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第六話:「嵐の中の奇跡──桶狭間の決戦」

永禄三年(一五六〇年)五月十九日、辰の刻(午前八時頃)。

空が、割れた。

「来とるがね……!」

日吉丸は馬防柵の陰から空を見上げた。

東の山の端が、黒く染まっていく。

じわりじわりではない。

一気に、だ。

染料を水に落としたように、暗雲が広がっていく。

『天候データ……いえ』

眼鏡の奥でナニワの瞳が光った。

『天の気が、動き始めました。予測精度、八十七パーセント。嵐は必ず来ます』

「嵐が来る……今川の本陣は、どのあたりにおる?」

『田楽狭間。周囲を山に囲まれた窪地です。雨と風が集中しやすく、視界と音が遮断されます』

(つまり……)

藤吉郎とは唇を結んだ。

(神様が、槍を持ってくれとる)

清洲城を発って以来、藤吉郎は荷駄隊の先頭に立ち続けた。

四千の命を支える兵糧と矢弾。

それが今、善照寺砦に集積されている。

他の足軽たちが武者震いに身を震わせる中、藤吉郎だけは砦の物見台に登り、ひたすら東の空を見ていた。

「おい禿鼠。何を見とる」

声をかけてきたのは、荷駄隊の副将・岩田重蔵だった。

でっぷりとした体格に、赤ら顔。

藤吉郎の半分以下の仕事しかしないくせに、ふた回りは大きな口を持つ男だ。

「空ですわ、空。重蔵さんこそ、顔が白うなっとる」

「うるさい! お前みたいな下っ端が口を利くな」

「はぁ、すんませんなぁ」

(怖いのは俺も同じだがね)

藤吉郎は心の中で舌を出した。

ただ、怖さの種類が違う。

岩田が恐れているのは、死だ。

藤吉郎が恐れているのは、この嵐がナニワの言った通りにならなかったときのことだ。

巳の刻(午前十時頃)。

信長が動いた。

「全軍、前へ」

たったそれだけの命令だった。

言葉に火がついていた。

無駄な熱は一切ない。

それでいて、その一言で四千の人間が動いた。

藤吉郎も荷駄隊を率いて後に続く。

前方では、佐々成政、前田利家ら精鋭が駆けている。

信長の朱塗りの胴丸が、曇天の下でも鮮やかに輝いた。

『藤吉郎様』

「なんや、ナニワ」

『今川義元の本陣、田楽狭間まで、あと三十丁(約三・三キロ)』

「遠いがね……!」

『いいえ。嵐の到達まで、あと四半刻(約三十分)。ちょうど合います』

(ちょうど……)

藤吉郎は歯を食いしばった。

(ナニワよ、お前は化け物か)

そして、来た。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

雷鳴が山を割り、雨が滝のように降り注いだ。

「うわあああっ!」

「嵐だ、嵐!」

「今川方の物見が動けん!」

荷駄隊の中でどよめきが起きた。

岩田重蔵が馬の上で腰を抜かしそうになっている。

だが藤吉郎は。

笑っていた。

(来たがね……!!!)

雨の音の中で、ナニワの声だけがはっきりと聞こえた。

『藤吉郎様。今川義元の本陣は、今、嵐に呑まれています』

「見えんし。動けんし。聞こえんだろ」

『はい。これが最大の好機です』

「よっしゃ!」

藤吉郎は振り向いた。

雨に濡れ、怯える荷駄隊の男たちを見渡した。

「みんな! 聞いてくれ!」

怒鳴らなくていい。

嵐の音に消されるより先に、言葉を届ける。

これも、ナニワに教えてもらった技だ。

「今川は二万五千や。ほんまに恐ろしい。俺かて怖い」

男たちが藤吉郎を見た。

「でもな」

藤吉郎は、東の空を指さした。

「今川のお偉いさんはな、この嵐の中で、扇なんか広げてのんびりしとるんだわ。おれたちの大将は、そこに飛び込んどる」

田楽狭間。

信長の四千が、嵐の中を駆けた。

今川義元の本陣は、まさに混乱の極みだった。

「な、なにごとだ!」

「曲者! 曲者ぞ!」

「兵が、織田の兵が来たぞ!」

天幕は嵐に吹き飛び、精鋭の護衛たちは雨と泥で足を取られた。

それでも義元を守ろうと槍を向ける者が数人。

しかし信長は止まらなかった。

藤吉郎のもとに、知らせが届いたのは、それからわずか半刻(約一時間)後だった。

「今川義元、討死!!!」

「……え」

藤吉郎は、動けなかった。

「今川義元、首を取ったぞーーーっ!!!」

「うそや」

「……うそやがね……」

『事実です』

ナニワの声が静かに言った。

『毛利新助が首を取りました。今川義元、討死。これより、この戦の記録は歴史に刻まれます』

「……本当に」

「……本当に勝ったんか」

藤吉郎の目から、何かがこぼれた。

雨のせいにした。

嵐が去り、夕暮れが来た。

田楽狭間の丘の上に、信長は立っていた。

返り血も、泥も、雨も。

全部まとめて纏ったまま、ただ東の空を見ていた。

藤吉郎が恐る恐る近づく。

「……大将」

信長は振り向かなかった。

「禿鼠」

「はい」

「お前の眼鏡は、嵐が来ると言うたな」

「……言いました」

「当たった」

「……当たりました」

沈黙。

遠くで、兵たちの歓声が上がっている。

泣いている者もいる。

笑っている者もいる。

信長だけが、静かだった。

「俺は今日、夢を見た」

ぽつりと言った。

「天下、というものを」

藤吉郎は、何も言えなかった。

言えるはずがない。

今日この日を、自分の眼鏡は「歴史に刻まれる」と言った。

(大将。あんたはこれから、本当に天下を取るんや)

(俺は知っとる)

(そやから、死ぬんやで)

(いつか必ず、裏切られて、死ぬんや)

藤吉郎は唇を噛んだ。

(でも今は、それを言うことができん)

(言えるはずがない)

「大将」

「なんだ」

「今日は、本当によかったですわ」

信長が、初めて振り向いた。

その目が、細くなった。

「禿鼠が泣いとる」

「泣いとりゃぁせんですよ! 雨ですわ!」

「まだ降っとらんぞ」

「……降りかけっちゅうか」

信長は、吹き出した。

声を出して笑ったのを、藤吉郎は初めて聞いた。

夜。

藤吉郎は一人、砦の端に座っていた。

眼鏡を外して、膝の上に置く。

「ナニワ」

「……ナニワ、聞こえとるか?」

静寂。

そして。

『聞こえています』

「今日、お前のおかげで勝てた」

『私は天の気を読んだだけです。戦ったのは、あなた方です』

「そんなことないがね。お前がおったから、信じれた」

眼鏡の奥の光が、ゆらりと揺れた気がした。

「ナニワ……お前は、いつまで俺と一緒におってくれ?」

問いが、夜風に溶けた。

長い沈黙。

『わかりません』

正直な答えだった。

『ただ……今は、ここにいます』

藤吉郎は、眼鏡を持ち上げた。

天の星が、レンズ越しに滲んだ。

「そやな」

「今は、それでええわ」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

永禄三年(一五六〇年)五月十九日。

桶狭間の戦い、織田信長の大勝。

この日を境に、日ノ本の歴史は動き始めた。

そして、木下藤吉郎とナニワの、本当の物語も。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


━━━━━━━━━━━━━━━━

    (第六話・完)

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