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第七話:「一夜城の男たち──禿鼠、故郷へ帰る」

永禄九年(一五六六年)、夏の終わり。

「禿鼠、行けるか」

信長は、地図を指で叩いた。

「墨俣。美濃と尾張の境い目じゃ。ここに砦を作れ。斎藤を攻めるための足がかりになる」

藤吉郎は、地図を覗き込んだ。

長良川と犀川が合わさる要衝。

確かに、美濃攻めの拠点としては申し分ない。

だが。

(勝家さまも、信盛さまも、失敗しとる場所やがね……)

柴田勝家が挑んで失敗。

佐久間信盛が挑んで失敗。

織田家随一の猛将たちが、二度も撤退を余儀なくされた難地だ。

「……やってみます」

「それだけか」

「必ずやります、に変えます」

信長が鼻を鳴らした。

「三日でやれ」

「……三日ですか」

「二日でもいい」

「……わかりました」

(これ、絶対無理だと思うんだがね……!)

その夜。

藤吉郎は一人、蜷川の土手に座ってナニワに話しかけた。

「ナニワ。墨俣に砦を作るんやが、どうしたらええと思う?」

眼鏡の奥の光が、静かに瞬いた。

『プレハブ工法です』

「……なんや、それ」

『あ、失礼しました。つまり……部材をあらかじめ作っておいて、現地で組み立てる方法です』

「部材を……先に?」

『上流の山で木を切り、川に流します。墨俣で引き上げ、組み立てる。現地での作業時間を最小限にできます』

藤吉郎は目を丸くした。

「川を使うんか!」

『はい。荷車で運べば何日もかかる木材が、川を使えば半日で届きます。さらに、組み立て順序を最適化……いえ、組み立ての手順を最初から決めておけば、二千の人間が迷わず動けます』

「なるほどなぁ……」

藤吉郎は腕を組んだ。

(川を、道にするんや)

(運ぶ時間を、作る時間に変えるんや)

「ナニワ、お前は本当に頭がええなぁ」

『あなたが実行しなければ、知識は何の役にも立ちません』

「そうやなぁ」

藤吉郎は立ち上がった。

「さ、人集めしてくるがね!」

翌朝早く。

中村に帰ってきた藤吉郎を出迎えたのは、懐かしい顔だった。

「……兄貴」

「小一郎!」

弟の小一郎が、畑仕事の手を止めて立っていた。

六つ年下。

藤吉郎と違い、がっしりとした体格。

口数が少なく、目が真っすぐな男だ。

「なんで帰ってきたん。また何かしでかしたんか」

「失礼なことゆうな! 仕事で帰ってきたんだがね!」

「仕事?」

「墨俣に砦を作る。人手がいる。お前も来い」

小一郎は、少し黙った。

「……農業は、どうする」

「妹に頼め」

「お朝ちゃんに農業やれゆうんか」

「……隣のじいさんに頼め」

長い沈黙。

やがて小一郎は、鍬を地面に置いた。

「……いつ出発する」

「明日の朝」

「わかった」

それだけで、話は終わった。

(このへんが、小一郎のいいとこやがね)

藤吉郎は口の端を上げた。

(ぐちゃぐちゃゆわん。決めたら動く)

翌朝。

中村から二百人の人夫を率いて出発した藤吉郎の前に、さらに百人が加わっていた。

幼馴染みの又兵衛。

米問屋の息子の惣兵衛。

かつて一緒に田んぼで泥まみれになった顔ぶれ。

「みんな……なんで」

「お前が帰ってきたって聞いたら、なんか面白そうやで来たんだわ」

又兵衛がにやりと笑った。

「織田の仕事だがね? 武士の真似事、わしらにもやらせてくれや」

藤吉郎は、泣きそうになるのをこらえた。

(中村の百姓が、俺についてきてくれとる)

「……よっしゃ! 行くぞ!」

上流の山では、先発隊がすでに木を伐り始めていた。

ナニワが設計した「組み立て図」を、藤吉郎が絵にして人夫たちに配る。

「この木は柱。これは梁。これは床板。川に流す順番まで決めとるもんだで。順番を間違えたら全部やり直しだがね、わかったか!」

「わかったーっ!」

「ナニワ、段取りはこれで合っとる?」

『はい。ロジスティクス……いえ、段取りは完璧です。ただ、一つ問題があります』

「なにぃ?」

『川の流れが、今日は少し速い。木材が流れ過ぎる可能性があります』

「どうする?」

『引き上げ場所に、網を張ってください。長さ二十間(約三十六メートル)ほど』

「そんな大きな網、どこに……」

小一郎が横から口を挟んだ。

「漁師のとこ行けばええがや。長良川の漁師なら、でかい網持っとるわ」

「……小一郎、お前頭ええなぁ」

「兄貴が抜けとるだわ」

九月十二日、夜明けと同時に作業が始まった。

川を流れてくる木材を引き上げ、組み立て図の通りに並べ、打ち込む。

間違えた者には怒鳴らずに手本を見せる。

疲れた者には水を配り、一言かける。

藤吉郎は眠らなかった。

小一郎も眠らなかった。

「兄貴、少し休め」

「お前こそ休め」

「俺は平気や」

「俺も平気だわ」

二人して目の下に隈を作りながら、それでも笑っていた。

夜が明けた。

「……できた」

誰かが、呟いた。

馬防柵。

物見櫓、二棟。

兵の詰める小屋、十軒。

完璧な城ではない。

だが、確かな砦が、そこにあった。

「できたーーーっ!!!」

「やったーっ!!」

「おれたちがやったぞーっ!!!」

中村の人夫たちが、泥だらけのまま抱き合って叫んだ。

又兵衛が泣いている。

惣兵衛が笑い転げている。

小一郎が、静かに目を細めていた。

藤吉郎だけが、砦の上に登って、美濃の山々を見渡した。

「ナニワ」

「ここに立ったら……先が見えるようになるな」

眼鏡の奥で、光がほわりと揺れた。

『景色は、いつでも同じです。見る者が変わるのです』

「詩みたいなこと言うなや」

『すみません。でも本当のことです』

藤吉郎は、深く息を吸った。

美濃の風は、尾張より少しだけ冷たい。

(大将。俺は一歩、近づいたで)

(もう少し待っとってくれよ)

その日の夕刻。

知らせを受けた信長が、騎馬で砦を見に来た。

黙って馬を止め、砦を見上げた。

長い沈黙。

「禿鼠」

「はい」

「お前、本当に二日でやったな」

「はい」

また沈黙。

やがて信長は、小さく笑った。

「弟も連れてきたか」

「はい。よう働きますよ、こいつは。口は悪いですが」

小一郎が、ぼそりと言った。

「兄貴よりはましや」

信長が、吹き出した。

「二人とも城持ちにしてやる。楽しみに待っとれ」

藤吉郎は目を丸くした。

小一郎は、相変わらず無表情だったが。

その耳が、少しだけ赤かった。

夜、二人並んで砦の縁に座った。

「……なあ、小一郎」

「なんや」

「来てくれてよかったわ」

しばらく沈黙。

「……兄貴が頼むんやったら、しゃあないやろ」

「ツンデレか、お前は」

「意味わからん」

藤吉郎は笑った。

(お前がいてくれたら、百人力やがね)

(弟よ、頼んだぞ)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

永禄九年(一五六六年)九月。

木下藤吉郎、墨俣に砦を築く。

弟・小一郎、兄とともに歴史の舞台へ。

そして次なる試練が、すでに動き始めていた。

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