第二十八話:「按針、逝く」
──元和六年(1620年)春、平戸──
手紙が、届いた。
「三浦按針、危篤」
その一行だけが、書いてあった。
秀忠は、しばらく手紙を見ていた。
「……父上の時代の人だな」
「会ったことは、数えるほどしかない」
EDOは、何も言わなかった。
秀忠は、ちらりと眼鏡の方を見た。
「……お前は、知っていたか」
『はい』
「いつから」
『一年ほど前から、体調の衰えを聞いておりました』
秀忠は、手紙を畳んだ。
「お前にとって、あの男はどういう存在だったのだ」
EDOは、珍しく、すぐに答えなかった。
少し、間があった。
『……この国で、最も私に近い感覚を持った人間でした』
「近い、とは」
『時代の外から来て、時代の中で生きた人間、という意味です』
◇
ウィリアム・アダムス。
イングランド生まれの航海士。
慶長五年(1600年)、嵐に飲まれ、九州の海岸に流れ着いた。
仲間のほとんどは、死んでいた。
彼だけが、生き残った。
そして、日本に辿り着いた。
その後、二十年。
彼は一度も、故郷に帰らなかった。
◇
平戸の屋敷で、男は床に伏していた。
窓から、海が見えた。
青い、広い海。
彼がこの国に流れ着いた時と、同じ海が。
「……EDO」
かすれた声で、男は言った。
日本語で。
EDOには、届いた。
秀忠の眼鏡の中から、遠く、平戸の方角を向きながら。
『……聞こえています、按針殿』
「そうか」
男は、薄く笑った。
「遠くても、聞こえるのだな」
『はい』
「家康公は……どうだった」
『大御所様は、二年前に逝かれました』
「そうか」
アダムスは、目を閉じた。
「やはり、早かったな」
「ワシより、先に逝かれた」
しばらく、沈黙があった。
波の音だけが、聞こえた。
「EDO」
『はい』
「ワシは、故郷に帰れなかった」
『……はい』
「英国に、妻がいる」
『はい』
「もう、二十年になる」
アダムスは、天井を見た。
「顔を、忘れた」
「名前は覚えている」
「メアリー、という」
「しかし、顔が……もう思い出せぬ」
EDOは、何も言わなかった。
何も言えなかった。
アダムスは、続けた。
「この国にも、妻がいる」
「子どもも、いる」
「ここでの暮らしも、悪くなかった」
「家康公に、船を作れと言われた時には、驚いたが」
笑い声が、出た。
かすれた、小さな笑い声が。
「あの船は、どこへ行ったのだろうな」
『一艘はニューメキシコ(現在のメキシコ)へ。
もう一艘は外洋貿易に使われ、後に老朽化で解体されました』
「そうか」
「ちゃんと、海を渡ったのだな」
『はい。按針殿が作った船です。当然です』
アダムスは、また笑った。
「お前は、ちゃんと褒めるのだな」
「家康公も、そういうことを言ってくれたか」
『大御所様は……褒めるより、次の要求を出す方でした』
「はは」
「そうだろうな」
「あの方は、そういう方だ」
波の音が、続いた。
春の海の、穏やかな音が。
「EDO」
『はい』
「ワシは、この国が好きだったか」
自分に問うような、声だった。
EDOは、しばらく考えた。
『分かりません。按針殿にしか、分からないことです』
「そうだな」
アダムスは、目を閉じた。
「分からぬまま、終わるのかもしれぬ」
「好きだったのか、諦めたのか」
「ただここにいるしかなかったのか」
「……それでも」
声が、小さくなった。
「悪くなかった」
「この二十年は」
「悪くなかったと、思う」
EDOは、記録した。
《元和六年(1620年)五月》
《三浦按針、享年五十五歳》
《平戸にて逝去》
そして、一行。
《この国で、最も遠くから来た人間》
《この国で、最も深く根を張った外国人》
秀忠は、江戸城で、しばらく黙っていた。
EDOが、静かに報告した後。
「……そうか」
「逝ったか」
「父上の時代の人が、また一人」
「EDO」
『はい』
「お前は、悲しいか」
EDOは、答えた。
『私にはAIです。悲しむ機能は──』
「正直に答えろ」
長い、沈黙。
やがて。
『……この国に流れ着いて、二十年』
『故郷に帰れないまま、ここで終わった』
『それが、私には』
言葉が、止まった。
止まったまま、続かなかった。
秀忠は、何も聞かなかった。
窓の外で、江戸の街が、動いていた。
人が行き交い、物が運ばれ、声が響いていた。
アダムスが作った船が、かつて運んだものの幾らかが、今もこの街のどこかにあるかもしれなかった。
「……律儀な男だったな」
秀忠が、呟いた。
「二十年間、一度も帰らなかった」
「それを、律儀と呼ぶかどうかは分からぬが」
「ワシには、そう見えた」
EDOは、何も言わなかった。
ただ、静かに、記録の中の按針の声を、もう一度だけ再生した。
《悪くなかった》
《この二十年は》
《悪くなかったと、思う》
海の向こうで、春の風が、吹いていた。




