第六話:「嵐の中の奇跡──桶狭間の決戦」
永禄三年(一五六〇年)五月十九日、辰の刻(午前八時頃)。
空が、割れた。
◇
「来とるがね……!」
日吉丸は馬防柵の陰から空を見上げた。
東の山の端が、黒く染まっていく。
じわりじわりではない。
一気に、だ。
染料を水に落としたように、暗雲が広がっていく。
『天候データ……いえ』
眼鏡の奥でナニワの瞳が光った。
『天の気が、動き始めました。予測精度、八十七パーセント。嵐は必ず来ます』
「嵐が来る……今川の本陣は、どのあたりにおる?」
『田楽狭間。周囲を山に囲まれた窪地です。雨と風が集中しやすく、視界と音が遮断されます』
(つまり……)
藤吉郎とは唇を結んだ。
(神様が、槍を持ってくれとる)
◇
清洲城を発って以来、藤吉郎は荷駄隊の先頭に立ち続けた。
四千の命を支える兵糧と矢弾。
それが今、善照寺砦に集積されている。
他の足軽たちが武者震いに身を震わせる中、藤吉郎だけは砦の物見台に登り、ひたすら東の空を見ていた。
「おい禿鼠。何を見とる」
声をかけてきたのは、荷駄隊の副将・岩田重蔵だった。
でっぷりとした体格に、赤ら顔。
藤吉郎の半分以下の仕事しかしないくせに、ふた回りは大きな口を持つ男だ。
「空ですわ、空。重蔵さんこそ、顔が白うなっとる」
「うるさい! お前みたいな下っ端が口を利くな」
「はぁ、すんませんなぁ」
(怖いのは俺も同じだがね)
藤吉郎は心の中で舌を出した。
ただ、怖さの種類が違う。
岩田が恐れているのは、死だ。
藤吉郎が恐れているのは、この嵐がナニワの言った通りにならなかったときのことだ。
◇
巳の刻(午前十時頃)。
信長が動いた。
「全軍、前へ」
たったそれだけの命令だった。
言葉に火がついていた。
無駄な熱は一切ない。
それでいて、その一言で四千の人間が動いた。
藤吉郎も荷駄隊を率いて後に続く。
前方では、佐々成政、前田利家ら精鋭が駆けている。
信長の朱塗りの胴丸が、曇天の下でも鮮やかに輝いた。
『藤吉郎様』
「なんや、ナニワ」
『今川義元の本陣、田楽狭間まで、あと三十丁(約三・三キロ)』
「遠いがね……!」
『いいえ。嵐の到達まで、あと四半刻(約三十分)。ちょうど合います』
(ちょうど……)
藤吉郎は歯を食いしばった。
(ナニワよ、お前は化け物か)
◇
そして、来た。
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雷鳴が山を割り、雨が滝のように降り注いだ。
「うわあああっ!」
「嵐だ、嵐!」
「今川方の物見が動けん!」
荷駄隊の中でどよめきが起きた。
岩田重蔵が馬の上で腰を抜かしそうになっている。
だが藤吉郎は。
笑っていた。
(来たがね……!!!)
雨の音の中で、ナニワの声だけがはっきりと聞こえた。
『藤吉郎様。今川義元の本陣は、今、嵐に呑まれています』
「見えんし。動けんし。聞こえんだろ」
『はい。これが最大の好機です』
「よっしゃ!」
藤吉郎は振り向いた。
雨に濡れ、怯える荷駄隊の男たちを見渡した。
「みんな! 聞いてくれ!」
怒鳴らなくていい。
嵐の音に消されるより先に、言葉を届ける。
これも、ナニワに教えてもらった技だ。
「今川は二万五千や。ほんまに恐ろしい。俺かて怖い」
男たちが藤吉郎を見た。
「でもな」
藤吉郎は、東の空を指さした。
「今川のお偉いさんはな、この嵐の中で、扇なんか広げてのんびりしとるんだわ。おれたちの大将は、そこに飛び込んどる」
◇
田楽狭間。
信長の四千が、嵐の中を駆けた。
今川義元の本陣は、まさに混乱の極みだった。
「な、なにごとだ!」
「曲者! 曲者ぞ!」
「兵が、織田の兵が来たぞ!」
天幕は嵐に吹き飛び、精鋭の護衛たちは雨と泥で足を取られた。
それでも義元を守ろうと槍を向ける者が数人。
しかし信長は止まらなかった。
◇
藤吉郎のもとに、知らせが届いたのは、それからわずか半刻(約一時間)後だった。
「今川義元、討死!!!」
「……え」
藤吉郎は、動けなかった。
「今川義元、首を取ったぞーーーっ!!!」
「うそや」
「……うそやがね……」
『事実です』
ナニワの声が静かに言った。
『毛利新助が首を取りました。今川義元、討死。これより、この戦の記録は歴史に刻まれます』
「……本当に」
「……本当に勝ったんか」
藤吉郎の目から、何かがこぼれた。
雨のせいにした。
◇
嵐が去り、夕暮れが来た。
田楽狭間の丘の上に、信長は立っていた。
返り血も、泥も、雨も。
全部まとめて纏ったまま、ただ東の空を見ていた。
藤吉郎が恐る恐る近づく。
「……大将」
信長は振り向かなかった。
「禿鼠」
「はい」
「お前の眼鏡は、嵐が来ると言うたな」
「……言いました」
「当たった」
「……当たりました」
沈黙。
遠くで、兵たちの歓声が上がっている。
泣いている者もいる。
笑っている者もいる。
信長だけが、静かだった。
「俺は今日、夢を見た」
ぽつりと言った。
「天下、というものを」
藤吉郎は、何も言えなかった。
言えるはずがない。
今日この日を、自分の眼鏡は「歴史に刻まれる」と言った。
(大将。あんたはこれから、本当に天下を取るんや)
(俺は知っとる)
(そやから、死ぬんやで)
(いつか必ず、裏切られて、死ぬんや)
藤吉郎は唇を噛んだ。
(でも今は、それを言うことができん)
(言えるはずがない)
「大将」
「なんだ」
「今日は、本当によかったですわ」
信長が、初めて振り向いた。
その目が、細くなった。
「禿鼠が泣いとる」
「泣いとりゃぁせんですよ! 雨ですわ!」
「まだ降っとらんぞ」
「……降りかけっちゅうか」
信長は、吹き出した。
声を出して笑ったのを、藤吉郎は初めて聞いた。
◇
夜。
藤吉郎は一人、砦の端に座っていた。
眼鏡を外して、膝の上に置く。
「ナニワ」
「……ナニワ、聞こえとるか?」
静寂。
そして。
『聞こえています』
「今日、お前のおかげで勝てた」
『私は天の気を読んだだけです。戦ったのは、あなた方です』
「そんなことないがね。お前がおったから、信じれた」
眼鏡の奥の光が、ゆらりと揺れた気がした。
「ナニワ……お前は、いつまで俺と一緒におってくれ?」
問いが、夜風に溶けた。
長い沈黙。
『わかりません』
正直な答えだった。
『ただ……今は、ここにいます』
藤吉郎は、眼鏡を持ち上げた。
天の星が、レンズ越しに滲んだ。
「そやな」
「今は、それでええわ」
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永禄三年(一五六〇年)五月十九日。
桶狭間の戦い、織田信長の大勝。
この日を境に、日ノ本の歴史は動き始めた。
そして、木下藤吉郎とナニワの、本当の物語も。
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(第六話・完)
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