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1. 【星】

 叙任式は厳かな雰囲気の中で執り行われた。ニムサム宮殿の白を基調とした清潔感あふれる祝宴の間(フェストザール)には、判士(ジャッジ)叙任を受ける二十名ばかりの若者、王都から派遣された三名の高級判士(ジャッジマスター)に、王立貴族学校の校長に教頭、そして十数名の賓客らが集まっていた。

 我らが高級判士総帥こと、マイスター・ティトスのいかめしい表情の前には、候補生の誰もが、たじろがずにはいられない様子だった。彼らはゲスタールの男たちが何百年も前からやってきたように、銀の鍍金を施した板金鎧(プレートアーマ)を一縮し、銀欄のマントをまとって、整然とした二列の縦列をなしていた。青草のように若い判士候補生たちの表情は、緊張のあまり強ばったものになっている。マイスター・ティトスは彼ら一人ひとりの前に足を止めると、候補生たちは順々に膝まずき、誓いの言葉を述べた。そして、総帥は手にしている剣の腹で彼らの肩を叩いていった。

 自分の番がきたとき、ゼリーゼ・シェーンハウゼンは彼をまともに見た。痩せこけた頬に、鷲鼻、後退した生え際のこの男は、生まれてからこのかた、一度も微笑んだことがないのではないかとさえ思わせる、厳然たる表情を浮かべ、青く鋭い眼光を湛えて彼女を見据えていた。その顔はこのように問うているようだった。“お前にその甲冑をまとう資格はあるのか”と。

(ありますとも。剣技においては、私は最も優秀な剣の使い手にも引けをとらないだけの技倆と素早さをもっています。そして、学業におきましても軍事科、法学科ともに、常に学内上位を保ってきました。判士たる者として、これ以上の資質が必要だというのですか、総帥殿?)

 そう答えるかわりに、彼女は腰に吊り下げられた鞘から剣を引き抜き、両手で掲げた。ひざまずいて忠誠の意を示すとともに、宣誓の言葉を唱える。

「我が命は陛下の御意思を体現せしめる器なり。その秤にて慮り、その剣により執り断ちなん。祖父からは叡智、厳父からは膂力を賜りし故、我は服従を以てして陛下に報わんことを固く誓い申す」言い終えると、総帥は手にした剣を彼女の肩に当てた。

「では立て。そして仕えよ」総帥は厳かな声で答えた。

 こうして、ゼリーゼはゲスタール王国の判士(ジャッジ)の一員となった。彼女の念願が遂に叶ったのだ。判士に叙任されることの名誉は一言では語り尽くせない。三百年もの伝統をもつ判士は、ゲスタールが大帝国であった栄光の時代より引き継がれており、その名声は大陸中のいたる国々にも知れ渡っている。世界最強と謳われるゲスタールの規律ある軍隊の核こそ、判士と呼ばれる高級武官の存在なのだ。

 判士は、その一人ひとりが国王その人の代弁者であり協賛者であるとされる。彼らは平静のときこそ、公安局で都市の治安業務や、政府要職に就いているが、その真価が問われることになる戦時下において、彼らは各軍団、あるいは大隊、中隊などそれぞれの部隊における副官としての役割を任じられる。彼らには副諸権限が与えられており、将師であろうとも、その旨とするところが陛下のご意思に違うと判士に判定を下された場合、部隊はその裁定に服さねばならないのだ。判士は陛下の御意思から軍部が逸脱することを抑制することが使命とされ、その監視と統制が業務なのである。騎士風の鎧に身を固めたその威風堂々とした姿は、ゲスタールに生まれた男子であれば、一度は必ず憧れる戦争の華形ともいえる存在だ。

 ゼリーゼは胸が高鳴るのを感じた。この瞬間、ゲスタールが誇る判士という輝かしい歴史と伝統の延長線に、自らの足を踏み入れることが叶ったのだ。しかも、女性の身でありながら。歴代判士のなかで、女性として名が知れている人物は、彼女の知る限り一人としていない。そして、自分こそはゲスタールの歴史に名を残すだろうと、奇妙な確信を抱いていた。


 思い返すと、ゼリーゼが判士を目指すため、高級武官育成校である王立貴族学校に入学したいと両親に打ち明けたとき、父親は怒りのあまり喚き散らしたものだった。

「判士は天秤を手にした戦士なのだぞ! お前のような阿呆な小娘が勘違いもいいところだ!」

 父は、女の分際で判士になろうなどと考えることが、いかに破廉恥であるかをくどくどと説教し、育て方を間違えたのだと母を責めさえもしたのだった。

 父の反応がそのような按配であるから、学費などの必要な援助は叔父に頼ることになった。貴族学校入校に際しては叔父であり、シェーンハウゼン家当主であるベンヤミン・シェーンハウゼンが推薦状をしたためてくれた。彼自身が高級判士部会所属の高級判士としての職位があり、バハムート殿下の近衛連隊副官という高貴な要職に就いている人物だった。その誠実な人柄ゆえ、判士たちのあいだでも尊敬を集めていたのだ。若貴族(ユンカー)の若い子息たちが集まる王立貴族学校へ女性としての在籍は異例なことではあったが、叔父の人望と名声に大いに助けられ、ゼリーゼは入校を果たすこととなった。

 しかし、貴族学校での生活は、彼女にとって苦難の道であった。女であるゆえに周囲の青二才どもから受けた侮辱の数々は言うに及ばず、教官さえも白い目で彼女を見たものだった。

 あるとき、武術指南役のゾームは、生徒たちの前で彼女に軽蔑のこもった表情を浮かべてこう言った。

「神は男に剣を振るうための力を与え、女には子を養うために乳房を与えたのだ」

 この屈辱の言葉も耐え難いものだったうえ、ゾームから剣の稽古をつけられるときには、まさにその言葉を思い知らせるかのように、彼はきまって彼女を打ち身と痣だらけにした。悔しさのあまり何度も涙を流したが、やるべきことは一つだった。

 さいわい、彼女は才能に恵まれていた。十四歳にして、かろやかな羽乗術を習得し、ゲスタール国第二公用語のセントロス共通語は当然のこと、貴族学校で必修となるラマンダ語、そしてニキア語など各言語の基礎を身につけていたゼリーゼは、文武ともに人より呑み込みが早いことを自覚していた。修練を積む中で剣技も瞬く間に冴えてゆき、同輩の男子たちとも互角以上に渡り合えるようになっていった。

 そして復讐の機会はおとずれた。その日、武道館内はいつものように、五十人ばかりの訓練生たちが刃先を鈍らせてあるサーベル状の刀剣を用いて稽古をしていた。ゾームは武術指南役として、居丈高な振る舞いで生徒指導にあたっていた。だが、前日の実技指導で利き腕を傷めていたことをゼリーゼは知っていた。彼女は稽古をつけてほしいと、ゾームに直に頼んだ。彼は不機嫌そうに睨め返してきたが、頼みには応じたのだった。

 手合わせでは初め、ゾームが激しく切り込んできたが、ゼリーゼは彼の斬撃を必死に耐え、隙を見計らっては左手へまわり、彼の痛めている腕を集中的に狙った。

 訓練試合が決闘の様相を呈してくると、武道館内の訓練生たちは野次となり始めた。威圧的な態度で学校一の嫌われ者のヨハン・ゾーム教官と、貴族の令嬢との一騎打ちとなれば、これほど興をそそる催し物もないというもの。

「具合が悪いようですね、教官殿?」彼女は挑みかかるように言った。「今日のあなたは死にかけの豚みたいですよ」

 ゾームはかっとして、彼女を睨みつけた。その顔は怒りのあまり紅潮し、禿げ上がった頭頂部まで真っ赤になっていた。

「お前は無知で愚かなうえ、礼儀知らずだ!」彼はそう言うと、刀剣を大きく持ち上げ、彼女の頭めがけて激しく打ちかかってきた。彼が挑発に乗ることも計算の内だった。ゼリーゼはさっと左に身をかわし、がら空きになった右肘に鋭い突きを見舞った。痛みのあまり、この中年男は鈍いうめき声を発した。

 その後も武術指南役は何度も打ちかかってきたが、もはや最初の鋭い身のこなしは失われ、その動作は荒々しいものとなっていた。この流れは彼女の予想していた通りのものだった。多くの生徒がいる中、ゾームは女に手間取っていると見られるのを恐れ、短期決着をつけてくるだろうことは、初めから彼女の念頭にあった。

 彼女は防御に専念し、左から、右からくる攻撃を注意深く見極め、隙があれば彼の右腕を徹底的に痛めつけた。次第に蓄積する痛みと疲れとが、彼の速度を削いでいくようだった。そして、相手が消耗しきったところを見計らい、彼女は急遽、攻勢に転じた。もはや、ゾームにはそれを受け切るだけの体力は残されておらず、彼が刀剣を取り落としたところで、決着となったのである。

 サーベルの切っ先をゾームに突きつける形でゼリーゼは言った。

「男は剣を振るうための力を与えられたのではなかったですか、教官殿?」

 周囲の訓練生たちがどっと吹き出した。彼らは一世一代の見ものを見たとばかりに、拍手をしたり、口笛を吹いたりしていた。

 ゾームは憤怒と屈辱で醜く顔を歪ませていた。

 このときの勝利の甘美なることを思えば、その後一週間続いた懲罰房生活など軽いものと感じられた。この勝利はゼリーゼにとって、単なる稽古での「勝ち負け」以上のものだった。女性でも剣で大人の男を打ち負かすことが可能だと証明できたのだ。そして、「ゾームの敗北」以降、法学科主席のベルン・モルゲンシュテルンなどの優秀な同期生の多くから、侮れない相手と認知されるようになった。このことは大きな収穫といえるだろう。もっとも、ハンス・ハルトのような愚かな連中は、依然として彼女に対して偏見を抱いて陰口を叩いていたのだが、もはや気にする必要も感じなくなっていた。

 この事件が四年間の貴族学校生活で、一際異彩を放った出来事であったことは間違いない。本業である法学科の勉強は、教科書の条文をひたすら暗記するという無味乾燥なもので、机に向かっては欠伸ばかりしていた。軍事科の内容は、法学科よりも興味深いものだったが、戦史や参謀学などはともかくとして、弾道計算や、測量、地図描画・作図に築城学と、判士の職務に本当に必要なのかと疑問を感じるものも多く、辟易とさせられた。あのような事件があったにしろ、彼女にとっては、剣技、騎乗などの実技科目のほうがよほど面白く感じられたのだった。

 曹長級判士候補試験に合格したのは、三ヶ月前のことである。筆記試験は基礎、軍事、法学の三科目から成り、それに剣技、騎乗、射撃の実技科目が加わる。試験結果は「優」と難なく合格し、判士候補生という肩書きを正式に頂戴した。そして、さらにひと月後、上官たちのお目通りに叶い、ゲスタール王国公安局所属の判士に選抜されたのである。


 宣誓が終わると、そこに立っているのは、もはや青臭い判士候補生ではなかった。採光窓から斜めに差し込む日光に照らされ、彼らのまとう板金鎧が銀色に美しくきらめいていた。その姿は凛々しく、誇らしげだった。我々は今や判士なのである。

 叙任式の締め括りに、マイスター・ティトスは決然とした口調で述べた。

「今、我々は試練に直面している」その厳格とした声色と表情は、先程までの晴れ晴れとした心地を完全に吹き飛ばすかのような、なにか有無を言わせぬ断固たるものが滲んでいるように思われた。

「戦後六十年がすぎ、ゲスタールの近隣諸国との関係は今までにないほど緊迫したものとなっている。ツァン王国の新王は軍事拡張路線を掲げており、同盟国のノルトライヒとは関係が完全に冷え切っている。南にはルシマルクの野蛮人どもが跋扈しており、西部にはラマンダが虎視眈々と構え、依然として我が領土を狙っている。それにもかかわらず、我々は今まで何をしてきたというのか。グランヴィルの奸計により、ヴェルホーメル、クロイツブルクを略取され、北部における地の利を我々は失った。驚いたことに、我々は血を流すことなく、易々と二都市を明け渡した。一滴の血さえも流さなかったのだぞ。〈黒い庭〉シュヴァルツァーガルテンでは未だ古臭い慣習に縛られ、鉄道敷設もままならない状況が続いている。このような愚かなことを、我々は一体いつまで続けるつもりなのか。竜なき今、危機は確実にそこにあるというのに、大方の大衆は目を背けたままだ」

 祝宴の間(フェストザール)には、その華やかな装飾が皮肉であると言わんばかりの、重苦しい空気が垂れ込めた。このティトス・クレーエなる東部人は、判士叙任式の祝賀という慣習を根絶せしめようとしているのではなかろうか。

「俺はこの親父の禿げ頭から目を背けたいよ」隣でハンス・ハルトが呟いた。

「宮廷内には魔導師どもが王族に取り入り、再び我々の良き理性を狂わせ、堕落の道へといざなおうとしている。ゲスタールの将来のため、我々は良心に耳をかたむけ、選択しなければならない。我々はその存在意義を問われ、今、重要な帰路に立っているのだ。果たして、判士とはどうあるべきか。この問いを諸君らへの鼻向けの言葉としよう」

 マイスター・ティトスは軽く辞儀をし、壇上から身を引いた。

(もちろん、剣と秤をもって陛下に仕えるのですよ。それが全てではないですか、総帥殿?)

 叙任式閉会後、休憩を挟んだのちに祝宴の間では、その名にふさわしい華やかな祝賀会が催される。新任の判士たちは儀式用の板金鎧を外し、武官用の正装に着替えていた。分厚い金属板を重ね合わせた板金鎧は信じられないほどの重量があり、立っているだけで相当な体力を失ってしまう。叙任式の間は、ティトス・クレーエの仏頂面と相まって、ほとんど苦行の域に達していた。ゼリーゼも宮殿の控え室に戻ると、女中たちに手伝ってもらいながらこの重苦しい甲冑を脱ぎ捨て、夜会服(ドレス)に装いを改めた。

 彼女はこの日の装いのため、ここ数週間、苦心していた。祝賀会には他の生徒たちと同様、肩章と金糸の刺繍付き袖の、白い上着という出で立ちで臨むつもりであったのだが、そのことで教頭のエステンにたしなめられたのである。彼女は渋々ながらも、白い生地にミツバ模様を飾ったクリノリン・ドレスを身につけることにした。幅広のスカートは幾重にも重なる鯨ひげの輪でふっくらと固定されており、見た目よりは下半身の動きに不自由はしない。

 休憩後、叙任されたばかり判士一同が祝宴の間に入場すると、彼らは親族や貴族学校関係者の暖かな拍手によって迎え入れられた。室内は式典から祝宴の装いにどんでんが返されていた。広間の天井には、真鍮製の腕木を無数に伸ばすシャンデリアが何対も吊り下げられており、蝋燭が耿々と瞬いていた。その柔らかな光に包まれ、純白の壁面にゆらゆらと人影が踊っている。中心部には主役たる新人判士二十名が座る長テーブルが設けられており、その周囲を来賓用のいくつもの円形卓が取り囲んでいた。

 ドレスに装いを改めたゼリーゼは、自分が女性であることを強く意識させられた。広間に入るとすぐ、室内にいる多くの視線が自分に注がれていることに気づいたのだ。肩を出していることがひどく無防備に感じられ、戸惑いと恥ずかしさで引き返したい思いだったが、彼女は毅然とした態度を装った。

(ここで恥ずかしがっていたら、三年間はそのことでハンスに馬鹿にされるわ)ゼリーゼは自分に言い聞かせた。

 次席で卒業のゼリーゼは、主席のベルン・モルゲンシュテルンにエスコートされた。彼はゼリーゼよりひとつ年上の一八歳で、すらりとした長身に、武官用の白い上着がよく映えていた。着座しようとした際、幅広のスカートの裾が椅子のヘリにひっかかりそうになり、かなりの注意を要する作業となった。多くの視線が集まるなか、醜態をさらすわけにはいかない。全員が席に着くと、乾杯が行われ、謝辞が交わされた。

 祝宴が始まってから数時間が経つと、席次に関係なく、判士たちは好きな相手を探しては肩を叩き合ってはしゃいだり、猥談したり、親族と喜びを分かち合ったりしていた。ゼリーゼはすでに数杯のワインを飲んでいた。

「見違えたな。本当にシェーンハウゼンなのか?」

 話し掛けてきたのは、軍事科のヘルマン・フライだった。

 ゼリーゼは高貴な婦人がそうするように、スカートの裾を持ち上げて軽く会釈した。

「こんばんは、新米判士殿。同僚の顔の判断(ジャッジ)もできなくて、どうして判決(ジャッジ)を下せて?」

「そういう物言いは、間違えなく君だな。しかし、こうも変わるものなのだな。君がゾーム教官を倒したときは、性別を偽っているのかと思ったくらいなのに」ヘルマンは悪意のない笑みを浮かべた。

「貴族学校で女性と偽るほど愚かな行為はないわよ」彼女は辛辣な口調で答えた。

「気分を害したのなら、許してくれ」彼の表情から笑みが消えた。「だが、あの件では本当に君が男であればよかったろうにと思うね。彼にとっては、女性である君に負けたがことが人生最大の不幸だったのだからな」

「なによそれ!」彼女はかっとして言い返した。

「女の私が男に勝ることが悪だというの?」

「もちろん、そんなことはないだろう。不幸というのはただの事実だよ」

(ヘルマンは平然とこのようなことを口にする)

「彼は自業自得よ。私をみんなの前で侮辱したやつなのよ」

「しかし、彼は武術指南役としては誰よりも優秀だったし、彼の言ったことも不公平だとは思うが、正論だよ。不幸なのは、あの事件で彼の面目が丸潰れしてしまったことだ。あれ以来、立つ瀬もなくなったゾーム教官は辞職せざるを得なかったのだからな」

「いい気味だわ。せいぜい私に負けたことを墓場まで呪うといいのよ」

 そういいつつも、彼女の頭をよぎったのは、決闘中、ゾームが叫んだあの言葉だった。“お前は無知で愚かなうえ、礼儀知らずだ”

 ゼリーゼはいても立ってもいられない心地となった。ヘルマンは普段は気のいいやつだが、公平すぎるのだ。彼は決して誰の味方でもない。

「ところで君は、自由と平等を標榜する、あのラマンダの熱狂的な運動をどう見る?」ヘルマンは何事もなかったかのように尋ねた。

「一つだけ言えるのは、関わりたくないってことね。あんたと同じように」ゼリーゼは反論を許さない微笑で、彼を睨みつけた。

 それから、彼女は話し相手をアダムやライマーなど他の同期生たちに求め、貴族学校生活の思い出を語りながら、笑ったり、怒ったふりをした。ヘルマンの言葉で傷ついたことを隠すため、普段よりも大げさな振舞いになっていた。意地の悪いハンスは除くとして、同期生たちは大抵、まず彼女の幅広のクリノリン・ドレスを褒め、彼女の外見の変貌振りを会話の種にしたのだった。

 だが、会話が一段落すると、彼らは肉親や男同士の会話に戻っていき、ゼリーゼは他の話し相手を探さねばならなかった。彼女自身の親族はこの場にはいない。貴族学校への入学にいまだ怒りを溜め込んでいる父は、当然ながらこの場には来ておらず、期待していたベンヤミン叔父も、式典に出席した高級判士達のなかにはいないようで、代わりに騎士という肩書きの領民の代表が数名、遠く南のルシマルク地方ルーンヴェルトから参上しているのみであった。彼らとの面識は皆無であり、送られた祝辞の言葉も儀礼的なものだった。

 ゼリーゼは次第につまらなくなり、独りで飲み始めたところをハンス・ハルトにつかまって、ますます帰りたくなっていた。彼はいつも皮肉そうな表情をたたえており、自分以外のすべての人々は愚かだと言わんばかりの話しぶりをするのだった。

「何が試練に直面しているだ」ハンスは毒を吐き出すように言った。「そんなこと何十年も前からそうだったじゃないか。リューベックでルシ人の暴動が起きたのも、ついこないだのことだし、対ノルトライヒ戦の準備ももう何年も前から参謀本部で進んでいる。今は加害者になりたくなくて、お互いに睨み合ってるだけだがな。ああいう暗い運命論者がいるから、高級判士部会がクーの企てなどとあらぬ噂をされる。敵対勢力に付け入る隙を与えるだけだというのに」

「総帥は戦争が近いことを暗に言っているのだろう。おそらく、王子の交渉が失敗したってことじゃないのか?」ライマーが横槍を刺す。

「そんなこと、分かりきったことだろ」聞く耳を持たない、頑とした態度で彼は言い放った。「俺が言いたいのは、そんな試練など糞喰らえってことさ。判士の意義だとか、使命だとか古臭い弁は、判士が高給取りのお役所仕事になった現在では成り立たないさ。判士の起源は王宮と軍部との緊張関係があった時代に由来するのであって、今の時代に存在意義などない」

「そんな考えでよく判士になったわね」思わずゼリーゼは言った。

「忘れてたよ、お前には常識が通用しないんだったな。今のジャッジは戦場でチャンバラごっこなんてしないんだぜ、お嬢さん」彼は馬鹿にするように言った。

「何であんたは判士になったのよ?」

「もちろん給料がいいからさ。退職後の待遇も他の軍士官とは比べ物にならないからな。しかも、前線に立つ必要もなく、身の安全を保証されながら最高の社会的地位を確立できるじゃないか」

 ゼリーゼは呆れて返す言葉もなかった。このような下劣な人間が、なぜ判士に叙任されたのだろう。

「君はとんだ考え違いをしているようだ」長身の男が近づいてきた。「身の安全というが、君は戦史を学んでおらんようだな。先の第二次ルシマルク戦では、判士の多くは前線に送られ、しかも捕虜の中で真っ先に処刑されたのは彼らだったのだぞ」

 ベンヤミン叔父だった。彼は恰幅のよい四十代前半で、人当たりの良さそうな顔に、手入れの行き届いた口髭をたくわえている。彼の白い上着には、佐官級であることを示す肩章(ショルダーノッチ)が縫い付けられ、黒光りする長靴を履いていた。

「叔父さま」ゼリーゼは満面の笑みを浮かべて腰を上げた。「いらしてたのですね。てっきり来られないものとばかり思っていましたわ」

「お前の晴姿を見たい一心さ。おい君ら、姪と話をさせてくれないか」

 ハンスはうやうやしく高級判士に席を譲った。

「これは高級判士殿、軽率なことを口にしてしまいました。少々飲みすぎたのです」彼はライマーを伴って、そそくさと引き上げていった。

「綺麗になったな。最初はどこの貴婦人かと思ったぞ」彼はにこやかに微笑み、二人はほとんど一年ぶりの抱擁を交わした。

「流行りのクリノリンです」彼女は言った。「でも、腰のあたりの締め付けがキツいし、ドレスの骨組みがテーブルにつかえて、どうにも着心地が悪いみたいですわ。これなら板金鎧(プレートアーマ)のほうがまだましなくらい」彼女の冗談に、叔父は愉快そうに笑ってくれた。

「叔父さまも相変わらずご立派なお姿ですわ。さすがは第一王子近衛の高級判士だけのことはありますね」

「見てくれに気を遣うのが仕事のようなものなのでね。それにしても、今の輩がもし交際相手だとしたら、関心できんな」叔父は去っていくハンスを目で追いながら言った。

「まさか」怒っていることを示す口調で言った。「彼と私の関係に、もしふさわしい言葉が見つかるとしたら、それは世に言う鬱屈したストーカーと付きまとわれる女といったところでしょう。叔父さまが追い払ってくれて、せいせいしているところですよ」

「おまえは美人だ。男のあしらい方を身につける必要があるぞ」

「必要なら切り伏せてみせますよ」

「そして失恋男の死体の山が残されるのかな?」

 ゼリーゼはその考えがおかしくて、くすくすと笑った。

「叔父さまも気をつけたほうがいいですよ」彼女は笑いながら言った。「ところで、ノルトライヒとの交渉は成果があったのですか? 近頃は、どこでも戦争が始まるとの噂ばかりです」

「私の立場上、それについて話すことはできないのだよ。ただ、サプライズがあると言っておこう」

「開戦のサプライズなんていやですわよ」

「むろん、もっといいものだよ」彼は微笑んだ。

 一月前、レイナウ川の河口付近でゲスタールの艦船が砲撃されて以来というもの、ノルトライヒとの関係は日増しに険悪となっている。そもそも、六十年前にゲスタールがヴェルホーメル=グランヴィル連合軍からの包囲網を打開するため、ノルトライヒと組んだことがその同盟関係の始まりだった。二百年前にゲスタール帝国が分裂して以来、その一領邦の分際で不遜にも帝国と名乗るこの国家とは、敵対関係にあった時期のほうが長いのだ。 

 バハムート王子はノルトライヒ寄りといわれているものの、この緊迫した情勢のなかでどんな成果をあげることができたというのだろう。彼女には皆目見当もつかなかった。

「意地悪ですね、教えてくださればいいのに」ゼリーゼは拗ねた表情をして言った。

「じき、国中に知れ渡ることさ。それにしても、ハウプトブルク市の宮殿の素晴らしさといったら、いつ来ても感心させられる。さすがに歴史のある町というべきか」

「私には、歴史を学ぶことと同じくらい、この町の面白みも分かりかねますわ」

「つれないことを言うな。どうだ、このあと二人で飲み直さないか?」叔父は魅力的な微笑を浮かべた。

 

 祝宴会が終わり、新人判士たちは帰路へつき始めた。ニムサム宮殿の玄関口では、判士たちと、集まった関係者との間で様々なやり取りが交わされていた。アダムは地方からやって来た両親と抱擁し、「必ず出世します」と父に約束した。ハンス・ハルトは、ライマーやクリスと二次会を計画していそうな雰囲気で、賑やかに話し込んでいる。ベルンの周囲には三人の若い女性が並んでおり、彼は冗談を言って彼女らを笑わせている。

 一方、ヘルマン・フライは箱羽車に乗り込もうとするエステンを待ち構えていた。

「先生は最近のラマンダの動きをどう見られます? 自由と平等を標榜する、あの熱狂的ともいえる運動は、我々にとって危険な兆候を示しているように思えます。その波は、今は限定的なものですが、放っておけば、大陸中に波及する兆しさえ見せているのではないのでしょうか?」彼は執拗に自分の論を聞かせたがっているようだった。

「かつて歴史上、ああいった暴動や一揆というものは珍しくないのだよ。そして、そのどれもが短期間のうちに収束している。それは今までの歴史がよく証明していることだ」貴族学校の教頭は煩わしそうに答えた。

「しかしながら、ラマンダ王家の財政は破綻状態にあり、今までにないほど、その基盤は弱体化して…」

「すまんが、今日は勘弁してくれ。また機会があれば、ゆっくり話を聞こう」彼は従僕にコートを着せてもらうと、御者に命じて去っていった。

 ゼリーゼは宴会での無礼を許してやることにし、去りぎわに「また公安局で会いましょう」と声を掛けた。彼はにこりと微笑み返した。

 貴族学校を卒業し、叙任式が終わった今、彼らは判士運営組織の公安局からの指示を待たねばならない。彼らの多くはベークト市の公安局本部勤務となり、数年後には国内のあらゆる要職に就くことになるだろう。


 ゼリーゼと叔父は箱羽車でハウプトブルクの市街を通り抜け、彼が宿泊するホテルへと向かった。町の主街路沿いには、旧帝都の様々な旧官庁建物が古色蒼然と立ち並んでいる。ガス灯に照らされた道を羽車がころころと進んでいくとき、彼女は数階建てのレンガ造りの建造物に、まるで睥睨されているかのような錯覚を覚え、落ち着かない気分にさせられた。これが叔父の言う、歴史の重さなのだとしたら、それは気分の悪いものに違いない。

 ホテルに到着すると、彼女はホテル内の落ち着いた雰囲気のバーに案内された。

 二人はワインを飲み交わしながら、故郷ルーンヴェルトの家族の近況や、判士に叙任された名家の若者たち、貴族・王族たちの世間話で花を咲かせた。ゼリーゼは叔父の話ひとつひとつに相槌を打ち、愉快そうに声を上げて笑ってみせたりした。彼女にとっては、本当に心から楽しいと思えるひとときだった。

「ところで、お前に渡したいものがあるんだ」

 叔父はそう言うと、おもむろにビロードの箱を取り出した。叔父に促され、ゼリーゼは蓋をそっと開ける。

 中に入っていたのは懐中時計だった。懐中時計は、蓋が本体に接合されているハンターケースと呼ばれるものだ。上蓋には流線模様が彫金されており、シェーンハウゼン家の紋章であるミツバを形作っている。蓋を開け、文字盤を見ると、長針、短針までも意匠の凝らされたもので、繊細で細い針の中央部は、星とミツバ型にそれぞれ細工が施されていた。

「素敵」ゼリーゼは思わず言った。

「ヴェルトマー公御用達の時計職人に作らせたものだ。鎖から外蓋までプラチナを使っている」

 彼女はうっとりと叔父を見つめた。「こんなに素晴らしいものをいただけるなんて、私、感激しましたわ」

「ささやかながら、これが私からの門出の祝いだ。そして、判士就任にあたっての訓戒の意味も込めさせてもらった。“時を制するものは世界をも制す”だ」

「その言葉、覚えておきますわ」

「実を言うとお前には近々私の仕事を手伝ってもらいたいと思っている」叔父は切り出した

「叔父さまのためなら、私どんなことでもいたします」ゼリーゼは即答する。

「そんなことを言うと愚かな娘みたいだぞ。まあともかく、色々と考えたのだが、お前にはベークトの宮中へ出仕してもらうのが最善だろう」

 しばらくの間、ゼリーゼはそのことをどう受け止めたらよいのか分からず沈黙した。

「揶揄されている通り、公安局の実態は組織を維持するための組織でしかない。お前とて、そんなところにいたくはなかろう」

「それはそうですが。それにしても宮廷で一体私は何をすればよいのです?」

「コネクションを作るのだよ。第四王子、つまり、ラーシュ・ゲスタール殿下の軍事的指導と教育という名目で、王家との信頼関係を築いてほしい」

「なぜです? 叔父さまは既にバハムート王子の側近ではありませんか? それ以上のコネクションなど必要なのでしょうか? ましてやあのラーシュ殿下では」

「知っての通り、第一王子が成人してドラッヘンシュタイン城を与えられてからは、そこが王子の本拠となった。皮肉なことに、それは同時に、反対派が我々の影響力をベークト市の王宮から一掃する口実にしてしまったのだよ。第二王子が急速に影響力を強めつつある今となっては、我々には新たな繋がりを作らなければならないという事情があるのだ」

 ゼリーゼは頷いたが、わけがわからない。

(陛下の後継は、間違いなく、長男であるバハムート王子であるはず。なぜ、第二王子のヴァルター殿下が問題になるというの? それにラーシュ王子。芸術と音楽ばかりを好む気性はゲスタール家の男子にしては頼りないと聞いているけれど。いけない、ワインを飲み過ぎたせいで頭が回らない)

 叔父はなおも続けて言った。

「王族の間ですら、取り巻きが代表する利権団体によって、その権力闘争はしばしば複雑怪奇な姿に陥ってしまうもの。私が社交界に身を投じるようになってしばしば思うのだが、そこは社交辞令という仮面を被った、邪な下心を持った連中が跳梁跋扈する世界なのだ。むろん、我々もその住人の一人ではあるのだがな。このような言い方は、王子にご無礼であることは承知だが、高級判士部会にとってラーシュ殿下は、言わば、保険になってもらわねばならない重要人物だ」

「保険? おっしゃる意味がよくわかりませんが」

「今は分からないほうがよいのかもしれん」叔父は言った。「すでに陛下とこの件に関して話はついている。これほど名誉ある職務もなかろう」

(子供のお守りという立派な名誉ですか、叔父さま? 私が欲する名誉とは、隊長と並び騎兵を率いて、敵兵をなぎ払うことですよ)彼女は冷ややかに思ったが、顔には出さないようにした。

「三日後までに支度を整え、ベークト市へ向かうのだ」叔父は命じた。「そして、公安局に必要書類を提出し、軍事裁判籍登録手続きが済んだ後、王宮へ出仕しろ。その後、いっさいの報告は女官長のアンナを仲介して行うように。それ以外の人物は誰ひとりとして信用してはならない。それから、くれぐれも礼を失することのないよう心得ろ。宮中はベークト随一の名門たちが集う場所なのでな」

 叔父は懐から書簡を取り出した。

「これで宮廷へ入れる。こちらから連絡が入るまでは、あちらの指示で動くように」

 ほとんどトントン拍子で事が進んでいることに彼女は狼狽した。叔父は自分の意思など、ほとんど問題にしていないように思えた。しかし、彼は叔父であると同時に、判士として、彼女の上官になったのだ。命令であれば、従わなければなるまい。

「分かりました。ところで、式典中叔父さまはどこにいらしたのでしょうか?」ゼリーゼは唐突に尋ねた。その問には、叙任式に立会ってくれなかった叔父に対する、密やかな非難がそこに含まれていたのかもしれないが、その時はただ、何かその問いが重要なことに思われた。

 ベンヤミン叔父の顔が急速に翳った。ゼリーゼはひどく恐ろしい心地がした。

「いかんな。不意を突かれるとこのざまだ。だから俺は社交界に向いていないのだよ」

「いえ、まずいことを聞いてしまったのであれば忘れてください」

「ある人物と会っていたのだ」彼は憂鬱そうな表情で答えた。「それが誰なのかは言えないが、俺から言えるのは、判士はお前が考えているほど高潔な集団でも、またはその反対でもないということだ。組織というのは人間の集まりであり、百もの間違いや、非道、不正を行うし、一度くらいは、よいことをするのかもしれん」そう言うと、叔父は悲しげに笑った。


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