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第八話:「天才軍師は山に住む──三顧の礼、禿鼠流」

永禄十年(一五六七年)、秋。

「断られた」

藤吉郎は、泥だらけの草鞋で帰ってきた。

小一郎が水を差し出しながら、ぼそりと言う。

「……一回目やろ。当たり前や」

「わかっとるわ、そんなこと!」

話は、一月ほど前に遡る。

墨俣の砦が美濃攻めの拠点となり、稲葉山城を陥落させた後。

信長は上機嫌で、藤吉郎を呼んだ。

「禿鼠、一人欲しい男がおる」

「どなたで?」

「竹中半兵衛」

藤吉郎は、眼鏡の奥でナニワの光が揺れるのを感じた。

『……っ』

(ナニワ、今息呑んだな?)

「知っとるんか、ナニワ」

思わず呟く。

小声だったから、信長には聞こえなかったようだ。

信長は続ける。

「稲葉山城を十七人で落とした男じゃ。生意気にも俺の召し出しを断りおった。今は山に引っ込んどる」

「……山に?」

「近江の菩提山じゃ。学問をしておると言うてな。お前が口説いてこい」

「……わたくしがですか」

「猿より頭のいい奴には、頭のいい使者を出したいところだがな」

「じゃあわたくしは頭がいいんですか、それとも悪いんですか」

「両方だ」

(どういう意味だがねっ!)

菩提山。

山道を一刻(約二時間)ほど登ると、粗末な草庵があった。

縁側に一人の男が座っていた。

年は二十三か四。

色白で線が細い。

絵本の貴公子みたいな顔をしているが、目だけが異様に鋭い。

本を読んでいた。

藤吉郎が近づいても、顔も上げない。

「……竹中半兵衛どのですか?」

「そうですが」

「木下藤吉郎と申します。織田信長さまのご家中の」

「知っています」

また本に目を戻す。

(知っとるんかい!)

「あの……お話を」

「お断りします」

「まだ何も言うてないですが」

「織田家への仕官の話でしょう。お断りします」

「……なんでですか?」

半兵衛は、初めて本から顔を上げた。

静かな目だった。

怒っていない。

ただ、揺るがない。

「私は仕えたい人がいれば仕えます。仕えたくない人には仕えません。それだけです」

「信長さまは……」

「素晴らしい方だとは思います。ただ、私には合わない」

「合わない、とは」

「うるさいので」

藤吉郎は、絶句した。

(う……うるさい!? あの信長さまが!?)

半兵衛はもう本を読んでいる。

(これは……手強いがね)

草庵を下りながら、藤吉郎はナニワに聞いた。

「ナニワ、お前さっき息呑んだやろ。竹中半兵衛のこと、知っとるんか」

眼鏡の光が、ゆっくりと瞬いた。

『……はい。彼は、天才です』

「どのくらい?」

『私が演算で出す結果を、直感で出す人間です』

藤吉郎は足を止めた。

「それは……とんでもないがね」

『はい。私のデータが及ばない「人の心を読む力」を持っています。そういう人間は、非常に稀です』

「だから信長さまも欲しがっとるんか」

『それだけでなく……』

ナニワが、少し間を置いた。

『彼には、長くない命が残っています』

「……え」

『体が弱い。肺の病です。おそらく、あと十年余り』

藤吉郎は、山の上の草庵を振り返った。

縁側に、小さな人影。

(あの人が……)

『だから自由に生きたいのだと思います。残り少ない時間を、好きなように』

藤吉郎は、長い間立っていた。

二度目。

一月後、再び菩提山を登った。

今度は手ぶらではない。

中村の畑で取れた里芋と糠漬けを持ってきた。

「土産です」

半兵衛は、少し目を丸くした。

「……なんですか、これ」

「うちの家で漬けた糠漬けと、故郷の里芋です。山暮らしじゃ野菜が少ないやろと思って」

「仕官の話は」

「今日はしません」

また沈黙。

半兵衛は糠漬けを一口食べた。

「……美味しいですね」

「でしょ。うちの漬け物がこの世で一番上手いんですよ。ちぃと塩気が強めなんやけど、それがまた」

「……あなたは変わった使者ですね」

「よく言われます」

半兵衛は、また本を開いた。

だが今度は、追い払わなかった。

藤吉郎は縁側の端に座って、山の景色を眺めた。

二人して、しばらく黙っていた。

(ええ男やなぁ)

(死ぬのが、もったいないがね)

三度目。

雪が降り始めた頃だった。

半兵衛は、藤吉郎が来るのを見ると、珍しく立ち上がった。

「今日は中に入ってください。寒いでしょう」

「……ありがとうございます」

囲炉裏端に向かい合って座った。

しばらく、二人して火を見ていた。

半兵衛が、先に口を開いた。

「あなたには、変なものが見えます」

「……え?」

「その眼鏡です。普通の眼鏡ではないでしょう」

藤吉郎は、固まった。

(気づかれとる……!)

半兵衛は静かに続ける。

「稲葉山城が落ちた日、私は遠くから見ていました。あなたが荷駄隊を動かす様子を。普通の人間には見えないものを見て、聞いて、判断していた。なぜか? ずっと考えていました」

「……」

「その眼鏡が、喋るのですか?」

藤吉郎は、観念した。

「……喋ります」

「名前は?」

「ナニワ、と申します」

半兵衛は、少しだけ目を細めた。

そして眼鏡に向かって、静かに言った。

「はじめまして、ナニワどの。私は竹中重治です」

眼鏡の奥で、光がほわりと揺れた。

『……はじめまして、竹中半兵衛様。お会いできて光栄です』

長い沈黙。

半兵衛が、藤吉郎を見た。

「お仕えします」

「……え?」

「木下様に。信長公にではなく、木下藤吉郎様個人に」

「それは……どういう」

「面白いから、です」

半兵衛は、初めて笑った。

ほんの少し。

だが確かに、笑った。

「あなたと、その眼鏡と一緒なら、つまらない死に方はしなくて済みそうだ」

山を下りながら、藤吉郎は叫んだ。

「来てくれるってよ、ナニワ!!!」

『存じています。私もそこにいましたので』

「わかっとるわ! でも嬉しいもんは嬉しいやがね!」

雪の中で、一人でぴょんぴょん跳ねる。

傍から見れば、完全に変な人だ。

でも構わない。

(竹中半兵衛が来てくれる)

(天才軍師が、俺のそばに)

ナニワが、静かに言った。

『藤吉郎様』

「なんや」

『半兵衛様は……長くは生きられません。それを知ったうえで、共に歩んでください』

藤吉郎は、立ち止まった。

雪が、静かに降り続けた。

「……知っとる」

「でもな、ナニワ」

「短うても、ええ生き方があるやろ」

「俺が、それを一緒に作ったる」

眼鏡の光が、雪の中でゆらりと揺れた。

『……はい』

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永禄十年(一五六七年)冬。

竹中半兵衛、木下藤吉郎に仕える。

天才軍師と、禿鼠と、喋る眼鏡の物語が、動き始めた。

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