第八話:「天才軍師は山に住む──三顧の礼、禿鼠流」
永禄十年(一五六七年)、秋。
「断られた」
藤吉郎は、泥だらけの草鞋で帰ってきた。
小一郎が水を差し出しながら、ぼそりと言う。
「……一回目やろ。当たり前や」
「わかっとるわ、そんなこと!」
◇
話は、一月ほど前に遡る。
墨俣の砦が美濃攻めの拠点となり、稲葉山城を陥落させた後。
信長は上機嫌で、藤吉郎を呼んだ。
「禿鼠、一人欲しい男がおる」
「どなたで?」
「竹中半兵衛」
藤吉郎は、眼鏡の奥でナニワの光が揺れるのを感じた。
『……っ』
(ナニワ、今息呑んだな?)
「知っとるんか、ナニワ」
思わず呟く。
小声だったから、信長には聞こえなかったようだ。
信長は続ける。
「稲葉山城を十七人で落とした男じゃ。生意気にも俺の召し出しを断りおった。今は山に引っ込んどる」
「……山に?」
「近江の菩提山じゃ。学問をしておると言うてな。お前が口説いてこい」
「……わたくしがですか」
「猿より頭のいい奴には、頭のいい使者を出したいところだがな」
「じゃあわたくしは頭がいいんですか、それとも悪いんですか」
「両方だ」
(どういう意味だがねっ!)
◇
菩提山。
山道を一刻(約二時間)ほど登ると、粗末な草庵があった。
縁側に一人の男が座っていた。
年は二十三か四。
色白で線が細い。
絵本の貴公子みたいな顔をしているが、目だけが異様に鋭い。
本を読んでいた。
藤吉郎が近づいても、顔も上げない。
「……竹中半兵衛どのですか?」
「そうですが」
「木下藤吉郎と申します。織田信長さまのご家中の」
「知っています」
また本に目を戻す。
(知っとるんかい!)
「あの……お話を」
「お断りします」
「まだ何も言うてないですが」
「織田家への仕官の話でしょう。お断りします」
「……なんでですか?」
半兵衛は、初めて本から顔を上げた。
静かな目だった。
怒っていない。
ただ、揺るがない。
「私は仕えたい人がいれば仕えます。仕えたくない人には仕えません。それだけです」
「信長さまは……」
「素晴らしい方だとは思います。ただ、私には合わない」
「合わない、とは」
「うるさいので」
藤吉郎は、絶句した。
(う……うるさい!? あの信長さまが!?)
半兵衛はもう本を読んでいる。
(これは……手強いがね)
◇
草庵を下りながら、藤吉郎はナニワに聞いた。
「ナニワ、お前さっき息呑んだやろ。竹中半兵衛のこと、知っとるんか」
眼鏡の光が、ゆっくりと瞬いた。
『……はい。彼は、天才です』
「どのくらい?」
『私が演算で出す結果を、直感で出す人間です』
藤吉郎は足を止めた。
「それは……とんでもないがね」
『はい。私のデータが及ばない「人の心を読む力」を持っています。そういう人間は、非常に稀です』
「だから信長さまも欲しがっとるんか」
『それだけでなく……』
ナニワが、少し間を置いた。
『彼には、長くない命が残っています』
「……え」
『体が弱い。肺の病です。おそらく、あと十年余り』
藤吉郎は、山の上の草庵を振り返った。
縁側に、小さな人影。
(あの人が……)
『だから自由に生きたいのだと思います。残り少ない時間を、好きなように』
藤吉郎は、長い間立っていた。
◇
二度目。
一月後、再び菩提山を登った。
今度は手ぶらではない。
中村の畑で取れた里芋と糠漬けを持ってきた。
「土産です」
半兵衛は、少し目を丸くした。
「……なんですか、これ」
「うちの家で漬けた糠漬けと、故郷の里芋です。山暮らしじゃ野菜が少ないやろと思って」
「仕官の話は」
「今日はしません」
また沈黙。
半兵衛は糠漬けを一口食べた。
「……美味しいですね」
「でしょ。うちの漬け物がこの世で一番上手いんですよ。ちぃと塩気が強めなんやけど、それがまた」
「……あなたは変わった使者ですね」
「よく言われます」
半兵衛は、また本を開いた。
だが今度は、追い払わなかった。
藤吉郎は縁側の端に座って、山の景色を眺めた。
二人して、しばらく黙っていた。
(ええ男やなぁ)
(死ぬのが、もったいないがね)
◇
三度目。
雪が降り始めた頃だった。
半兵衛は、藤吉郎が来るのを見ると、珍しく立ち上がった。
「今日は中に入ってください。寒いでしょう」
「……ありがとうございます」
囲炉裏端に向かい合って座った。
しばらく、二人して火を見ていた。
半兵衛が、先に口を開いた。
「あなたには、変なものが見えます」
「……え?」
「その眼鏡です。普通の眼鏡ではないでしょう」
藤吉郎は、固まった。
(気づかれとる……!)
半兵衛は静かに続ける。
「稲葉山城が落ちた日、私は遠くから見ていました。あなたが荷駄隊を動かす様子を。普通の人間には見えないものを見て、聞いて、判断していた。なぜか? ずっと考えていました」
「……」
「その眼鏡が、喋るのですか?」
藤吉郎は、観念した。
「……喋ります」
「名前は?」
「ナニワ、と申します」
半兵衛は、少しだけ目を細めた。
そして眼鏡に向かって、静かに言った。
「はじめまして、ナニワどの。私は竹中重治です」
眼鏡の奥で、光がほわりと揺れた。
『……はじめまして、竹中半兵衛様。お会いできて光栄です』
長い沈黙。
半兵衛が、藤吉郎を見た。
「お仕えします」
「……え?」
「木下様に。信長公にではなく、木下藤吉郎様個人に」
「それは……どういう」
「面白いから、です」
半兵衛は、初めて笑った。
ほんの少し。
だが確かに、笑った。
「あなたと、その眼鏡と一緒なら、つまらない死に方はしなくて済みそうだ」
◇
山を下りながら、藤吉郎は叫んだ。
「来てくれるってよ、ナニワ!!!」
『存じています。私もそこにいましたので』
「わかっとるわ! でも嬉しいもんは嬉しいやがね!」
雪の中で、一人でぴょんぴょん跳ねる。
傍から見れば、完全に変な人だ。
でも構わない。
(竹中半兵衛が来てくれる)
(天才軍師が、俺のそばに)
ナニワが、静かに言った。
『藤吉郎様』
「なんや」
『半兵衛様は……長くは生きられません。それを知ったうえで、共に歩んでください』
藤吉郎は、立ち止まった。
雪が、静かに降り続けた。
「……知っとる」
「でもな、ナニワ」
「短うても、ええ生き方があるやろ」
「俺が、それを一緒に作ったる」
眼鏡の光が、雪の中でゆらりと揺れた。
『……はい』
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永禄十年(一五六七年)冬。
竹中半兵衛、木下藤吉郎に仕える。
天才軍師と、禿鼠と、喋る眼鏡の物語が、動き始めた。
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