時計
お題「時計」で書いてみました。
ハリコが、出て来た。
部屋の扉を開けて、ぼーっと突っ立っている。
開け放たれた扉の向こうにハサミと散らばった髪の毛が見えた。鈍い日に照らされた金色の混じる黒髪はボサボサで、赤く腫れた目は静かに俺の座る十畳のリビングを見渡している。いつ見ても着ているカーキ色のモッズコートはくしゃくしゃになっていて、所々に点々とシミが出来ていた。
手の中に収められた黒いケータイがぎりぎりと小さな音をたてている。ハリコからは息遣いしか聞こえてこない。さっきまで聞こえてた雄叫びが嘘だったみたいだ。
「姉ちゃん……?」
返事はない。息をつめることも指先が動くこともない。
名前を呼ぶ。やっぱり身じろぎもしない。
「……ハリコ?」
振り向いた。ハリコの針みたいな視線が体に突き刺さる。ボサボサの頭から金と黒の髪が散った。
「ああ、お前か」
形のいい唇が動く。少し掠れたハスキーボイスは濡れているように感じた。
「久しぶり、錘」
「久しぶり、ハリコ」
俺は毎日声をかけてたんだけど。
姉の中に自分が全く居なかったというのは少し悲しい。昔は仲良かったし。
「腹減った。食べるもの、あるか?」
今までずっと引きこもって何かを考えていたせいか、ものを食べた感覚がなかったらしい。
――答えは、出たのだろうか。
「じゃあ俺なんかつくるよ。待ってて」
「おう」
立ち上がって隣接したカウンターキッチンに向かう。たしか野菜と中華麺があった筈だ。焼きそばでも作ろう。
冷蔵庫から人参やキャベツを取り出す。肉はない。ちくわでも使うか。
「肉、食いたいな」
「…………」
ごめん、ない。
ぽつりと吐き出されたハリコの呟きに若干のプレッシャーを感じながら人参の皮を剥く。ごわごわするから苦手だったな、と二年前の姉を思い出した。
ピーラーを動かすとオレンジ色のそれが流しに落ちていく。休日の昼間からなにやってんだ。
いつの間にかハリコはローテーブルに肘をついてテレビを見ている。遮光カーテンのかかった暗い室内に、情報番組だろうか、コメンテーターの明るい声が響く。
ハリコの前には錆びた古い懐中時計が置かれていた。たしかハリコの先輩のものだ。壊れて針の進みが異常に早かったのを覚えている。
なんだか、嫌な気分だ。
逃げるように時計から視線をずらすと、戸棚に貼った懇談会に関する手紙が目に入った。そういえばもうすぐだ。また教師に呆れ顔をされるかと思うと気持ち悪くなってくる。
「錘、進路決まった?」
驚いた。まさかハリコからきかれるとは。
「……まだ」
ぼそと言うと「ふーん」とだけ返ってきた。「まだ」と言うことはいつか決めなければならない。
その時なんか、来なければいいのに。自分で自分の首を絞めてる感じだ。
止まっていた手を動かす。時間が進み俺の手が動くたび人参は剥かれていった。時間が進むたび、包丁が動くたび、一つだった人参がいくつにもなっていく。不思議だと思った。
「まだ?」
「まだ」
相当腹が減ってるらしい。ぴしゃりと言うと押し黙った。
切り終わった人参をボウルに入れてキャベツをちぎる。あとはちくわともやしか。
「なあ」
かけられた声にキャベツをちぎっている手を止める。
「なに」
ハリコを見ることはしない。ただ手を止めて言葉を促す。
「歯車先輩が、死んだんだってさ」
押し出すような声。ハリコのこんな声は久しぶりだ。
「そう」
また手を動かす。
「二年だ。二年、眠ったまま頑張ってたのに。一昨日、あっさり死んだんだってさ」
ちぎり終わったキャベツもボウルに入れ、袋からちくわを出して適当に切る。
ふと暗く感じて窓を見た。曇ってきたみたいだ。流しの電気だけをつけて調理を続ける。
「先輩な、時計を憎んでたんだ。この懐中時計も、ケータイのデジタル時計も、目覚まし時計も」
切り終わったちくわをボウルに入れてフライパンに油をひくと火をつけた。温めてる間にもやしと麺をほぐしておく。
外はさっきよりもどんどん曇ってきた。洗濯物は大丈夫だろうか。
「あたしは、先輩とした約束を守れなかった。なんで先輩が時計を憎むのか、答えをみつけて一緒に止めるって、約束したのに」
ハリコは泣かない。もう枯れてしまったのか、我慢してるのか、俺にはわからない。けど、その声はひどく落ち着いていた。
温まったフライパンに野菜とちくわを入れて炒める。水分の蒸発するような音がして、仄かに甘い匂いが漂い始めた。
「――もう、答え合わせは出来ないんだな」
ぽつ。ハリコの言葉が吐き出された。
中華麺を入れて塩胡椒をふる。さっきよりも菜箸にかかる食物の重みが腕に伝わった。
適当に炒めてソースをかける。ばちばちという焼ける音、香ばしい匂いが耳や鼻をくすぐった。
火を止めて大きめの皿に盛ると、麦茶を注いだコップと木製の箸も持って湯気ののぼるそれを姉に持って行く。
黙ってしまった姉の背中がやけに小さい。
情報番組は終わって、浮気だなんだとドロドロしたドラマが流れている。わめき立てる女優の声がうるさい。
「ハリコ、出来たよ」
そういえばこのハリコという名前も先輩がつけたものだった。針みたいな目だからって理由で。やっぱりあの先輩は姉の大半を占めているんだ。
「ああ、ありがと」
自然な笑みを向けてくるハリコの前に焼きそばを置く。
「うわ、うまそ」
素直に喜ぶように笑い、箸を持った。
「いただきます」
「めしあがれ」
がつがつと食いつくハリコ。……喉詰めそう。
「ちょっと錘、人参固いよ」
「大丈夫、人参スティックとかあるから」
「味の問題だっての」
作ってくれたんだし文句は言わないけどさ、とぼやく。や、もう言ってるし。
「ハリコなら味なんか気にしないでしょ」
「お前、あたしを何だと思ってんだよー」
からから笑ってまたがっつき始める。ほんと喉詰めなきゃいいけど……。
「っぐ!?」
「ああもう」
言わんこっちゃない、と背中をさする。ハリコの目から生理的な涙がこぼれた。
「えほっ、がはっ……は、はー……」
大袈裟に咳込み過ぎだ。
「大丈夫?」
「ん、死ぬかと思ったけど――」
大丈夫、と繋げるつもりだっただろう言葉は消え、ハリコの目から次々と涙がこぼれだした。
なんで? という表情で俺を見るハリコ。いや、見られても。
とりあえず。
「泣きたいなら、泣けば?」
本当に、手のかかる姉をもったものだ。
「――――っ」
徐々に小粒から大粒にかわる涙。嗚咽も飲み込むのはこの姉なりの強がりなんだろう。
コートの袖をぐしょぐしょにしながら次から次へと涙をこぼす。ぐっと閉じた目はどんな感情を映してるんだろうか。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、ハリコはいきなり目を見開いた。眉が釣り上がっている。
「く……っ」
「く?」
「くっそ――――!」
何を思ったのか再び焼きそばにがっつき始めた。それも口いっぱいに頬張って。食ってむせて泣いてを繰り返すハリコは、傍から見れば滑稽だった。
顔なんか涙と鼻水でぐちゃぐちゃだし、焼きそばのソースで口の周りベタベタだし。
俺はそれを、終わるまで眺めた。
焼きそばを完食したハリコは、ぽつぽつと言葉を漏らしだした。右手には針の進みが異常に早いあの懐中時計が握られている。錆びて鈍く光る縁がハリコの髪と似てると思った。
「先輩は、時計を憎んでた」
ハリコの影を纏った視線が懐中時計に注がれる。針のようなそれは雰囲気になって室内に充満し、俺の体を刺した。
「事故に遭って眠ってからも時報や時計の動く音をきくと、眠ったまま悶えて体中を掻きむしってた」
ハリコの眉がひそめられると、刺す雰囲気が強くなった気がする。
窓の向こうではいつの間にか雨がしとしと降っていた。
「あたしはな、錘、わからないんだ。歯車先輩が時計を憎んでた訳も、憎んでるのにこの懐中時計を持ってた訳も。――なにも、わからないんだ」
テレビでは進学塾の特集をやっている。受験生たちがテレビの向こうで必死に勉強していた。
時間は、戻らない。
ただ流れ過ぎていくだけで、生物が誕生する前から存在を知覚されることもなく、あった。人が生まれなければ名付けられることも確認もされなかったのに、俺たちの暮らしを左右する。
――ああ、そうか。
「時間が、嫌いだったんじゃない?」
「え……?」
ハリコの目が懐中時計から俺に向く。刺す雰囲気が柔らかくなった。
「いや、嫌いっていうより怖いかな」
「怖い……?」
ハリコの目に困惑が宿る。視線が左右に動いてなにかを思い出そうとしているようだ。
「時間は後戻りしてくれない。確実に進んで、避けたいことにも直面させる」
時が経てば水も干上がるし生き物は老いる。所詮膨大な歴史のなかのほんの一分であることを思い知らされてしまう。例え世界が滅びても、時間だけはかわらず流れるんだ。
「そんな怖いものの存在を明確に示す時計は、歯車さんにとって諸悪の根源でしかなかったんだよ」
怖いものから目を背けるのは俺だってやることだ。現に俺は今、時計が怖い。まるで俺自身の期限を示されているみたいだ。急かすような針の音に、何度血の気が引いたことか。
「じゃあ、なんで懐中時計なんか……」
ハリコの声が響く。震えもせず落ち着いた声。
「歯車さんがそう思ったかは知らないけど、代替品、とかかな」
針の早く進む時計。異常とすら言えるほど早く進むそれを止めることができれば。それは時間に勝ったような錯覚すら与えてくれそうだと思う。
「そうか……」
呟いたハリコはのろのろと立ち上がり、ドライバーを持って戻ってきた。テーブルの上に置かれた懐中時計を前に膝をつくと。
「――――――――っっ!」
カーキ色のモッズコートが懐中時計を殴った。その中に握られたドライバーが時計のガラスカバーにめり込む。抉るようにドライバーを動かすと振り上げ、また殴った。
俯いて吠えながらその作業を繰り返しているハリコを横目に俺は立ち上がり、洗濯物を取り込みにかかる。放置していたそれは雨にうたれて干す前よりも濡れていた。
暗い部屋の中からはまだ吠える声がきこえる。近所迷惑になってないだろうか。
Tシャツやスエットを片手に室内に戻り、洗濯機に放り込んでおく。
十畳のリビングに戻って部屋の電気をつけると真っ暗に近かった部屋が明るくなって眩しかった。
視線を動かすとテーブルの前ではハリコが肩で息をしていた。辺りにはガラス片やネジなどの部品が散らばっている。
「終わった?」
振り向いた顔は力無く笑い、「おう」とだけ返事をした。
外で、雷が鳴った。
「錘」
今日から通う工業高校の制服に身を包んでいると、外から姉の声がした。
「姉ちゃん? どしたの」
短く整えた髪を揺らし、姉が入ってきた。カーキ色のモッズコートが日差しを浴びて温かみを帯びている。
「学ラン似合ってるな。今日転入だろ? お守り持ってきた」
そう言って差し出された青いフェルトの小袋には、なにか固いものが入っていた。指の感触で確かめる。円く平らなところから突き出た棒には螺旋が彫られている ようだ。
「手作り? サンキュ」
「どういたしまして」
笑って礼を言うと、姉も薄く微笑んだ。針みたいな視線が日に照らされる。
「じゃあ、行ってきます」
お守りを胸ポケットに入れ、かばんを握る。
「いってら」
俺は、時計を見た。
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