第七話:「一夜城の男たち──禿鼠、故郷へ帰る」
永禄九年(一五六六年)、夏の終わり。
「禿鼠、行けるか」
信長は、地図を指で叩いた。
「墨俣。美濃と尾張の境い目じゃ。ここに砦を作れ。斎藤を攻めるための足がかりになる」
藤吉郎は、地図を覗き込んだ。
長良川と犀川が合わさる要衝。
確かに、美濃攻めの拠点としては申し分ない。
だが。
(勝家さまも、信盛さまも、失敗しとる場所やがね……)
柴田勝家が挑んで失敗。
佐久間信盛が挑んで失敗。
織田家随一の猛将たちが、二度も撤退を余儀なくされた難地だ。
「……やってみます」
「それだけか」
「必ずやります、に変えます」
信長が鼻を鳴らした。
「三日でやれ」
「……三日ですか」
「二日でもいい」
「……わかりました」
(これ、絶対無理だと思うんだがね……!)
◇
その夜。
藤吉郎は一人、蜷川の土手に座ってナニワに話しかけた。
「ナニワ。墨俣に砦を作るんやが、どうしたらええと思う?」
眼鏡の奥の光が、静かに瞬いた。
『プレハブ工法です』
「……なんや、それ」
『あ、失礼しました。つまり……部材をあらかじめ作っておいて、現地で組み立てる方法です』
「部材を……先に?」
『上流の山で木を切り、川に流します。墨俣で引き上げ、組み立てる。現地での作業時間を最小限にできます』
藤吉郎は目を丸くした。
「川を使うんか!」
『はい。荷車で運べば何日もかかる木材が、川を使えば半日で届きます。さらに、組み立て順序を最適化……いえ、組み立ての手順を最初から決めておけば、二千の人間が迷わず動けます』
「なるほどなぁ……」
藤吉郎は腕を組んだ。
(川を、道にするんや)
(運ぶ時間を、作る時間に変えるんや)
「ナニワ、お前は本当に頭がええなぁ」
『あなたが実行しなければ、知識は何の役にも立ちません』
「そうやなぁ」
藤吉郎は立ち上がった。
「さ、人集めしてくるがね!」
◇
翌朝早く。
中村に帰ってきた藤吉郎を出迎えたのは、懐かしい顔だった。
「……兄貴」
「小一郎!」
弟の小一郎が、畑仕事の手を止めて立っていた。
六つ年下。
藤吉郎と違い、がっしりとした体格。
口数が少なく、目が真っすぐな男だ。
「なんで帰ってきたん。また何かしでかしたんか」
「失礼なことゆうな! 仕事で帰ってきたんだがね!」
「仕事?」
「墨俣に砦を作る。人手がいる。お前も来い」
小一郎は、少し黙った。
「……農業は、どうする」
「妹に頼め」
「お朝ちゃんに農業やれゆうんか」
「……隣のじいさんに頼め」
長い沈黙。
やがて小一郎は、鍬を地面に置いた。
「……いつ出発する」
「明日の朝」
「わかった」
それだけで、話は終わった。
(このへんが、小一郎のいいとこやがね)
藤吉郎は口の端を上げた。
(ぐちゃぐちゃゆわん。決めたら動く)
◇
翌朝。
中村から二百人の人夫を率いて出発した藤吉郎の前に、さらに百人が加わっていた。
幼馴染みの又兵衛。
米問屋の息子の惣兵衛。
かつて一緒に田んぼで泥まみれになった顔ぶれ。
「みんな……なんで」
「お前が帰ってきたって聞いたら、なんか面白そうやで来たんだわ」
又兵衛がにやりと笑った。
「織田の仕事だがね? 武士の真似事、わしらにもやらせてくれや」
藤吉郎は、泣きそうになるのをこらえた。
(中村の百姓が、俺についてきてくれとる)
「……よっしゃ! 行くぞ!」
◇
上流の山では、先発隊がすでに木を伐り始めていた。
ナニワが設計した「組み立て図」を、藤吉郎が絵にして人夫たちに配る。
「この木は柱。これは梁。これは床板。川に流す順番まで決めとるもんだで。順番を間違えたら全部やり直しだがね、わかったか!」
「わかったーっ!」
「ナニワ、段取りはこれで合っとる?」
『はい。ロジスティクス……いえ、段取りは完璧です。ただ、一つ問題があります』
「なにぃ?」
『川の流れが、今日は少し速い。木材が流れ過ぎる可能性があります』
「どうする?」
『引き上げ場所に、網を張ってください。長さ二十間(約三十六メートル)ほど』
「そんな大きな網、どこに……」
小一郎が横から口を挟んだ。
「漁師のとこ行けばええがや。長良川の漁師なら、でかい網持っとるわ」
「……小一郎、お前頭ええなぁ」
「兄貴が抜けとるだわ」
◇
九月十二日、夜明けと同時に作業が始まった。
川を流れてくる木材を引き上げ、組み立て図の通りに並べ、打ち込む。
間違えた者には怒鳴らずに手本を見せる。
疲れた者には水を配り、一言かける。
藤吉郎は眠らなかった。
小一郎も眠らなかった。
「兄貴、少し休め」
「お前こそ休め」
「俺は平気や」
「俺も平気だわ」
二人して目の下に隈を作りながら、それでも笑っていた。
◇
夜が明けた。
「……できた」
誰かが、呟いた。
馬防柵。
物見櫓、二棟。
兵の詰める小屋、十軒。
完璧な城ではない。
だが、確かな砦が、そこにあった。
「できたーーーっ!!!」
「やったーっ!!」
「おれたちがやったぞーっ!!!」
中村の人夫たちが、泥だらけのまま抱き合って叫んだ。
又兵衛が泣いている。
惣兵衛が笑い転げている。
小一郎が、静かに目を細めていた。
藤吉郎だけが、砦の上に登って、美濃の山々を見渡した。
「ナニワ」
「ここに立ったら……先が見えるようになるな」
眼鏡の奥で、光がほわりと揺れた。
『景色は、いつでも同じです。見る者が変わるのです』
「詩みたいなこと言うなや」
『すみません。でも本当のことです』
藤吉郎は、深く息を吸った。
美濃の風は、尾張より少しだけ冷たい。
(大将。俺は一歩、近づいたで)
(もう少し待っとってくれよ)
◇
その日の夕刻。
知らせを受けた信長が、騎馬で砦を見に来た。
黙って馬を止め、砦を見上げた。
長い沈黙。
「禿鼠」
「はい」
「お前、本当に二日でやったな」
「はい」
また沈黙。
やがて信長は、小さく笑った。
「弟も連れてきたか」
「はい。よう働きますよ、こいつは。口は悪いですが」
小一郎が、ぼそりと言った。
「兄貴よりはましや」
信長が、吹き出した。
「二人とも城持ちにしてやる。楽しみに待っとれ」
藤吉郎は目を丸くした。
小一郎は、相変わらず無表情だったが。
その耳が、少しだけ赤かった。
◇
夜、二人並んで砦の縁に座った。
「……なあ、小一郎」
「なんや」
「来てくれてよかったわ」
しばらく沈黙。
「……兄貴が頼むんやったら、しゃあないやろ」
「ツンデレか、お前は」
「意味わからん」
藤吉郎は笑った。
(お前がいてくれたら、百人力やがね)
(弟よ、頼んだぞ)
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永禄九年(一五六六年)九月。
木下藤吉郎、墨俣に砦を築く。
弟・小一郎、兄とともに歴史の舞台へ。
そして次なる試練が、すでに動き始めていた。
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