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序の巻

「…………ここはいつ、いまはだれ、わたしはどこ?」


 どこかの屋敷の一室。

 呆然とした表情で、記憶喪失の定型ボケをかます青年が一人。

 決して、頭がおかしくなった訳ではない。むしろ、一度おかしくなってしまわないと正気を保てそうに無かったからあえてボケてみせたのだ。


 そんな事をするのは、もちろん理由がある。それは――


「……いや、ガチで何処だ此処……?」


――現在地、知らない場所。この一言に尽きる。

 どこかの家屋の一室である、ということはわかっても、内装にも窓の外の景色にも見覚えが無い。

 同じように、自分の服装もまた、覚えの無いものに替わっていた。


 通常であれば、誘拐を連想するシチュエーションだ。しかし、青年は無意識にその可能性を頭の中から追い出している。

 なぜなら、青年には誘拐されるだけの理由も価値も無いから。そう、本人は思っているからだ。

 だからこそ、混乱する頭を落ち着けようと自ら馬鹿な事を言って自己批判をしようとしているに過ぎない。


 心が落ち着いたところでどうするべきか考える青年だったが、その答えは木桶を抱える女という形で向こうからやってくるのだった。


「ああ、よかった。目を覚まされたのですね」


 女は体を起こしている青年を見るなり、安堵の笑みを浮かべてそう言った。

 そして女を見るなり目を丸くした青年を戸惑っているのだと考えて、言葉を続ける。


「あなたは近くの街道で倒れていたのですよ。酷い熱病で、四日も寝ていたのですから」

「道に倒れて……?」


 女の言葉は、青年を更に困惑させた。

 青年の常識からすれば、道端で熱を出して倒れていたなら、救急車で病院に運ばれていなければおかしい。

 青年の財布には保険証が入っていたはずだし、両親も健在だ。そもそも、倒れるほどの熱を出しているなら家の外になど出るわけが無い。


 警報のような幻聴を聞きながら、青年は勇気を振り絞って女に問う。


「そうですか。一先ず、救護と看病に感謝いたします。ですが此処は……何処なのですか?」


 青年の勇気は、打ち砕かれる。


「ここは幽州の遼東郡です。お分かりになりますか?」

「い、え……」


 返ってきたのは、全く聞き覚えの無い地名だった。州などという分類が出てきた時点で、青年の知る日本でないことが確定してしまった。

 だが、日本語――それも現代の日本語が通じている。唇や舌の動きを意識していたから、それは間違いない。

 そこから出る答えは、ただ一つ。


(異世界……嘘だろう?)


 知る事もできない未来か、あるいは平行世界か。そうでなければ、夢なのだろう。

 青年はそう結論付けた。


「申し訳ありません。どうにも、自分の覚えていたことが曖昧になっているようで……」


 だから咄嗟に、嘘を吐いた。証明する手立てがない事はもちろん、もし信じられてしまっても困るからだ。

 だが、女はそれを素直に受け入れる。そうするだけの根拠もあった。


「無理もありません。酷い熱でしたから……」


 本心からの純粋な心配を受けて、青年の心は痛む。だが、右も左もわからない場所で生きていくための必要悪だと、割り切ることで痛みから目を背けた。

 そんな青年の心中は知る由も無く、女は木桶に溜めた水に使っていた布を取り出し、固く絞った。


「動けるようでしたら、こちらで体をお拭きになってください。その間に、何か食べるものを用意いたしますから」

「ありがとう、ございます……あの」


 布を受け取り、部屋を出て行く女の背に、声を掛ける。


「お名前を、教えていただけますか?」


 青年の問いかけに、女は「あらあら」と呟いて姿勢を正すと、青年に向かって微笑んだ。


「姓は公孫、名は賛。字を伯珪と申します。すぐに戻りますから、お話の続きはその時にしましょう」


 そう言って、女は去っていった。

 残された青年はその背を見送り、声が届かない距離になったと判断したとき、一言こぼす。


「公孫賛……しかも字? すると何か、三国志のパラレルだとでも言うのか?」


 更にもう一言。


「でも、(ひじり)だよ、な……?」



 白のワンピース、袖に飾り紐を巻いた黒い上着。

 柔和な表情、物腰。行き倒れを担ぎ込むような人の好さ。

 何より、紫のグラデーションが入った特徴的過ぎる金髪。

 『裏地が赤い黒のマント』こそ付けていなかったが、見間違えようはずもない。


 公孫伯珪を名乗った女の姿は、どこから見てもSTG【東方星蓮船】の6ボス、(ひじり)白蓮(びゃくれん)その人だった。


 ありえない名前、ありえない性別、ありえない様式、ありえない容姿。


 自分の身に何が起こったのか、自分はどこに居るのか、彼には何もわからなかった。わからなかったので――


(よし、この問題は今後無視する。決定)


――考えるのを止めた。


『解決できない問題は放置して、解決できる問題に向き合う』

 ペーパーテストの基本にして、現実の不条理に対しても相応に有効な考え方である。

 何が起きてこうなったにせよ、生きている以上は過去ではなく未来の問題を解決しなければならない。

 だったら、過去に何があったのかなんて『どうでもいい』。


 そうして、取り急ぎ必要なものについて考える事にした。

 まず思い立つのは現在地の情報。彼が暮らしていた21世紀の日本と現在地とのつながりは、限りなく皆無に近いと考えられる。地理、文明、文化、タブー……知るべき事は山ほどある。

 そして活動拠点。この地域に留まるにせよ、この世界を彷徨うにせよ、野宿では支障が多すぎる。


 そのためには、この世界の通貨が必要だ。文無しでは身動きが取れない。

 通貨を得るためには、何らかの活動をしなければならない。

 道すらも知らないのだから犯罪は論外。

 労働で賃金を得るなら……『不自然ではない名前』が必要だろう。


(この世界が三国志のパラレルだとしよう。その場合、田淵(たぶち)熊二(ゆうじ)なんて日本名をそのまま名乗っても、マトモに通じるとは思えない。原則は姓で一文字、名で一文字、字は二文字。訓読みは出来ない。

 でも、音読みにしてそのまま分割するのは変だ。ここがそうかは知らないが、俺の知ってる三国志じゃ名は呼ばないのが基本だったから、『田 熊二』って呼ばれる事になる。それに、昔の漢数字で2は『弐』のはずだ。

 じゃあ、『二』を外して、『淵』を字に持っていく。そうすると『淵熊』。『デン 淵熊エンユウ』か。うん、悪くない。

 欠けちまった名は……『渇』にしよう。熱のせいか、喉が渇く。だから『渇』)


 名前を定めた青年は一つ頷くと服を肌蹴て、公孫賛が置いていった桶と布に手を出した。

 布を手にとって、桶に張られた水を覗き込む。

 水面から見つめ返すのは、いつもと変わらない自分の顔。


 そのはずなのに、どこか別人を見ているような気がして。



 彼は寂しげに笑った。


(今はお休み、『田淵熊二』。しばらく宜しく、『田渇』『田淵熊』……)






 公孫賛を名乗った女が粥を持って戻ってきたのは、田渇の体が自然乾燥し終わる頃だった。

 冷めてしまう前に、と勧める公孫賛に、猫舌だと苦笑いを返した後、田渇は床の上で座りなおし、改めて深く頭を下げた。

――床から降りなかったのは、公孫賛が押し留めたからである。


「改めまして、伯珪様。この度は、手前のような行き倒れを救って頂き、まことに有難うございます。

 手前、姓を田、名は渇、字を淵熊と申しまして、故郷と親類を失い、当てもなく彷徨っていた身。

 情けなくもお返しできるものを持たぬ身でありますが、この大恩、決して忘れません」


 一人称のせいで時代がかってしまう物言いから、平然と重要な部分を除外した自分の舌に、田渇は内心で苦笑いをする。

 だが、異世界人です、1800年以上未来の外国人です、などと告げるくらいなら、人種的類似点を利用して立場を偽るほうがマシだと信じていた。故に、表に出す事はなかった。



 一方、公孫賛は田渇の言葉にひどく心を痛めた。田渇の言う『故郷と親類を失った』を『盗賊の類に襲撃されて一人生き残った』と解釈してしまったのだ。

 冷害や日照りなどの天災、官僚が課す過剰な税、そして異民族の弾圧。さまざまな要因によって諸人の生活は日々脅かされ、その圧迫から逃れるように盗賊へと身をやつしていく者は後を絶たない。

 そして罪人は罪人を呼んで集団となり、集団が興す大規模な被害は新たな盗賊を生んでいく。

 田渇もまた、そういった経緯で孤独になってしまったのだろうと、彼女は受け取ってしまった。


「それは、その……大変でしたね」


 たった一言。掛ける言葉が見つからず、不適切と思いながらも何とか搾り出したその一言が、見えない槍となって田渇の心を滅多刺しにしている事実を、彼女は知らない。

 なぜならその痛みは田渇の『嘘』に基づく罪悪感だからで、『嘘』を知らないが故に、次の言葉へと続けることが出来た。


「でしたら、私の下で働いてくださいませんか?」

「……は?」


 心の痛みで暗い顔をしていた田渇は、目を丸くして間抜けな声を上げるくらいしか出来なかった。

 そんな田渇の反応が面白かったのか、公孫賛は笑顔になって両手を叩き合わせた。


「私、もう少ししたら太守に就任する事になっているのです。ですが、伝手がなくて人手を揃えきれていません。ですから、あなたに助けていただきたいのです」


 その提案に、田渇は驚いた。出会ったばかりの不審者を抱きこむという点はもちろん、太守と言う地位には余りにも公孫賛が若すぎた事にも。


 信じられない、という表情で、田渇は改めて公孫賛の顔を見た。まじまじと見た。

 公孫賛は笑顔のまま、小首をかしげる。それでも田渇は彼女の顔を見ていた。そりゃもう穴よ開けと言わんばかりに。

 やがて公孫賛の笑顔に戸惑いが混ざり、『何か変な事を言ってしまったかしら』と言いたそうな不安げな顔になり、オロオロし始めたところで、田渇はそれを直視できなくなった。


……なんだこの眩しさは! これが法の光か!

 などと心中でオーバーリアクションを取る自分にどこか呆れながらも、彼は深々と頭を垂れた。


「財も学も才も持たぬ我が身で宜しければ、是非ともお使いください」


 そう応えた時の公孫賛の涙交じりの笑顔は、無上の至宝として田渇の脳内に永久保存されることになる。

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