商人と傭兵編 5
これまでのあらすじ
いつも重装備の傭兵スバル。
そんなスバルが鎧を脱いだ状態を、カイルは偶然目撃する。
だが、姿を現さない声だけの男との不穏な会話も聞いてしまい、しかもそれに気づかれる。
逃げ出そうとしたカイルの首に、黒い刀身が振るわれた。
黒い刀身は、カイルの首の皮の手前でピタリと止まった。
「…カイル君だったか」
首筋に当てた剣を退けぬまま、スバルが呟く。カイルは何も言えなかった。思考は働かず、『逃げろ、この剣から離れろ』と本能だけが告げるものの、それすら眼前の黒い刀身の威に呑まれ、ねじ伏せられている。
「話を聞いてしまったみたいだね」
残念そうにスバルが告げる。
『ま、聞かれちまったら仕方ないしなぁ?食っちまうしかないよなぁ?』
姿の見えぬ男の声が今度はすぐそばで聞こえた。その声に滲んでいるどす黒い歓喜に触発され、カイルの思考がわずかに動く。
死ぬ。殺される。
言葉にして理解した途端、全身から力が抜ける。足先から砕けそうな絶望の中、カイルが立ち続けられたのは何故だったのだろう。
「墨染、黙ってて」
『おい、ちょっと待て。こいつは俺達の会話を聞いてるんだぞ!?まさか生かしておくなんて考えを』
「黙れっ!」
夜の森にスバルの声が響く。その小柄な体躯が荒く息を吐くのを、現実感のないままカイルは眺めていた。死ぬのは俺なのに、どうしてスバルさんが苦しそうなんだろうか、と思いつつ。
十数秒後、呼吸を落ち着けたスバルは徐に剣を手元に引き寄せた。鞘のないため刃はむき出しなものの、腰に剣を下げる平常の形に戻る。同時に、夢から覚めたようにカイルの意識も鮮明になる。
「ス、スバルさん」
「…ごめんね、カイル君。ちょっとそこに座って話そうか」
巨木の根元を指差してスバルが言った提案を、カイルは黙って受け入れる。剣を向けられた恐怖は残っていたもののスバルからは害意を感じられず、それに彼には分からないことが多すぎた。
背中を乾いた質感に預け、カイルは左隣に腰を下ろしたスバルを見る。例の黒い剣を体から放すように遠間において、傭兵は目を閉じたまま小さくため息を吐いていた。
鎧を脱ぎ捨てた薄い衣姿は意外なほどに細く、靭さや瞬発力を想起させるが、それ以上にか弱さを思い起こさせるのが彼には奇妙なことだった。
「…今僕たちが座ってるこの木は、僕の故郷で『イイラズ』って呼ばれてる木でね」
しばしの沈黙の後、背後の木にそっと手を添えつつ、スバルはそう語り出した。
「幹が太いのと、葉の形が丸みを帯びてるのが特徴なんだ。大きく育つ木だから、森の中でもよく目立つんだ」
「イーラズ?」
「イ・イ・ラ・ズ。こいつの葉を体にこすりつけると虫や病を寄せないって言われてて、大事にされてたんだ。出来るだけ木の上のほうの葉を使うと効果が高いとも言われててね」
説明するスバルの目は、遠い故郷に向けられているのか、幸福な過去に思いを馳せているのか、愛おしげに細められていた。
「薬用になるほどの効果はないんだけど、いい食事や清潔な寝床が確保しにくい旅路の時には、コイツの葉っぱがあれば元気でいられる、かもしれない。さっき僕がこの木に登ってたのも、それが理由。君も気が向いたら試してみるといいよ」
「あ、はい…ありがとうございます」
カイルは気後れしながら礼を言い、巨木を改めて見上げる。夜空を衝く大樹はどこまで高さがあるのかも分からない。スバルが切り取った枝葉の隙間から、まだ暗さを湛えた空と僅かな星が覗いて見えた。
「僕が教えられるのは、ここまでだ」
不意にカイルに向き直り、改まった様子でスバルは告げた。
「『なかなか寝付けない僕が、不寝番の君を無理やり誘い、故郷の木の事を勝手に教えた』。そういうことにしてくれ。それ以外、君はここで何も聞かなかった、と」
即答できず、カイルは黙ってスバルを見つめる。二つの黒い瞳が真っ直ぐカイルを見つめており、居たたまれなくなり彼は視線を逸らした。
それをどう解釈したのか、スバルの表情が曇る。
「…そうだな。忘れろと言われても、忘れられるわけがない。ただ…もし誰かに喋ってしまうというのなら…」
スバルは僅かに躊躇してから、言った。
「僕は君を、殺さなければならない」
「…」
決定的な発言を受けて、先ほどの光景が彼の目に浮かぶ。腰の剣を抜く暇もない、抜こうという思考すら間に合わない速度の剣筋。その気になればいくらでも彼の命を奪える、圧倒的な力。
ただ、それに屈するのは、カイルには出来なかった。
カイルは逸らした視線を戻し、正面からスバルを見据える。
「…それが脅しだったら、俺は受け入れられません。『商売は真実を常に』と、親父に教わりましたから。あなたの剣は怖いですが、自分を曲げてしまうほうが、耐えられません」
彼の強い言葉を聞き、スバルの目が泳いだ。
「俺を殺したいのなら、どうぞ。ただ隊商の皆には、危害を加えないでください」
それだけ言うと、カイルは目を閉じる。途端に、様々なイメージが混然となって彼の脳裏に溢れる。小さく体が震えだすのを止めることも出来ず、叫びだしそうな衝動をかろうじてこらえる。
永遠とも思えた数秒の後、スバルが口を開いた。
「分かったよ。君の覚悟は。僕の話し方が悪かったから、訂正させてくれ」
カイルはゆっくりと目を開きスバルを見る。
「お願いだ。ここで見たこと、聞いたことは、誰にも口外しないと約束してくれ。頼む」
「…約束、ですか?」
「うん。約束さえしてくれれば、僕も君に何もしない。だから、頼む」
『約束』という言葉が伴う幼さに戸惑うカイルだったが、スバルの口調は真剣そのものだった。
「…口約束なんて、すぐに破るかもしれませんよ?」
「そこは大丈夫。カイル君のことは信用しているから。君は約束さえしてくれればきっと守ってくれる」
意外な返答に、彼はまた戸惑う。
「まだ出会って十日も経ってないんですよ?俺を信じる根拠とかあるんですか?」
「無いよ。ただ、君は裏切らないでいてくれる気がするだけ。それに、よく言うだろ?『商売は信用が第一』って。君はいい商人になりそうな気がするんだ」
カイルは思わずまじまじとスバルを見つめるが、さっきと変わらぬ双眸が彼を真摯に見つめ返しているだけだった。
(そんな事を真顔でよく言えるよ。約束するしかないじゃないか)
「…分かりました。ここで聞いた一切を口外しないと誓います。ただ、スバルさんも一つ約束してください。俺たちの隊商全員に危害を加えない事を」
「分かっている。君たちを害するつもりはない。…やはり墨染との話は聞いてしまってたんだね」
悲しげに一言付け加え、スバルが土を払って立ち上がる。だがスバルの口に上がった聞き慣れぬ名に、カイルの眠っていた疑問が刺激されていた。
「…あの、墨染って誰ですか?さっき話してた人ですか?他のことも、やっぱり説明はしてくれないんすか?」
「さっきも言ったけど、教えられないんだ。それに君には、秘密も既に一つ知られてしまってるからね。この秘密も人にバラしちゃだめだよ?」
「秘密?」
「…もしかして、気付いてない?」
そう尋ねられるが、姿の見えない男との不穏な会話以外に、カイルに思い当たるものはなかった。首をひねる様子を見て、スバルの顔が怒るとも呆れるともつかない表情を浮かべる。
「まあ…気付いていないのなら、別にいいんだけどね、別に…こんな近くにいるのに…暗いからかな…?」
何故か気落ちした様子を見せるスバルに戸惑いつつ、カイルも遅れて腰を上げる。
「…そろそろ戻りましょうか。みんなと離れて少し時間も経ってますし」
「分かった。先に行ってて。僕は鎧に着替えてくから」
「分かりました。…剣にも、布巻いといて下さいね」
「ああ…さっきはごめんね、驚かせて。もうこれは向けないから」
申し訳なさそうに言い、早速スバルは黒い剣に布を巻き付け始める。それを横目に見つつ、カイルは夜営地へと歩き出した。
(…一体、なんだったのだろう)
首筋に一瞬触れた切っ先の冷たさは鮮明に覚えているものの、今こうして何事もなかったかのように歩いている自分。現実感の無い不連続な経験は、まるで夢のようだった。
(本当に、スバルさんと木の話をしただけだったりして)
そんなことまで考えつつ、何気なく後ろを振り返る。
すると、彼に背を向けたスバルが着込みに着替えるところだった。薄い衣が脱ぎ捨てられ、傷一つない背中が露わにされる。
それを見た途端、上手く説明できない何かを感じて、彼は慌てて視線を戻した。
自分自身の反応に戸惑いつつも、彼は足を速めて夜営地に戻る。
鈴の音と共にスバルが戻ったのは、少し後のことだった。
読了ありがとうございました。