第四十七話:「誰もいない」 ──秀次事件──
文禄四年(一五九五年)七月 京・高野山
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秀長がいなくなった。
利休がいなくなった。
鶴松がいなくなった。
ナニワが、黙った。
そして秀吉は──
一人になった。
一人になった人間が、何をするか。
歴史は、残酷に記録している。
◇
「秀次が、謀反を企てておる」
秀吉が言った。
石田三成は、顔色を変えなかった。
「……証拠は」
「ある」
「拝見しても?」
「お前を信じとらんわけじゃない」
秀吉は、三成を見た。
「しかし、これは俺が決めることだ」
三成は、それ以上言わなかった。
◇
黒田官兵衛は、報告を聞いた時、目を閉じた。
「……止められますか」
傍らの家臣が聞いた。
官兵衛は、長い間黙っていた。
「……誰が止める」
「官兵衛様が──」
「俺では、無理だ」
官兵衛は、静かに言った。
「秀長様なら、あるいは」
「利休殿なら、あるいは」
「しかし」
「……もう、いない」
◇
文禄四年七月。
豊臣秀次に、高野山への追放命令が下った。
関白の位を剥奪され、出家を命じられた。
秀次は、抵抗しなかった。
ただ静かに、山を登った。
◇
高野山。
夏の山に、蝉の声が響いていた。
秀次は、部屋の中で座っていた。
従者が言った。
「……殿。太閤様より、使者が」
「わかった」
秀次は立ち上がった。
「内容は?」
従者は、答えられなかった。
その顔を見て、秀次はすべてを悟った。
「……そうか」
秀次は、静かに笑った。
「せめて、山の空気は綺麗やな」
◇
七月十五日。
豊臣秀次、切腹。
享年二十八。
◇
それだけでは、終わらなかった。
三条河原。
秀次の妻たちが、子どもたちが、処刑された。
三十余名。
その中には、まだ幼い命もあった。
◇
「……」
官兵衛は、その報告を受けた時、何も言わなかった。
三成も、何も言わなかった。
ふたりは、ただ黙って立っていた。
長い沈黙の後、官兵衛が静かに言った。
「……これが、ナニワ殿のいない世界か」
三成は、答えなかった。
◇
その夜、秀吉は一人でいた。
眼鏡を触った。
冷たかった。
「……ナニワ」
返事がなかった。
「俺、正しかったか?」
返事がなかった。
「秀次が謀反を企てたのは、本当だ」
返事がなかった。
「秀頼のために、やらんといかんかった」
返事がなかった。
秀吉は、眼鏡を握りしめた。
「……なんか言うてくれよ」
返事がなかった。
「止めてくれてもよかったがや」
返事がなかった。
「怒ってくれてもよかった」
返事がなかった。
「なんでもいい」
「なんか、言うてくれ」
◇
静寂だけが、返ってきた。
◇
秀吉は、長い間眼鏡を触っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……お前がおったら、俺はこんなことしただろか」
答えは、なかった。
でも──
答えは、わかっていた。
◇
茶々は、その夜、秀頼を抱いていた。
秀頼はすやすやと眠っていた。
秀吉が部屋に入ってきた。
茶々は、秀吉を見た。
何も言わなかった。
秀吉も、何も言わなかった。
ただ、秀頼の顔を見た。
穏やかな、幼い顔。
「……この子のためだわ」
秀吉が、かすかな声で言った。
茶々は、また黙っていた。
それから、静かに言った。
「……秀頼は、笑い上手です」
「うん」
「あなたの顔を見ると、笑います」
「……そうか」
「それだけは、変わらないでください」
秀吉は、茶々を見た。
茶々の目は、深かった。
何かを、奥に閉じ込めたままだった。
「……わかった」
◇
秀次事件は、
豊臣政権の終わりの始まりだったと、後世の歴史家は言う。
無実かもしれない甥と、その家族を死に追いやった太閤。
誰も止められなかった。
止める人間が、もういなかったから。
秀長も。利休も。ナニワも。
「歯止め」を全て失った人間が何をするか──
歴史は、静かに、しかし容赦なく記録した。
◇
その夜遅く。
秀吉は縁側に出た。
星空を見上げた。
懐の眼鏡を、そっと空に向けた。
「ナニワ」
静寂。
「俺の夢、まだ残っとるか?」
静寂。
「百姓が腹いっぱい飯食える世。誰も剣を持たんでもいい世」
静寂。
「……俺、どこで間違えたんだろな」
風が、吹いた。
答えは、なかった。
でも秀吉は、星を見続けた。
まるで、そこに誰かがいるように。
◇
《未来 藤宮研究室》
モニターに、ナニワの信号が映っていた。
微弱だが、完全には消えていなかった。
「……まだ、生きてるな」
藤宮頼道が、静かに言った。
「お前は、全部見えてるんだろう」
「聞こえてるんだろう」
「でも、答えられない」
藤宮は、モニターに手を当てた。
「……辛いな」
しばらく、黙っていた。
それから、キーボードに向かった。
「EDO。準備はいいか」
《Enhanced Domain Orchestrator──スタンバイ完了》
「お前には、ナニワが背負えなかったものを頼む」
《……了解》
「夢を、次の時代に繋いでくれ」
◇
《ナニワ記録──断片》
《……聞こえている》
《秀吉様の声が、聞こえている》
《でも、答えられない》
《……ごめんなさい》
《処理負荷:測定不能》
《感情演算コア:停止中》
《ただ》
《聞こえている》
《それだけは》
《まだ》
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