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第五話:「嵐の前──うつけが舞う夜」

永禄三年(1560年)、初夏。


尾張の空気が、張り詰めていた。


城内のあちこちで、囁き声が飛び交っている。



「今川義元が……二万五千の大軍で

 西へ向かっているというのは本当か」


「本当だ。すでに三河を抜けた」


「二万五千……我らは四千足らず。

 これは……もう、終わりでは」



那古野城の廊下を歩きながら、

藤吉郎は家臣たちの顔を見ていた。


青ざめた者。

震えている者。

すでに逃げ支度を始めている者。



(ナニワ、今川義元の軍勢について教えてくれ)



『今川義元。駿河・遠江・三河を治める大名。

 今回の進軍目的は上洛──

 つまり京を目指すルート上に

 尾張が位置しています』


『戦力差は約六対一。

 通常の戦略セオリーでは──』



(せおり?)



『……兵法の常識では、

 正面からの迎撃は自殺行為です』



(ほぉ……そんなに絶望的なんか)



『はい。ただ──』



ナニワは一拍置いた。



『天候データに、興味深い動きがあります』



(てんこうでえた……天の気のことか)



『……はい。

 明日の昼過ぎ、この地域に

 激しい雷雨が来る可能性があります』



藤吉郎は立ち止まった。


雷雨。


その二文字が、

じんわりと胸の中で光り始めた。





その夜、信長は静かだった。


大広間に家臣を集め、

青ざめた顔で「籠城を」「和睦を」と

口々に言う家臣たちを、

信長はただ黙って眺めていた。


藤吉郎は末席に座り、

その様子をじっと見つめていた。



(ナニワ、信長様は何を考えとるんだ)



『分析不能です』



(え、珍しいがね)



『私のデータに、

 このような状況で動じない人間の

 思考パターンは存在しません』



藤吉郎は信長の目を見た。


恐れていない。

焦ってもいない。


ただ──何かを、待っているような目だった。



「殿! 今川の大軍に正面からぶつかるのは

 愚策にございます! ここは──」



信長は、ふいに立ち上がった。


全員が口をつぐんだ。


男は何も言わなかった。


ただ、広間の隅に置かれた

鼓の前に歩いていき──

静かに、打ち始めた。


低く、重く、響く音。


それに合わせて、信長は謡い始めた。



「人間五十年──

 下天のうちをくらぶれば──

 夢幻のごとくなり──」



幸若舞・敦盛。


乱世の武将たちが愛した、

命の儚さを謡う舞。



「ひとたび生を得て──

 滅せぬもののあるべきか──」



広間が、しん、と静まり返った。


誰も、何も言えなかった。


藤吉郎は、その背中を見つめていた。



(ナニワ……この人は……)



『……私にも、わかりません』



『ですが──』



『この人は、死ぬ気はないと思います』





夜が明ける前、信長は決断した。



「出陣する」



「殿……! しかし兵力が──」



「たわけ」



たった三文字だった。



「籠城して兵糧が尽きれば、

 どのみち死ぬ。

 ならば打って出る方が、

 まだ道がある」



家臣たちは沈黙した。


藤吉郎は、その言葉を聞いて

静かに立ち上がった。



「殿。荷駄隊の準備、

 整えてございます」



信長は藤吉郎を見た。



「禿鼠……お前、震えておらぬな」



「震えとるひまがないもんで」



信長は、ふっと鼻を鳴らした。


それが笑いなのか、

呆れなのかはわからなかった。



「ついて来い」



「はっ!」





出陣の準備が整う中、

藤吉郎はナニワに問いかけた。



(ナニワ、勝てるんか)



『勝率は……正直、高くはありません』


『ただ──』


『明日の昼過ぎに来る嵐を

 うまく使えれば、話は変わります』



(嵐を……使う?)



『今川義元の本陣は

 桶狭間という谷あいに位置しています。

 そこへ雷雨が来れば、

 大軍は身動きが取れなくなります』


『そのタイミングを突いて

 本陣へ奇襲をかければ──

 理論上は不可能ではありません』



(理論上……か)



(なぁ、ナニワ)



『はい』



(「理論上」と「現実」って、

 ちゃうことの方が多いか?)



少しの間があった。



『……正直に申し上げます。

 多いです』



(やっぱりか)



藤吉郎は空を見上げた。


夜明けの光が、

じわじわと東の空を染め始めていた。


雲の動きが、妙に速い。


嵐の気配が、確かにあった。



(ほやけど──信長様は、

 その「理論上」の先を

 見とるんやろな)



『……そうかもしれません』



藤吉郎は鍬を担ぐように

荷駄の縄を肩に掛け、

軍列の後ろに続いた。


四千の兵が、

二万五千へ向かって歩き始めた。


誰もが、怖かった。


それでも、足は止まらなかった。


信長という男が、先頭で歩いているから。



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    (第五話・完)

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