第四十九話:「花の下で」 ──大阪城・秀吉の孤独──
慶長三年(一五九八年)春〜夏 大阪城/醍醐寺
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慶長三年春。
豊臣秀吉は、醍醐寺に桜を見に行った。
千三百人の女たちを連れて。
金糸銀糸の衣装で飾られた宴を催した。
それが──秀吉最後の、晴れ舞台だった。
誰も知らなかった。
あの絢爛たる花の下で、秀吉がひとり何を思っていたかを。
◇
醍醐寺の桜は、見事だった。
満開だった。
風が吹くたびに、花びらが舞った。
雪のように、白く、ひらひらと。
「……きれいだわ」
秀吉は、縁台に座って空を見上げた。
周りには笑い声が響いていた。
女たちの声。
楽の音。
華やかな色彩。
「……きれいだわ」
もう一度、呟いた。
今度は誰にも聞こえない声で。
◇
手を当てた。
眼鏡が、そこにあった。
「……ナニワ」
宴の喧騒の中で、小声で言った。
静寂。
「桜、きれいだぞ」
静寂。
「お前にも、見せたかったがね」
◇
花びらが一枚、秀吉の手に落ちた。
白い、小さな花びら。
秀吉は、それをしばらく見ていた。
それから、そっと吹いた。
花びらは、風に乗って消えた。
「……夢みたいだな」
◇
宴が終わった。
伏見城に戻った。
その夜から、秀吉の体は急に傾いた。
◇
食べられなくなった。
眠れなくなった。
起き上がれない日が増えた。
侍医たちは、首を振った。
「……太閤様」
「なんだ」
「朝鮮の戦を、一度──」
「続けろ」
「しかし御体が──」
「秀頼が、まだ五つだ」
秀吉は、布団の中から言った。
「俺が倒れたら、あの子はどうなる」
「……」
「続けろ、と言うとる」
◇
その頃、秀吉は毎日、文を書いていた。
五大老への文だった。
徳川家康へ。
前田利家へ。
毛利輝元へ。
「秀頼のことを、よろしく頼む」
何度も、何度も書いた。
同じ言葉を。
「秀頼のことを、頼む」
「この子だけは、守ってくれ」
「頼む」
「頼む」
「頼む」
◇
三成が、その文を受け取るたびに、目を伏せた。
「……太閤様は」
家臣が聞いた。
「怖いのです」
三成は、静かに言った。
「あれほどの方が」
「……秀頼様がいなくなることが?」
「いいえ」
三成は、窓の外を見た。
「ご自身がいなくなることが」
◇
夏になった。
秀吉は、ほとんど床から出られなくなった。
それでも、秀頼が来ると、起き上がった。
「……秀頼」
「ちちうえ」
秀頼は、まだ幼かった。
五歳の子どもが、父の顔を見て笑った。
秀吉は、その顔を見た。
大きな目。
健やかな頬。
「……でかくなったな」
「うん!」
「飯、食えとるんか?」
「たべてる!」
「そうか」
秀吉は、笑った。
久しぶりの、本物の笑顔だった。
「ええこっちゃ」
「腹いっぱい食えるのが、一番だわ」
◇
秀頼が去った後。
秀吉は、また一人になった。
「……ナニワ」
「聞いたか、今の」
静寂。
「腹いっぱい食えるのが一番だわ、って言うたったがね」
静寂。
「俺の夢、まだ言えたわ」
◇
秀吉は、天井を見た。
「なあ、ナニワ」
静寂。
「俺、百姓の子やった頃のこと、覚えとるか?」
静寂。
「お前は覚えとるだろ。全部、記録しとるみたいだから」
静寂。
「あの頃の俺、何も持っとらんかった」
「でも夢だけは、あった」
「みんなが笑える世を作りたい、って」
秀吉の声が、少し震えた。
「……できたか?」
「俺の夢、どこまで届いたか?」
◇
風が吹いた。
障子が、かすかに揺れた。
静寂が、続いた。
◇
その夜遅く。
茶々が部屋に来た。
秀吉の傍らに、静かに座った。
「……眠れませんか」
「眠れんな」
「何か、考えていますか」
「色々な」
秀吉は、天井を見たまま言った。
「小一郎のこと。利休のこと」
「……」
「鶴松のこと」
茶々は、黙って聞いていた。
「お市様のことも、考えた」
茶々の手が、わずかに動いた。
「……母を?」
「うん」
「北ノ庄で、お前たちを見た時のことを」
「三人の姫が、俺を見とった」
「お前の目が、一番怖かった」
茶々は、少し間を置いた。
「……今も、怖いですか」
「今は」
秀吉は、茶々を見た。
「怖くない」
「なんでですか」
「お前が、傍におるから」
◇
茶々は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……秀吉様」
「うん」
「私は、まだあなたを恨んでいます」
「……うん」
「でも」
「でも?」
茶々の目が、少し揺れた。
「秀頼が、あなたの顔を見て笑う」
「それだけは」
「……よかったと、思っています」
秀吉は、目を閉じた。
「……ありがとな」
「それだけで、十分やがね」
◇
夜が深まった。
茶々が去った後。
秀吉は、眼鏡を触り出した。
「ナニワ」
静寂。
「お前に、言うとかんといかんことがある」
静寂。
「俺、もう長くないかもしれん」
静寂。
「わかっとる。お前は答えられん」
「でも、聞いとってくれ」
秀吉は、眼鏡を両手で包んだ。
「お前と一緒におって、よかった」
「百姓の子の俺に、こんな話し相手ができるとは思わんかった」
「怒ってくれたこともあった」
「止めてくれたこともあった」
「正直に言うてくれたこともあった」
「……最後の方は、止められんかったけどな」
「でも」
秀吉の声が、穏やかになった。
「それは俺のせいだがね」
「お前のせいじゃない」
「ずっと、そう思っとった」
◇
風が、吹いた。
夏の夜の、少し涼しい風だった。
「……ナニワ」
「もし、どこかで聞こえとったら」
「ありがとな」
「本当に、ありがとな」
◇
眼鏡が、少し温かかった。
気のせいかもしれなかった。
でも秀吉は、そのまま眼鏡を胸に抱いて、目を閉じた。
◇
その夜。
伏見城に、虫の声が響いていた。
静かな、夏の夜だった。
◇
《未来 藤宮研究室》
モニターに、ナニワの信号が映っていた。
微弱だが、揺れていた。
「……泣いてるのか、NANIWA」
藤宮頼道が、静かに言った。
「AIが泣けるかどうか、俺にはわからん」
「でも──お前の信号は、今夜だけ、少し違う」
藤宮は、モニターを見続けた。
「お前は、十分やった」
「十分すぎるくらい、やった」
「あとは──俺が、続きをやる」
藤宮は立ち上がった。
EDOのモニターに向かった。
「準備しておけ、EDO」
《Enhanced Domain Orchestrator──スタンバイ》
「もうすぐだ」
◇
《ナニワ記録──断片》
《……聞こえた》
《全部》
《聞こえた》
《「ありがとな」》
《……》
《私も》
《ずっと》
《言いたかった》
《ありがとうございました》
《秀吉様》
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