというか何と言うか。勿論それは慣れたものであるが、それでも口に出さずにいられないのは致し方ないといったところである。
そんなくつろぎモード全開の彼女は、改めて僕の手を(ぐいぐい)と、先程よりやや強い力で引っ張る。これは遊んでほしい子犬か何かだろうか。
分かり切った事だが、こういうときの抵抗は無意味である。僕は諦めて彼女へと向き直る。
「分かったよ。それで、癒しが欲しいっていうけれど具体的にはどんなのがいいの?」
「わ、本当に了承してくれるとは思っていませんでした!えーとですね……」
僕が返事をした途端、彼女はぱぁっと表情を綻ばせる。それが直視できなくて、僕は顔を逸らした。
しばらく彼女はうんうんと唸っていたものの、やがて何をして貰うか決めたようだ。期待の込められた視線がこちらに向けられた。
「……よし、決めました。いつものように、膝枕をしてくれませんか?」
「また?……まあいいけど」
僕が得心したように頷くと、彼女は満足げに首肯した。
僕は戸棚から使い慣れた“それ”を取り出すと、座布団の上で正座になった。
「あれ、でもこれだと僕、こたつに入られないんだけど」
「そこは我慢して下さい」
ささやかな抗議は、あっさりと棄却された。
早々に観念して、僕は組んだ膝枕の上を(ぽんぽん)と叩く。すると彼女はそこへ(ころん)と横になり、小さい頭を乗せた。
そう、耳かきである。
屋上での一件以降、彼女は暇を見つけては僕に耳かきを依頼するようになっていたのだ。当人曰く「漫画の為!」との弁だったのだが、今となってはそれがどこまで本当なのか僕にも分からなかった。少なくとも、最初の理由はそれだったのだろうけれど。
手元の耳かきをじっと見つめる。彼女に押し付けられてからというもの、自分に使う事は殆ど無かったのだが彼女に対して使う機会が非常に多かった為、今ではすっかり手に馴染んでいた。梵天も定期的に洗浄しているので、未だに新品同様の輝きを放っている。
「さぁ、早くお願いするのですよー」
「うん。じゃあいつも通りにやるから」
「了解したのです」
僕の膝に横たわる彼女は、体に緊張を感じさせずリラックスしている様子だった。信頼されている、と受け取っても良いのだろう。
かくいう僕も、さすがに回数を重ねた結果、膝枕程度で心拍数を跳ね上げさせるような事は無くなっていた。……それはそれで、若干寂しくもあるのだが。
膝からは、これまでと同じように彼女の体温を感じる。その温かさも、頭の重さも、決して嫌いでは無い。
僕の膝で(くたっ)と力を抜いた彼女の横顔を横目で見つつ、彼女への耳かきを開始した。
*
耳に手を添え、その表面を軽いタッチで押す。別段緊張をほぐす必要はなさそうだったが、これはこれでマッサージ効果が期待できるので手順に組み込んでいる。
その後は、耳たぶから耳全体を包み込むように揉み解す。(ぐにぐに)と血流を促すように指を動かすと、彼女の口から「んー……」とため息が聞こえた。
指にウェットティッシュを巻きつけると耳の裏を拭い、ついでに耳かきでそっと皮膚の表面をなぞる。彼女も耳かき自体にだいぶ慣れているお陰か、以前のようにウェットティッシュに触れた程度では声を上げなくなっている。
耳の裏が終わると、今度は耳の表面を耳かきでなぞる。耳の窪みなどの奥まった箇所も掻くが、手入れの頻度が増した所為か汚れは殆ど取れなかった。
「おお……相変わらず丁寧な仕事ぶりです」
「まぁ、痛くする趣味は無いから」
「やっぱり優しいですね、君は」
「急に変な事言わないで。手元狂う」
彼女の言葉をスルーして、作業を続ける。
ひと通りを掻くと、続けて耳の内部へと場所を移す。
「それじゃ、入れるね」
「はい、よろしくお願いします」
一声かけて、まずは耳の入口から。(カリカリ)と細かい手さばきで作業を進める。耳の入り口を中心にして、円を描くように。
気付けば、すでに膝に掛かる重みが増していた。目を閉じ耳に意識を集中させているようである。僕もそれに応えるべく注意しながら手を動かす。
「と、ところで、ですが」
「うん」
「あのときの返事、まだ貰っていないのですけれど」
「……いつの話?」
ふと彼女の横顔を見ると、僅かに頬が上気しているように見える。体の強張りが、膝を通して伝わってきた。
勿論、彼女が何を差して「あのとき」と言っているのか、その意味合いは僕にも分かる。だが、あまり話題にしたくないのもあって敢えてはぐらかす。
そんな僕の心情を感じ取ってか、彼女はむっと不満げに頬を膨らませた。
「あの屋上での話です。『恋仲なのは、誤解にしなくても~』とか、話をしたではないですか」
「ああ、それ。うん、あれから先輩に会ってもその話題には殆ど触れてないから、結果的には誤解を解いてないっていう事になるかな」
「……今、話をすり替えましたね」
「はて」
話の方向性を変えるのは失敗したようだ。
そう。
あのとき、屋上で彼女から告白(のような宣言)を受けた僕は、そこで答えを返さずにおいたのだ。当然彼女からは不満が噴出し、機嫌をなおしてもらうまでに暫くの時間と苦労を要した。
まぁ、短時間に複数の人間から感情をぶつけられては、こちらも脳の処理が追いつかない。改めて返事をしようかと思っていたのだが、なんだかんだでタイミングを逸してしまうと今度はそういう話をするのも気恥ずかしくなってしまい。結果、その話題については触れないまま今日に至る。
「い、一応伺いますけれど、君は私の事をどう思っているのですか」
「どう、って。面倒な幼馴染?」
「……そうですか」
あからさまに彼女の表情が曇る。それを見ないようにして、耳かきを奥まで滑らせる。ここはデリケートな場所だから、より一層の集中が必要なのだ。
時折耳かきをティッシュで拭うも、目立った汚れは殆ど見受けられない。こまめな掃除も相俟って、汚れ自体は充分取れているのだろう。ここは掃除ではなく、リラクゼーションを意識して作業する。
彼女が気持ちよさを感じるポイントは分かっているので、そこを集中的かつ丁寧に刺激。(カリカリ)と掻いてあげるたびに、彼女の体がぴくっと反応し微かに「んっ」と声が漏れた。
「気持ちいい?」
「は、はい」
気持ちよさそうな返事とは裏腹に、表情はもどかしそうに硬くなっている。先程の話題が気になっているのだろう。
「ここまできて返事をしないなんて、君は意気地なしですか」
「……失神するまで耳かきしてあげようか」
「やめて下さいっ。冗談に聞こえません」
「うん。迷走神経反射でも起こしたら、気持ちよく“落ちる”と思うよ」
彼女の文句に、つい意地の悪い言葉を返す。
タイミングを逸したとはいえ、彼女がせっかくお膳立てをしてくれているのなら、応えるのが筋というものなのかも知れない。だが、こう改まって言うとなると、色々と気後れやら恥ずかしさやらが募ってしまう。それを誤魔化すように、ひたすら作業に没頭した。
ひと通り掻くと、最後は耳かきを反転させる。梵天の側に持ち替えて、彼女の耳へそーっと差し込んだ。そのまま(くるくる)と回して細かい汚れを取り出すと同時に、梵天の感触を楽しんで貰う。
(くるくる)(くるり)
回しながら梵天を取り出し、ティッシュの上で汚れを散らす。そしてまた梵天を耳へ。ゆっくり、ちょっとくすぐったい程度の強さで優しく耳を刺激してあげる。
彼女はその作業中、ただ「ふあ……」と呆けたような声を出していた。この反応だけで、僕も自分の仕事に手ごたえを感じる。
「はい、こっち側は終わったよ」
「んー……。このまま寝てもいいですか?」
「駄目。せめて反対側を終わらせてから」
もう若干目が蕩けている彼女へ声をかけてから、僕は彼女への癒しを続けた。
***
「すぅ……」
「で、やっぱりこうなっちゃうよね」
数分後、やはりというか恒例というか、彼女はそのまま僕の膝で寝てしまった。
これも長く続けていると足が痺れてしまうのだが、まぁ僕の技術の賜物だと考えれば悪い気はしない。
膝へ目を向けると、まるで日向ぼっこしている猫のような表情を浮かべて寝息を立てている。その髪をそっと撫でると、こちらも穏やかになるような、不思議な感覚に陥る。
この表情を見ているのも悪くないというか、もっと見ていたくなるというか。
「はぁ……。一体いつから、こんな事感じるようになってたっけ」
独り言を呟く。自分自身の感情を持て余すなんて、初めての経験だった。
と。
突然、携帯電話のアラームが鳴る。思わず体をビクッと震わせてしまうが、寝ている彼女を起こさないように努めてそっと携帯電話を掴んだ。
通知先を確認すると、先輩からのものだった。電話をかけてくるなんて珍しい事だと思いながら、僕は電話に応じる。
「もしもし」
『おーす。元気かー』
声の主は、いつも通りの軽いテンションだった。僕に屋上でフラれてからも顔を合わせる機会は何度かあったが、さほど落ち込んだ様子は見せていなかった。或いは表に出さないようにしているだけ、かも知れないが。
僕は声のボリュームを小さくして、彼女が起きないようにと気をつけつつ返事する。
「ええ、ぼちぼちです」
『んだよ、その半端な返事は。まあいいや、オマエ今なにしてる?』
「なに、って。自宅で彼女と過ごしていますけれど」
「ほう。ほう。彼女と自宅で、ね」
電話の向こうから、意味深な声が聞こえた。何かまた誤解か勘違いをしているのだろうか。
それを不審に思いつつも、その件については触れず話を進める。
「ところで、何の用件で電話をされたんですか?」
『お、そうだ。オマエ年末年始は暇か?』
「えーと……いえ、その時期は彼女の漫画制作に付き合う予定です」
『あー、そっちが忙しいのね。そういや学校でも、ときどき漫画作りでその子からアドバイスを求められるときがあるし』
得心したような一言。先輩も漫画研究部の部長をしているだけあり、そこら辺の事情や動向は知っているようだ。
続いて、やや残念そうな声。
『いやその時期が暇ならよ、どっか二人で遊ばねえかと思ってよ。まぁいいや』
「そうでしたか。遊びにかまけて、学業の方をおろそかにしないで下さいね。また僕が手伝う事になるんですから」
『……それいいな』
「本気にしないで下さい」
余計な事を言ったと後悔した。
声音は残念そうだったが、語り口から察するにそこまで期待はしていなかったのかも知れない。あっさりと諦めてくれた。
それからは雑談や予定の確認など、手短に済ませる。膝上の彼女が目を覚まさないかと心配したが、存外ぐっすり眠ってしまっているようで一度も目を覚ます事は無かった。
『んじゃ、またな。彼女の事、大切にしてやれよ』
「はぁ」
『んだよ覇気のねぇ台詞だな。オマエだってその気あるんだろ?オマエって他人に無関心なクセして、その子の事だけは色々気に掛けてたからよ』
「…………」
『じゃーな。また今度、勉強でも教えて貰うわ』
最後まで軽快なテンポのまま、先輩は電話を切った。
『色々気に掛けている』
自分ではそんなつもりは無かったのだが(ついでに言うと、他人に無関心なつもりも無かった)、傍から見るとそういう風に感じさせる何かがあった、という事なのだろうか。
特に先輩は、色恋や恋愛について相談を受ける程には、そういう方面の知識が豊富である。また、あれでなかなか察しのいいところもある。
その先輩が言うのだから。きっと。
「そういう事、か」
それに気付かされて、僕の中にどこかほっとしたような感情が芽生えた。
そしてまた、膝上の彼女を見遣る。
相変わらず日向ぼっこしている猫のような、どこか幸せそうな表情を浮かべていた。
お読み頂き、ありがとうございます。
御意見、御感想など頂けましたら幸いです。
次回の投稿で最終回となります。